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2010年11月14日

《救いの約束(モーセ)》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヘブライ8:1〜13

  降誕前節第6(三位一体後第25)主日、
  讃美歌31,352,502、交読文42(マタイ伝6章)
  聖書日課 出エジプト3:1〜15、へブライ8:1〜13、ルカ20:27〜40、 
       詩編77:2〜21、

 本日の聖書は、ヘブライ8:1〜13です。
ここでは、この手紙の主題に沿って最も重要なことの説明がなされます。
 大祭司には、供え物と生け贄を地上の幕屋で捧げる務めがある。
 天にある真の幕屋で、偉大な方の右に座る方こそまことの大祭司である。
 この大祭司は、より優れた契約の仲介者である。
 出エジプトの際の、最初の契約は、彼らが、そのうちに留まらなかった故に失われた。
 彼らの心のうちに律法を書き記す。全ての人に私が判るようになる。
 私は、彼らの罪を決して思い出さない。

 6行に分けて書いてみました。省略しすぎて分かりにくいかもしれません。
ヘブル書の記者は、『出エジプトの時、シナイ山で石の板に書き記された律法を徴とした契約は、イスラエルがそのうちに留まらなかった故に、無効になった。今や、律法は心のうちに書き記され、全ての人がそれを知るようになる。これが新しい契約である』、と語ります。この「新しい契約」は、エレミヤ31:31〜34に記されているものです。
従って新しい契約は、エレミヤによって預言されていたものが成就したのだ、となります。

 それ以前の「古い契約」は、モーセの時のものです。
 モーセの生涯は、波乱万丈、スピルバーグ監督の映画ソックリ。
その所為だろうか、ハリウッドで映画化され、大勢の人に観られました。
あれは映画最盛期だったのだろうか。ファラオにはユル・ブリンナー、モーセをチャールトン・へストン、後は忘れましたが、エドワード・G・ロビンソンが出ていたことは覚えています。
セシル・B・デミル監督は、サイレント時代1923年に『十戒』を作りました。1956年、歴史スペクタクルの超大作としてリメイクしました。同じ監督が、これほどの大作を二度も製作したこと、他の監督はついに手がけなかったこと。この二つは、いまだに評価され、驚かれています。

 本題に戻りましょう。モーセの生涯は、エジプトにおける寄留の外国人、イスラエル民族への迫害の中で始まります。イスラエル人はエジプト人よりもその人口が増加しました。力強く、逞しく、エジプト人は圧迫されるものを感じたようです。
 現代でも、人口は国力の表れ、と考えられています。
出エジプト記は、第1章から劇的で不思議な緊迫感を漂わせています。
兄弟たちから殺されそうになったヨセフが、エジプトに来て宰相となったのは、カナンの地に居るイスラエルを、世界的な飢饉から救うためだった、と教えられ、神への信仰を深められるように感じました。
 
 その後、歳月を重ね、エジプトには『ヨセフのことを知らない新しい王が出て』1:8、奴隷となっているイスラエルについて国民に警告します。この民は、数を増し、力を持ち、我々の敵となり、国を取るかも知れない、と。
 彼らは、ピトムとラメセスの町の建設に従事し、虐待されます。彼らの生活は脅かされました。その中でもイスラエルは逞しく、その力を増して行ったのでしょう。ファラオは命じます。1:16「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」。

 この命令を受けた助産婦二人、シフラとプアは、男の子も生かしておきます。そして、
「ヘブライ人の女は丈夫で、私達の助けなしで生んでしまうのです」と答えます。
こうしてどれ程多くの嬰児が助けられたことでしょうか。二人は、この世の王の命令よりも、主なる神のみ心こそ重んじなければならない、と固く信じました。その信仰と働きを称えるかのように、聖書は二人の名を書き残し、三千年以上にわたりその名は記憶されてきました。

 民族の危機、命の危機の中で、モーセは生れます。生まれた男の子はひとり残らずナイル川に放り込め、と言う命令の中、生まれたモーセは、3ヶ月間隠されていました。それにしてもナイル川に投げ込め、というファラオの命令は、エジプト人の言葉とも思えません。
ナイル川は、大昔からその沿岸の人々に恵みを与え続けてきました。春、南の高地の雪解けにより増水し、氾濫します。水が引いたあとには肥沃な土壌が残されます。ナイルの農民は、肥料要らずで、毎年確実に豊かな収穫を楽しみました。地中海世界に旱魃・飢饉がやってきてもナイルは世界の穀倉であり続けました。
『エジプトはナイルの賜物』。これは、ヘロドトスの言葉です。

 アスワン・ハイダムの建設によってその様子が変わりました。1960年の着工時、ナセル大統領は「ピラミッドの17倍にもなるこのダムが完成したなら、今後全てのエジプト人に対して優れた生活水準を保証するであろう」と語りました。ダムは新しい農地を生み出し、農業収入を引き上げました。人間は全てを見通すことは出来ません。
 完成後、沿岸の農民は、大量の化学肥料の投入を余儀なくされました。
 更に地中深くから塩分が浮き上がってくるようになり、その中和に苦しむようになりました。ピラミッドやスフィンクスにも害が及んでいます。
ダムの功罪は、今後長く論議されるでしょう。

 このような恵の源に命あるものを投げ込む、ということは日本人には考え難いことです。
水や木や山に神が宿る、と信じてきたのです。その故に水を汚してはならない、と考えてきました。教えられてきました。エジプト人でも同じでしょう。その命の水に、子供を投げ込め、という命令は、エジプト人にもヘブライ人にも受け容れ難いものだったでしょう。

 モーセの名は、「引き出された者」を意味します。さらに「引き出す者」になったと考えられます。水から、ナイルから、命の危機から引き出され,また引き出す者になることが意味されているのです。
モーセは、エジプトの王女に救われ、その宮廷でエジプトの王子として成長します。そうした彼も、自分がヘブライ人であることに目覚め、同胞イスラエル人の役に立とう、と思います。奴隷として虐待されるイスラエル人を助けますが、イスラエル人からは受け容れられません。そして逃亡を余儀なくされます。ミディアンの地へ逃れました。

 ミディアンは、カナンからは真っ直ぐ南へ下って、紅海に達した辺りです。アラビアの砂漠の、西北のはずれでもあり、エジプトからは遠く、その勢力下にあっても重要視されない所だったに違いありません。逃亡者モーセが安全に暮らせるところです。
ここでモーセは、エジプト人の手から一人の娘を助けます。それがチッポラで、その父親はミディアンの祭司です。二人は結婚し、男の子が与えられゲルショムと名付けます。

 その後が3章です。「燃える柴」の物語が有名です。
柴が燃えているが、燃え尽きない、というのは「セントエルモの火」という現象と同じであると言われます。私は見たこともありませんが、火が燃えても燃え尽きないという現象があることは確かです。それでもこれは、神の奇跡です。

 燃える柴の中に主の御使いが現れ、更に、声をかけられます。
「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」。昔、講壇に上がる時は、履物を脱ぐ習慣があったようです。半世紀前、夏期伝道実習のため行った教会では、スリッパを脱ぐよう命じられました。夏は良いけれど冬はどうするのかな、と考えました。
聖なる場所、神の居られるところ、それは天の高みにあるのではなく、柴も生える、ごく普通の所です。神の御旨ならば、燃えてなくならない様にすることもお出来になります。
最も穢れたところも、神は聖なる所とされます。
 主の言葉は続きます。それはモーセを、イスラエル人たちをエジプトから連れ出すためファラオのところに遣わす、というものでした。
奴隷の労役に苦しむイスラエル人たちの声が、主に届きました。主はその民の声に耳を傾けておられます。その苦しみ、痛みを知っておられます。主は、憐れみをもってイスラエルを引き出すことに決められ、その指導者としてモーセを派遣されます。彼自身、その名の意味を理解するようになります。

 しかしモーセは、自分の力を承知しています。以前のように、自分こそ、とは考えません。あれは青年の客気。今は、弱気になっている、とも言えるでしょう。これこそ召された者のとるべき態度です。形式的になってしまうことが、一番怖いですね。

 恐れるモーセに対する神の言葉は二つ。
「私は、必ずあなたと共に居る」。力強い言葉です。.
「私はある。私はあるというものだ」。これは神の名を問われて、答えたものです。在りてあるもの、という訳もありました。初めからあるもの、存在の存在、創造の神、絶対者と理解しましょう。この名を告げるならば,イスラエルは、この神を知ることが出来たのです。そして、モーセを信頼し、神を礼拝するため、この山に来るのです。

 モーセは、エジプトに戻り、イスラエルを指導し、ファラオと戦い、奴隷の民を導き出します。40年間、荒野を旅します。この時の民は死に絶えて、ほぼ全員が約束の地・カナンにはいることが出来ませんでした。それほどに、この民は罪に染まっていました。
契約に留まることが出来ません。そのために、彼らは捨て去られるでしょうか。その彼らにこそ、新しい契約が与えられるのです。石の板に書かれた律法ではなく、全ての心に書き記された掟によって、人は、罪人を救う神の意思を知るようになります。

 救いとは何でしょうか。どうすれば救われるのでしょうか。他にも、癒やし、解放、連れ出し、といった言葉が同じ意味で用いられます。救いにはいくつかの条件があるように感じられます。
自分の力で何とかできる時は、救いは成立しません。万策尽きて、どうにもならないときにのみ、救いは成立します。
荒磯で浪にさらわれると、その時はびっくりしてアップアップします。誰かが声をかけて「お前は泳げるんだろう、泳げ」と言うと、気付いて泳ぎ始めます。救いは不要です。
石の板に書かれた律法を頼るイスラエルはこの泳いでいる人です。救いは必要ありません、と言っているのです。泳いでいるつもりのあなたは、その実泳いでいませんよ、という言葉で実情に気付いた時、救いは始まります。
 救いは備えられました。泳いではいない実情に気付かなければなりません。
 喜びと感謝をもって救いを受け容れましょう。祈ります。