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2010年3月14日

《主の変容》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ9:2〜10

  復活前第3・受難節第4主日、
  交読文8(詩27篇)   讃美歌76,132,241、
  聖書日課 出エジプト24:12〜18、?コリント4:1〜6、マルコ9:2〜10、詩27:7〜14、

 先週はまことに不思議な気象状況でした。
啓蟄を過ぎたというのに、この冬一番ではないか、と感じるほどの寒さでした。
一雨ごとに暖かくなる頃合、のはずですが冷たい雨でした。
春一番が吹くかも、との予報でしたが、冷たく強い風が吹きました。
 それでいて土佐の高知では桜の開花が伝えられました。全国の第一号です。次はどこから報告されるでしょうか。
 庭の木々や草の花芽が膨らみ、新芽が開き始めました。もうすぐ春です。

 昨日、バンクーバーで冬季パラリンピックが開催されました。
これは、国際パラリンピック委員会(略称IPC)が主催する身体障害者を対象とする世界最高峰のスポーツ競技大会です。オリンピックと同じ年、同じ場所で開催されます。
2004年のアテネ大会からは、夏季オリンピックと共同の開催組織委員会が運営に当たることになりました。

 最初の大会は1960年、オリンピックが開催されたローマで、国際ストーク・マンデビル競技大会が開かれました。これが、現在第1回パラリンピックと呼ばれています。
 第2回は、1964年、といえば東京です。この時は、国際ストーク・マンデビル競技大会を1部とし、2部は全身体障害者を対象とした日本人選手だけの国内大会として開催。現在では、この両者をあわせて「パラリンピック東京大会」と呼ばれています。
 『パラリンピック』は国際パラリンピック委員会の登録商標です。

 歴史を振り返ってみると、20世紀初頭から、障害者スポーツ大会は散発的に行われています。1948年7月28日、ロンドンのオリンピック開会式と同じ日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で、入院患者を対象とした競技会が行われました。その後毎年開かれ、1952年に第1回国際ストーク・マンデビル競技大会(英・蘭両国参加)。

 「ストーク・マンデビル」は、イギリスの病院の名前です。ここには、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人・兵士のリハビリ科がありました。ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートビッヒ・グットマンの提唱により、車椅子の入院患者によるアーチェリー競技会が行われました。『手術よりスポーツを』の理念の下、行われました。

 『パラリンピック』の名称は、半身の不随(paraplegic)+オリンピック(Olympic)の造語だが、半身不随者以外も参加するようになり、1985年から平行(Parallel)+オリンピック(Olympic)で、もう一つのオリンピックと解釈することになりました。

 当初、IOCはオリンピックまがいの名称使用に不満でした。正式には許諾せず、愛称としてのみ使用されていましたが、1985年正式に使用を認めました。そして次のソウル大会からは、正式にパラリンピックと呼ばれて開催されました。
1989年には、国際パラリンピック委員会が設立され、ドイツのボンに本部が置かれ、継続的に大会が開催されるようになりました。
2000年のシドニーオリンピックからは、同時、同所開催が義務となりました。

 さて日本の事情ですが、オリンピックは「スポーツ」の文部科学省、パラリンピックは「医療・福祉」の厚生労働省の管轄、というように分かれています。回数を重ねるごとに、パラリンピックのレベルは高くなり、リハビリよりも競技として考えるようになって来ました。テニスの三枝選手のようなプロ選手も出現し、世界的に活躍しています。縦割り行政を見直す機会であり、障害者についての考えを改める大きな機会となすべきでしょう。

 こうしたパラリンピックは、障害を持つようになった人々も、同じ人間、同じ尊厳ある人格であることを認識しよう、と主張しています。スポーツを通して、人間としてのアイデンティティーを強め、深めようとするものです。今は二つのオリンピックですが、一つのオリンピック目指して動いているように感じられます。
長くなりましたが、ご理解いただければさいわいです。

 さて本日は、旧約の日課・出エジプト24章をご覧いただきましょう。これは、出エジプトのイスラエルがシナイ山で神と契約を結ぶ場面です。モーセに率いられてエジプトを脱出した奴隷たちは、ヤコブの血筋の者だけではなく、他の血筋、部族、民族の奴隷たちもいた、と考えられます。種々雑多な者たちです。寄せ集めの烏合の衆です。

 荒野の40年は、この雑多な奴隷の民が、一人の神・ヤハウェを礼拝する信仰共同体へと成長するために必要な時間でした。ヤコブの子らだけをとってみても、エジプトへ下った者、カナンに残った者、様々だったことでしょう。
 諸民族からなる奴隷民が一つの共同体になるのは申命記まで。更にカナンの地に残っていた者たちとも融合して一民族となるのはヨシュア記以後になります。
 一つの民族となるためには、出エジプトの出来事を追体験することが必要でした。
後の世代の者たちも、過去の大きな恵の出来事を共々に追体験し、共有化しました。
それが安息日であり、割礼、仮庵の祭りや過越しの祭です。一つの民族となりました。

 本日の福音書マルコ9章は、変貌山の出来事です。
前章の記事から6日経ちました。ピリポカイザリアからガリラヤの南、タボル山に来るだけの時間距離がありましょう。然しこの頃タボル山の頂には砦がありました。その高さも588メートルです。そこである学者は、これは高さ2814メートル、ヘルモン山の山腹で起きたこと、と考えました。レバノン山もあります。高さ1850メートル、ヘルモン山の西になります。一長一短、今となっては確定する事は出来ません。また福音書記者は、示そうとはしていません。好奇心の強い私たちも、ガリラヤ周辺の高い山で我慢しましょう。

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に上ります。恐らく祈るために。また三人は、それを教えるためにお連れになったのでしょう。この三人は重要な時に引き連れます。
此処で起こったことを正確に語る事は出来ません。それでも、これが重要なことであると解るのです。ゲツセマネの園で祈られたときを思い起こしてください。弟子たちから少し離れたところで祈られます。するとその様が変わり、衣は白く輝き、モーセ、エリヤが現れ、イエスと語り合います。

 この様を見たペトロが口を挟みます。「素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」。
ペトロは、何を言うべきか、解らなかったが、とにかく何か言うように心が迫られた様子。
「口を挟んで」という訳語は、出来事に対応して語ることをさす言葉が用いられています。
信仰告白のときも同様でした。自分では解らないのに、内側から迫られて言ってしまう。

 この場面は、主イエスが、イスラエルの律法を代表するモーセと、預言を代表するエリヤから承認されたことを示しています。更に7節では、雲が現れます。この雲は神の臨在の象徴です。ソロモンが神殿を建築し、奉献する時、神殿は雲に囲まれます。神は、このイエスをご自身の愛する独り子である、と認められました。そして「これに聞け」。
私たちが迷う時、耳を傾けるのはこの方です。そして従いなさい、と言われるのです。

 私たちは、日常の生活で何に聞いているでしょうか。どのような声に耳を傾けているでしょうか。イエスこそ主キリスト、と告白しながら、日常生活では、雑誌やケイタイから顕れる占いに注意を傾けていたりするのです。あるいは、自分自身が豊富であると自認する世俗の経験に照らして判断します。更に世の中が評価する学歴や成績、実績を重んじて、その声を大事にするのです。それとも家柄や血筋、名誉でしょうか。
 『これはわたしの愛する子、これに聞け』

 無教会の指導者のお一人に塚本虎二という方がおられました。丸の内の日本工業倶楽部で集会を開き、多くの若者をひきつけ、育てられました。
『どちらを選ぶべきか迷ったら、自分にとって不利益なほうを選びなさい。
そうすればたいていの場合、神様のみ心に適うでしょう。』

 私は、神学校を卒業する頃、この言葉を与えられ、以来これに従ってきました。
振り返ってみると、いつも私自身が望む道とは正反対、不利益に見える道を与えられて来ました。今は、それが御心でした、と言うことができます。野心のようなものがあっても、次第にむしりとられ、剥ぎ取られてきました。これから先、どうなるのか解りません。
お任せするしかありません。

 教会は、新しいイスラエル、神の民と呼ばれます。私たちは、何をもって新しいイスラエルを称することが出来るのでしょうか。キリストを信じる、キリスト教会のメンバーである、あるいは信徒になることによるのでしょうか。さまざまな考えがあります。いかにもそれらしい姿を思い描き、それらしく行動する事は出来ます。でもそれでは不十分なのです。同じ教派、教会の中でも、考えが違います。互いに角つき合わせている状態です。
これがキリストの教会ですか、福音の教会ですか、と考え込んでしまいます。

 私たちが誰に聞いているか、それこそが重要です。一人の方に聴いて、一つの教会になるのです。
 ローマ教会は、教皇の言葉にキリストの声を聞くのでしょう。教皇無謬の主張があります。
枢機卿が補佐するので間違いはない、とも聞きました。でも人間です。

 キリストに聞く、従う。他のものに聞いていたなら、従っていたならそれを改めましょう。
これが悔い改めることです。方向を転換することです。

 他のどのようなことで一致があっても、たいしたことではありません。キリストに聴いたか、何を聞いたか、何処で従ったか、これが大切なことです。一つの教会になる道です。

 主イエスはそれをお喜びくださるでしょう。祈ります。