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2011年3月6日

《奇跡を行うキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ 9:10〜17

今日は、二十四節季の啓蟄、と聞きました。冬篭りしていた虫たちが、地中から首を出す日とか。大地の温度が、それだけ高くなる、ということでしょう。陽射しも明るさを増し、温かさを感じさせられます。と言ってもそれは、昔の日本国の主要地域のことではないでしょうか。恐らく、京都を中心にした近畿を想定して、考えたことでしょう。域外の南や北の地域は、それとは違う暦で、季節は動いている感じです。

とりわけ沖縄・北海道は、琉球・蝦夷と呼ばれ、大和朝廷の支配圏外でした。それほど違っていた、ということでしょう。桜前線の移動を見るようになると、良く分かります。沖縄の緋寒桜は、とっくに咲いているはずです。伊豆の河津桜も咲いています。北海道は雪です。二十四節季は、当てはまりません。

日本列島の細長いことが感じられます。鹿児島から青森まで、本州を新幹線が一本につなぎました。お急ぎの方は飛行機、そうでない、ゆっくり旅行を楽しみたい方は新幹線、または夜行急行、ブルートレインをどうぞ、となるのでしょうか。それでも、随分早いものだ、と感じます。

大阪・東京間を特急つばめ・はとが、8時間半で走っていた時代と比較しています。特急列車に乗った人も減って行くことでしょう。同区間を2時間半で走る、と聞いて、びっくりするのが普通でしょう。奇跡的なことです。それを聞いて、見て、びっくりしない人がいたらもっとびっくりします。これまた奇跡です。

前回は、主イエスの癒やしの記事を読みました。癒しといえば奇跡の出来事です。
本日は、《奇跡を行うキリスト》が、主題とされています。主イエスには数多くの奇跡があります。当然、癒しとは係わりのない奇跡もあります。先ほど、幼少科で子供たちに話した事ですが、たくさんの魚がとれたことも一つの奇跡です。嵐を鎮めることも奇跡です。
旧約以来、奇跡がたくさん書き記されてきました。それを現代の科学知識に適合させて、信じる、という人もいます。合理化です。私は、その立場をとりません。イエスがなさったことだ、人間に出来ないことも、イエスは何でもお出来になる、と信じています。
 学生時代、軽井沢で、東京教区CS教師研修会があり、出席しました。主題は、『奇跡』。
講師の東方信吉牧師は、質問に答える形で、「奇跡は、イエスだからお出来になる。私は、それを信じます」と言われました。ほぼ半世紀が経ちました。大事に記憶しています。

 今朝は、これを基本姿勢、としながら、奇跡の持つ意味、メッセージは何かを考えます。
まずこの記事は、十二人の者たちが宣教に派遣され、帰ってきた所で始まります。
このこと、この順序に何か意味があるのでしょうか。単に偶然なのでしょうか。
この奇跡は、四つの福音書が書き記しています。小見出しの次,カッコ内に同じ記事が読まれる箇所が記されています。ヨハネ福音書にもあります。ヨハネを含む四福音書に共通する奇跡物語がある、これはたいへん珍しいことです。
四人の福音書記者が、等しく大切なこと、と認めたのでしょう。全ての福音書記者が大事なことと認めた唯一の奇跡、ここにはどのような意味があるのでしょうか。

先ず、前後の関係を見て見ましょう。本日のところは、五餅二魚、5000人の給食、として知られています。その前後にどのようなことがあったのでしょうか。
マルコ6:30〜44、ナザレで受け入れられない、十二人の派遣、Bp・ヨハネの殺害。十二人の報告、五餅二魚・5000人。8章で四千人の給食、ファリサイとヘロデのパン種、ベトサイダの盲人、そして8:27〜30キリスト告白、受難予告、変貌山9:2〜13。
マタイ14:13〜21、ナザレで受け入れられない。Bp・ヨハネの殺害。五餅二魚・5000人。湖上渡渉、ゲネサレトの病人。15章(四千人の給食)があり、16:13〜20キリスト告白。受難予告、17章変貌山。
ヨハネ6:1〜14、ベトサダの池で38年間病気の人を癒やす。安息日論争《御子の権威・イエスについての証し》。五餅二魚、5000人。湖上渡渉。イエスは命のパン。
ルカ9:10〜17、ヤイロの娘と十二年間長血の女、十二人の派遣、ヘロデの戸惑い。五餅二魚、5000人。ペトロのキリスト告白、受難の予告、変貌山。

大雑把に流れを見ると、イエスに対する多くの人々からの支持が、ナザレで断ち切られます。それに代わるかのように、十二人の弟子たちが派遣されます。帰って来ての報告は、良好なものでした。ここで、イエスは既に殺害されたBp・ヨハネの生き返りだ、という噂が取り上げられます。ここでは、ヘロデの疑問が見られました。権勢を誇るユダヤの王が、一介の庶民の動向に関心を寄せ、この人は一体誰か、と考え込んでいます。

そしてパンの奇跡です。ここからは、事の順序が少し変わっています。それでも奇跡が更に行なわれ、キリスト告白、受難予告、変貌山と続きます。
ところが、ルカだけは、だいぶ違っています。ナザレで受け入れられなかったこと(マルコ6:1〜6)を、ルカは4:16〜30に置きます。これは、ガリラヤ伝道の初めの頃のことです。預言者も郷里では受け入れられないもの、当たり前の現象です、と軽く伝えているように感じられます。
他の福音書は、イエスが好評を博している最中に拒絶する者がいた、と驚きを感じ、暗雲が漂い始めたように伝えます。
ルカは、主イエスが宣教活動を繰り広げ、発展しながら、パンの奇跡、告白、受難予告、変貌山と続け、盛り上がるようにした、と感じます。

パンの奇跡を見ることにしましょう。
「使徒たち」は文字通り訳せば、遣わされた者たちです。9:1で、12人が派遣されました。
彼らが、帰ってきて報告しています。神学校では、夏期伝道実習の報告会が開かれます。
神学生たちが、それぞれの体験を語ります。労苦に満ちたものが多く、この国での伝道の課題を見出しています。諸教会に公開すると良いのではなかろうか、と感じます。学報に一部は掲載されています。ご覧いただきたいものです。

 主は、彼らを連れてベトサイダに退かれます。そこへ多くの者たちが追いかけてきました。イエスは彼らを受け入れ,教え、癒やしておられました。夕刻になり、十二人の者たちは、イエスに言いました。「群衆を解散させてください。各自で食事をさせましょう」。
人里離れた所ですから、私たちには、彼らの食べ物を用意できません。そうでなくとも、5000人分の食事など用意できるわけがありません。

 でも主は言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。パン五つと魚二匹しかありません、これが弟子たちの応え。
主イエスは、意外なことを言われます。50人一組にして座らせなさい。100組ですか。
そして、パンと魚をとり、天を仰いで讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせた。何かが起こっています。奇跡が。その詳細は、私たちには隠されています。
結果は、見ることが出来るように、告げられています。「全ての人が食べて満腹した。残ったパンくずを集めると、十二籠もあった」。
本当に満腹したことが示されています。中華料理では、お皿などに少しだけ料理を残して、満腹のサインとするそうです。
又、この恵、神からのパンは、十二部族に行き渡ることが、象徴的に示された、とも言われます。

さて、このようなパンに関わる奇跡は、このときだけでしょうか。
出エジプト記16章、エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野に入り、エジプトの肉鍋を懐かしがります。それはエジプトでの豊かさを求め、帰りたいと言う願いだったのでしょう。主なる神は、夕方にはウズラを与え、民はそれを拾い集め食します。朝には、与えられたマナを集めてパンとしました。このマナは、荒れ野の40年間、続きました。

列王記上17章、ケリテ川のほとり、数羽のカラスに養われる預言者エリヤ。川の水が涸れた後は、シドンのサレプタへ行き、やもめの家で養われます。
列王記上19章、預言者エリヤは、イゼベルの殺意を恐れて、神の山ホレブへと向かいます。イスラエルの預言者は全て殺され、最後の一人となっていました。
ヤハウェに対する信仰を正しく継承できるか否か、危機的な状況です。40日40夜歩き続け、ホレブに着きます。その間、彼を支えたのは御使いが持って来る食べ物でした。

これらは、神の民イスラエルが、神ご自身のみ手により、生かされ、守られ、導かれていることを示すものです。それほどに重要な意味を持つことだから、四つの福音書が共有する唯一の奇跡となったのです。
私たち信仰者は、新しいイスラエル、神の民です。神ご自身が守り、導き、生かしてくださいます。ここパンの奇跡には福音があり、慰めと希望があります。

教育会館、西側のステンドグラスをご覧下さい。山田和巳さんが創られました。
旧会堂に使われていた黄色のガラスで麦の穂が作られ、赤いガラスで丸い形が五つ、これはパンです。青いガラスで魚が二つ。五餅二魚の奇跡とヨハネ12:24、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」。
あるいは、列王上17を象徴しているとも考えられます。

聖餐式は、キリストの教会にとって真に生命的に重要なものです。
命のパンである主イエスを分かち合うことです。
そして聖餐は、天の御国における食卓の先取りです。
御国を信じる者には大きな意味があります。
今は、信じていない人も、その意味が分かるようになり、信じる者と成れば、この喜びを一緒に味わうことが出来るようになります。その時を目指して、聖餐の式を守りましょう。
感謝して祈ります。