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2010年10月3日

《執り成し》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヘブライ6:4〜12

  聖霊降臨節第20(三位一体後第19)主日
  讃美歌86,497,250、交読文36(イザヤ11章)
  聖書日課 出エジプト32:7〜14、ヘブライ6:4〜12、マルコ14:43〜52、
       詩篇106:6〜23、

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。あの暑さはどこへ行ったのかと思うほど、朝晩は、すっかり秋の気配になりました。教会の庭の何箇所かで、彼岸花が咲いています。今年は10日ほど開花が遅れているそうです。
牧師館の庭の南では、今年はじめての花が咲きました。春蘭と良く似た細い葉です。ピンクの綺麗な花です。蘭の一種でしょうか。遠目には百合のように見えました。今年の猛暑と雨の少なさが良かったのかもしれません。(のちほど、ナツズイセンです、と教えられました。)鉢植えになっているので室内に入れて、眺めています。以前の住人のどなたかがお手入れしておられたに違いありません。何年も経ってから、ようやくご苦労が実る、という点では子育て、教育にも似ています。考えさせられます。「私は植え、アポロは水潅ぐ。されど育てたもうは神なり」?コリント3:6。

 さて本日の主題は《執り成し》。聖書はお読み頂いた通り、ヘブライ6:4〜12です。
すでに、9月19日に《キリストに贖われた共同体》と題して説教したことが、深いかかわりをもっています。
イスラエルの民のための執り成しは、大祭司の務めです。大祭司は、民の罪を贖うため年に一度、神殿において犠牲の血を捧げます。家畜の血によって、年毎に、イスラエルの罪が贖われ、清められました。

 十字架に架けられた御子イエスは、家畜ではなく、ご自身の体をもって、贖いの供え物とされました。裂かれた肉、流された血汐は、聖晩餐の裂かれたパン、救いの杯となり、主日の礼拝ごとの聖晩餐の式となっています。
 キリストは永遠の贖いを全うされた救い主です。その意味で、ご自身の血による贖いをなされた《永遠の大祭司》、とも呼ばれます。

 ヘブライ書は、5章前半で、大祭司キリストを語り、後半は信仰者のあり方、生き方を語ります。そこでは、信仰も進歩発達が望ましい、と書き記します。母乳を必要とする時期は短く、固い食物を食べるようになりなさい、と勧めます。何時までも信仰の初歩に立ち止まっていてはなりません、ということでしょう。これは良く理解出来ますが、それだけではないでしょう。

 信仰には知的な面と霊的な面、そして生活・行動の面があります。
そのようなことを考えると、信仰の進歩、という言葉は何を指しているのか、分からなくなるし、心配にもなります。ある人は、信仰において、非常に直感に恵まれ、霊的に信仰を捉えて行きます。
ある人は信仰の知的な面は少しだけでも、大胆に生きて行くことが出来ます。信仰者各人は、信仰のスタイルが違っていることがあるのです。違っていることも認められるのです。

 スタイルが違っていても、違う形の進歩があるでしょう。進歩する能力を神様から与えられているでしょう。私は、進歩する力があるのに、怠惰であって、その力を働かせず、進歩しようとしないことが責められている、と感じます。毎日、聖書を読み、祈りを捧げる。このことによる進歩があります。これだけですと、知的に偏っているでしょう。読めない人は、聞きましょう。聞こえない人は御言葉を感じましょう。他の信仰者の行動に触れて、感じることができます。
読み、語ることが出来る人は、出来ない人に触れさせ、感じるようにすることが大事です。

 さて第6章に進むと、教えの基本を繰り返すことをやめて前進しよう、と語られます。
そこには、何が基本であるか、記されています。悔い改めと信仰、バプテスマと按手、死人の復活と審判が挙げられています。三対六種の基礎事項と呼ぶことがあります。これをみると、教会の歴史は、基礎的、基本的な教えの中身をめぐって展開されてきたことが分かります。これらを巡って信仰が一致せず、教会は分裂してきました。教えの初歩を後にして、進むことが出来たなら、どれほど明るく、力ある教会になるだろうか、と思います。

 成熟を目指して進みましょう、と2節で語り、3節では、「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」と書きます。これは、信仰者が謙遜に生きようとする時、大変重要なことです。自分の思い、考えだけではなく、客観的に神の意思を訪ね求める、ということです。牧師は、自分の進退でも、役員会、総会と二重に確認します。

 ここから、本日の聖書箇所になります。
信仰からの脱落者について語ります。パラペソンタスは、そばへ落ちる、踏みはずして落ちること、を意味します。大きく脱落してしまうよりも、近くにいながら、離れている、と感じさせられます。そのような人のためには、もはやキリストの十字架は、贖いはありません。そのような人は、自分の手で、もう一度キリストを十字架につけようとするものです。それは許されず、起こり得ないことです。

 9〜12節では、最後まで希望を持ち続けることが勧められます。脱落者について、厳しいことを書きました。しかし皆がそうなっているわけではありません。「愛する人たち」と語りかけます。神は義なる方、公正に全てのことを見ておられます。
あなたがたの働き、聖徒たちに愛をもって仕えたことを、決して忘れるようなことはありません。多くの学問や、知識、業績は忘れられるだろう。一つだけ忘れられないものがあります。
それは愛の業です。愛は永遠です。神は、私たちの愛の業を永遠に忘れません。

 ある伝道者は、このような言葉を書きました。
『一つの教派が、自分たちの信条の正統さをもって他の教派を裁く時、神はその理論の正否よりも、その愛の有無に目を留められるでしょう』と。
 ヘブライ書の記者は、この意味で愛を更に増し加えるために、希望を充実させようとしました。愛のあるところ、執り成しの祈りが始まります。

 ヨハネ福音書は、主イエスの執り成しの祈りと私たちのする祈りとを、教えています。
先ずヨハネ17章は、新共同訳では単に『イエスの祈り』という小見出しがつけられている。
古くは、この部分を『大祭司の祈り』と呼んでいました。その内容を端的に示しています。どちらを使ってもよろしいのですが、私自身は大祭司の祈りを選びます。
この祈りによって、私たちは『執り成しの祈り』の本質を知ることが出来るでしょう。

 この祈りでは、祈る私と、それを受ける父なる神と、彼らすなわち御子に与えられた者たち,そして「世」コスモスという語が目に付きます。秩序、宇宙、被造物全体。神を離れている世界、肉的・この世的な生き方の中にある人間の総体、がコスモス。
ここから、主イエスの執り成しの祈りがどのような広がりを持つか、明らかになります。
主は、父なる神とその民・人間との間に立って執り成しをします。創造主と被造物の間にあって、被造物のために祈ります。神に語りかけています。

 その中身は何でしょうか。
主は、この祈りの中で、何を求めておられるでしょうか。
ご自身のために、「(天地創造以前に)私がみもとで持っていたあの栄光を与えてください」と求めます(5節)。
続いて6節では、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」を「彼ら」と呼びます。彼らはあなたのものであり、その故に彼らを守ってください、と求めます(11,15節)。
更に、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」と祈ります。
四番目は21〜23節、「全ての人を一つにしてください」と祈っています。

 これが、主イエスの執り成しの祈り、大祭司の祈りです。

 とりなしには、二つの方向があります。
神に代わって、その裁きを知らせ、悔い改めを迫る預言がある。上から下へ。
罪人に代わって、裁きを思い返して欲しい、と神に迫る祈りがある。下から上へ。
主イエスは、御父の右に座して、すべての執り成しをしてくださいます。
この主イエスに頼って、私たちは祈りを捧げることが出来ます。

 ヨハネ14:13,14、「わたしの名によって願うことは何でも叶えてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしが叶えてあげよう。」
 ヨハネ16:23,24、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 私たちは、キリストの名によって、祈り求め、執り成すことが許されています。
他の人々のために、愛をもって祈りましょう。他の教会のために、他の教派のために、
他の国々、他の民族のために、執り成しの祈りを捧げましょう。

感謝して祈ります。