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2010年5月2日

《神の民》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ15:1〜11

  復活節第5主日、讃美歌6,352,344、交読22(詩95編)
  聖書日課 出エジプト19:1〜6、?ペトロ2:?〜10、ヨハネ15:?〜11、詩15:1〜5、

 ふと気が付いて、周囲を見ると百花繚乱、新緑萌ゆ、と言いたい状況・容子です。
先週辺りも冷たい雨が降っていて、冬物を着たりもしていました。メールなども、寒いですね、が挨拶でした。それなのに昨日は腕まくりしていましたし、花も、草も、小鳥も虫も皆、春から初夏に移った感じです。自転車を陽あたりに出せば、2〜30分で熱くなります。寒い、寒い、と言っている間に、時間は過ぎ、季節は確実に進んでいます。
昨日 紅顔の美少年 今日 白髪の老人
少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず
幼児の成長は早く、壮年もその歳月の余りに速く過ぎ去ることに驚かされるのです。

 マルコ福音書1:15は、神の国の到来を告げます。「神の国は近づいた」と。
「近づいた」の原語はエーンギケーン。これは、いまだ来てはいないが、限りなく近くまで来ている、と説明されます。この頃の気候は将にこのエーンギケーンではないでしょうか。寒さが感じられているので、まだ春ではない。初夏なんかとんでもない。然しそうは言っても、確実に春は来ているし、更に初夏に突入している。神の国は、来ていない様に見えても、確実に来ている。私たちは、確実に神の国へ突入しているのです。
 愚かで鈍い牧師の戯言(たわごと)でしょうか。どうぞおゆるし下さい。

 さて本日の主題は《神の民》です。神の所有物、神の国の国民、神の国の市民、然し神の奴隷とは言いません。神の僕(しもべ)、この表現はよく用いられて来ました。奴隷も僕も同じ原語ドゥーロスの訳語です。民の原語はラオス、一つの民、民族、とりわけ神が特に選ばれた民について言うことが多い。かつてはイスラエル人、今はクリスチャンを指す。稀に民衆、群衆、人民を指す。

 神の国が到来しているなら、そこにいる者たちは皆その国民である、と言いたくなります。わざわざ《神の民》という主題を掲げるのは、神の民とそうではない者がいることを指しているように感じられます。どうでしょうか。ご一緒に読み、考えて見ましょう。

 新共同訳聖書は、小見出しをつけています。翻訳は一つの解釈である、と言われます。
小見出しは、それ以上に一つの解釈を主張しています。とても便利です。ありがたい、と感じます。それでも使い方には気をつけましょう。絶対的なものではありません。聖書本文でもありませんから、教会の集会では小見出しは朗読しません。

 このようにご注意を促しておいて、小見出しをご覧いただきましょう。
イエスはまことのぶどうの木」、これが小見出しです。1節から17節まで、かなり長いものになります。長い場合、短い段落に分けるのが普通です。
二人の学者の説をご紹介します。
1〜8,9〜17節に分ける考え(ブルトマン)
1〜11、12〜17節に分ける学者(シュナッケンブルク)
どちらかと言えば、ブルトマン説を受け入れます。
8節まではぶどうの木に関する教説。
9節以下は、愛し合うことを勧める教え。
このような構成になっている、と考えます。

 ぶどうの木の譬、これはイスラエル民族のものです。
 出エジプト記を主題としたハリウッド映画があります。《十戒》と名付けられ、1957年、セシル・B・デミル監督、モーセにチャールトン・へストン、エジプト王ラメセス2世がユル・ブリンナーでした。この映画は、デミル監督が1923年、世に送ったかつての名作をリメイクしたものです。

 この映画の中で、エジプトを脱出した多くの人々が、蜿蜒長蛇の列を作り砂漠へと進んで行く場面がありました。その中には名優エドワード・G・ロビンソンの姿もありました。その近くに荷物を背負ったロバがいて、その脇腹の辺りにぶら下がっているものがありました。よく見ると、短く切ったぶどうの木です。下のほう、布に包まれているのは根の部分でしょう。細かいところまで考えて造っていることに感心した記憶があります。

 エジプトはブドウ栽培が盛んで、ワインも飲んでいた。ちなみに、世界で最初のビールもこのエジプトであったとされています。それをそのまま、脱出の民は移そうとしたのです。後のイスラエルではブドウ酒が造られ、飲まれました。今日でも「カルメル」という名のワインが有名です。

 主イエスは、このような伝統の中におられたから、ぶどうの木の譬をお話になりました。
稲作の伝統を持つ国、民族の中におられたら、また違う譬を話されたに違いありません。どんなことを話されたでしょう。聞いてみたいですね。

 私が不思議に感じていることがあります。それは、主イエスはオリーブの木について話しておられない、ということです。主イエスの身近にこの木があったはずです。その実を日常的に召し上がっておられたはずです。油もよく用いられたに違いないのです。
 ことによると、主イエスにも話し易いこと、話し難いことがあったのでしょう。

 この譬は何を語り、何を告げているのでしょうか。
神の民の、福音に基づく真実である、と言いましょう。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」キリスト・イエスは、ぶどうの木。
父は農夫。木の手入れをしてくださる。そして木は成長し、実を結ぶ。
人がイエスに繋がっており、イエスもその人に繋がっていれば、豊かに実を結ぶようになる。イエスと人の関係は相互的である。パウロが語るとおりです。主我にあり、我主にあり。パウロの神秘的合一と言われるが、信仰にあってはこれが現実です。

 ローマ6:8「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」281ページ
6:11「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。

 ぶどうであれば、必ず成長する。枝を張り、葉をつける。その下に小鳥も宿るだろう。人をはじめ、あらゆる生き物は、暑い夏の陽射しを避けて、休むことも出来る。
更に、実を結ぶ。そのまま食用にされ、乾燥させたものはもっと滋養豊かなものとなる。実を絞った汁はジュース、ワインとして愛飲される。中央アジアからメソポタミア、更に地中海世界にかけての全域で、このようなぶどうが知られていました。愛されて来ました。

 このところの特徴は、ぶどうの木の譬が、愛することへの勧めと結び付いていることでしょう。木と枝は結び付き、手入れをされて成長し、結実します。
 何をもって結実と考えるのか、その答えが、愛することの教えです。

 私たちと主イエスと父なる神との間には、大きな考えの違いがあります。
私たちは、それぞれが人生の実りを考えていることでしょう。今、季節は初夏、これは誰もが認めることです。然し、わたしたちの人生を考える時、人生の四季は各人によってまちまちです。各人各様です。春夏秋冬、どれが良い、悪いという事ではなく、どの辺に差し掛かっているか、ということです。

 ある人は春、産まれ出たばかりのようで、たくさんのことを学んでいる最中。何もかもが初めてのように感じられ、充実している。
また、夏の盛りの人もいましょう。力に満ち溢れているように感じられ、何でもできるように感じられます。
あるいは、今こそわが人生実りの秋に入った、と意気揚々の人もいるかも知れません。
ある人は、私の人生も厳しい冬を迎えたらしい、もう何をするにも気力が湧かない、と嘆く方もいるでしょう。
 このような人生の四季という考え方は、歳月に従うものであって、余り、人生の結実、実りとは結び付いていないようです。私たちの一生の実りは、その歳月、時間の分量にはよりません。学校を出て学校、教会へ赴任し、数年で亡くなった同級生が二人います。然し彼らは、自分の働くべきことを確かに知っており、多くの人々から高く評価されました。
ひとりの人の結実は、どれほど立派な業績であってもパウロの考える実りではではありません。どれほど主なる神を指し示し、顕すことが出来たか、これこそ人生の結実です。

 前回の説教で、『栄光は、神ご自身を顕す啓示である』と申し上げました。今朝もまた、同じことを申し上げます。8節をご覧下さい。
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。

 私たちそれぞれが、さまざまに人生を考え、それなりの稔り、結実を考える時、神はそれとは違う実りをお求めになられます。愛し合う私たちは、神を顕すものとなります。

  神がわたしを愛されたように互いに愛する。
  友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
この愛こそ、キリスト・イエスにおいて、神が私たちに顕された愛であり、掟です。
このためにイエスの名によって願う事は、何でも与えられます。
私たちは、この言葉があるからこそ、主イエスの名によって祈り求めて来ました。

 互いに愛すること、これが命じられました。
この命令を行うなら、私たちは、イエスの友と呼ばれます。
もはや、僕とは呼ばれません。ここに福音があります。
感謝しましょう。