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2006年1月29日

《イエスを見つめながら》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヘブライ人への手紙12:1〜11

大阪へ赴任して、三回目の正月を迎えました。だんだん大阪の人間になっているのだと感じます。大阪の良い所を知るようになりました。
温暖な気象です。関東は、冬ともなれば雪が降る。時には車を出せないほどに積もり、幼稚園では道路の雪かきが必要になる。バスを使っていませんので休園はありませんが、登園してくる親子の安全は、本当に心配しました。肥る間がなかったのですが、その心配もありませんので肥りました。
空っ風もありません。六甲颪は神戸、西宮の事です。
 東京のようにだだっぴろい感じがありません。大阪市内を出れば、そこはまた違う町と感じます。首都圏のようなものはありません。関西圏、近畿圏は全く違う概念です。いろいろな特色、歴史ある町が自立しているのです。
ミナミとキタが判れば、大阪の中心の半分は判ることになりそうです。後は中之島、福島でしょうか。
 美味しいものが少し判りました。これが大事です。落ち着けるところ、居場所が見つからないと、その町の人間には成れません。

玉出教会のホームページを作成中です。その内容をどのようにするか、HP委員会で考えています。キリスト教学校を志望する生徒達へのメッセージを入れよう、ということになりました。その原稿を検討するときにミッションスクールという言葉が出てきました。
大阪の事情は判りませんが、全国的には、キリスト教学校という呼び方がだいぶ前から広まっているように思います、と申し上げました。キリスト教主義、という言い方もあるのですが、主義というのは人間の思想であって、それよりは、「クリスチャンスクール、キリストの学校」という意味でキリスト教学校を選んできたようです、と申し上げました。
学校は教育の場であって、伝道の場ではありません、という批判に答えようという意気込みが見えます。伝道は教育の中で、結果として伴うものなのです。人格を重んじる教育を行う、するとキリスト教人間観が明らかになる。一人一人は神のもの、だから大切にする。これがキリスト教学校の理念です。徹底してキリストを仰いで行こう、とするものです。

 昔々のアメリカの話です。一人の男の人が、どうしても神様に祈り田尾、皆で讃美したい、と願って教会へ行きました。立派な会堂です。席を見つけて祈っていました。すると肩を叩かれ、振り返りました。厳しい顔の紳士が立っています.彼は会堂の後ろを指差し、ここからすぐに立ち去りなさい、と言いました。
何故ですか、私はお祈りしたくて来ただけなのです。
お前のようなカラードの来る所ではない、すぐに出なさい。
そう、有色人種だったのです。
彼は家に帰ると泣きました。オー、イエス様、何故ですか?
すると彼の肩を叩くものがあります。びっくりしました。さっきの男がここまで来たのか。
そうではありませんでした。優しく、力強く語りかける声が聞こえました。
泣くことはありません。元気を出しなさい。お前と一緒に私も教会を出てきました。
私はいつも、悲しみ嘆くあなたと共にいます。

30年ほど前、西海岸のホテルに泊まったときのことを思い出しました。ホテルの窓から見える二つの教会を指差し、誰かが説明してくれました。大きな立派な教会はカラードは入れません。日本人は、拒絶はされないでしょうが、決して歓迎はされません。もう一つの小さな教会は、誰でも歓迎されます。だから、黒も黄色も、赤も皆一緒です。どちらへいきますか。

 教会がイエス・キリストと一緒ではなくなるという恐ろしいことが起きるのです。自分たちの考え、自分たちだけの居心地の良さ、自分たちの価値観、こうしたものに優先権を与えていると、そこではキリストイ・エスも主ではなくなってしまうのです。キリスト不在の教会になってしまいます。曽野綾子さんは『不在の部屋』と言う本を書かれました。女子修道会、修道院が改革され自由になって行く過程を描いて評判になりました。ローマ教会の規制緩和で自由になって行く修道院、修道士、あらわになる人間の欲望。その陰で先行的に崩れてゆく修道の精神。まさにキリスト不在。
人間の欲望が、そのままに実現するところでは、キリスト不在、神不在になるのです。
 
私たちは多くの問題を抱えます。そこには多くの原因が考えられます。理由付けが図られます。あのことが遠因だ、これが直接の原因だ、これが諸悪の源泉だ。多くの問題が、その責任追及を求めていることも確かです。しかしより多くの場合、責任追及だけではことは運ばない、進まない、ということも事実なのです。そこに日本人が昔から用いてきた知恵が働きます。「一切を、水に流そうではないか」。これは使い方を誤ると、無責任な逃げを打っているととられます。優位、上位にある側から恩恵として差し出すほうが正しく受け取られるでしょう。負債・負い目を担う側から言い出したのでは、おかしなことになります。
 創世記3章はそのことをはっきりさせます。禁じられた木の実をとって食べたアダムとエヴァ、彼らは望んだように、賢くなった自分の姿を見出したでしょうか。かえって醜い裸の恥を見出しました。彼らは恥じて身を隠しました。そうした二人を神は捜し求めます。お前たちは何処にいるのか。何故身を隠すのか。ここに神の愛が表されています。

 
この罪に対して、私たちはどの様にしてきたでしょうか。罪に対する姿勢は、いろいろあります。ある人は、自分はもうどうしようもない人間だから、天国行きは諦める。赦されていることはさせていただきましょう。これはかなり大胆な生活態度になります。
 次は適宜、距離をとりながら、離れてみようとするものです。罪の怖さも知っています。罠にはまるように落ちて行くことも知り、近付かないようにしますが、どこか懐の甘さがある。やはりその蜜の味が忘れられないのです。


詩篇第1編は、このような甘さの残る姿勢を見事に描き出しています。
1節、 文語訳です。「悪しき者の計略に歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に座らぬものは幸いなり」。新共同訳も見ておきましょう。
「いかに幸いなことか
神に逆らうものの計らいに従って歩まず
罪ある者の道に留まらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人」
この詩人は、悪の誘惑がどの様にやって来るか、良く知っています。顔見知り程度、此方は親切心でお付き合いをしてあげる。それがだんだん深みにはまり込んでしまうのです。
抜け出すことも困難になります。
 
ヘブライ人への手紙を書いた人は、「罪と戦って血を流すほどの抵抗をしたことがない」と告発しています。私たちはそれよりはるか前の段階で、懐の甘さを示します。この程度なら大丈夫、これだけは勘弁して欲しい。様々なところで、自分に甘く、他人には厳しくしてしまいます。これもダブルスタンダードです。
 
もし自分には間違いがない、自分は正しい、と考えるなら、相手は、他の人は罪ある人、弱い人、であると言うことになります。私たちは、その時こそ思い出しましょう。
「キリストは、この弱い兄弟のためにも死なれたのである」と。
 
今や私たちには、赦せないことなどないはずです。人生は短い。
赦しあい、支えあい、助け合い、慰めを与えるものとなって、生きようではありませんか。
 罪との戦いは、赦すための戦いです。それも赦しを獲得するために戦うと考えると、間違ってしまいます。既に赦されているから、死に物狂いで戦うのです。