降誕節第8(顕現後第6、大斎節前)主日、交読文15(詩51篇)
聖書日課 ヨナ1:1〜2:1、ヘブライ2:1〜4、マルコ4:35〜41、詩編125:1〜5、
カナダ西部の都市バンクーバーで雪と氷の祭典が始まりました。折角の五輪開催なのに、バンクーバーは10年振りの雪不足と聞きます。画面で見ても全く雪がないことに驚かされます。アメリカのワシントンは珍しいほどの大雪、行政にも影響が出そうだ、と報じられるほどです。大西洋側と太平洋側では、気象は随分違うものなのでしょう。それにしても皮肉なものです。思い通りにならないものです。五輪の期間中に降る可能性はあります。世界中の人たちが大喜びするでしょう。
その世界の中で、ハイチは特別です。1ヶ月前、大きな地震に襲われ、死者23万超と報道されています。阪神・淡路との違いは、火災です。神戸では火災による死者が随分出てしまいました。本当につらいことでした。幸か不幸かハイチでは火災の煙は殆んど見えません。それでも、家屋の倒壊のため、その下敷きになって亡くなる人が多かったようです。オリンピック・ファミリーは、このハイチに対してどのような配慮が出来るのかな、と考えます。賢い人たちの集まりです。きっと何か考えるだろう、と感じています。
私にとって、五輪は別世界のものです。余りにも遠く、隔たった世界です。手も足も触れたことのない競技、ということでしょうか。確かに憧れた事はあります。でもそれがオリンピック競技となると、またまた別種の物になってしまいます。これをビジネスチャンスとする多くの人たちによって経営されているスポーツ・ショウ。選手たちは純粋な競技者なのでしょう。それを見ることには違和感はありません。楽しむこともできます。
五輪を利用して利益を求める人たち。民族や国家の優位性を煽るような報道の仕方。そうすれば容易に視聴率を稼ぐことができるのでしょうか。これまでにも自重、抑制が語られ、求められてきたのに、少しも改善されない。マスコミ、メディア自体がそれを指摘したのに、自分で破っています。それでも観る値打ちはあります。
世界中のメディアが集まり、最高の機械・マシーンを使い、最高の技術を用いて報道します。ギリシャのオリンピックは、全ての芸術とスポーツの祭典でした。現在の開会式は、批判もあるでしょうが、ある種、芸術の祭典であることを示します。メディアの活動も、情報伝達の競技ではないでしょうか。そのような観点を持つ時、「ドーピングせず、正しくルールを守り」競技する意味が深まるように感じています。
オリンピックを通して平和が実現する、という理念を大事にしたいものです。
本日の主題は《奇跡を行うキリスト》です。
前主日は、《いやすキリスト》でした。四人の男に担がれた中風の人が、その罪を赦され、病をいやされた物語でした。あれも奇跡である事は、間違いありません。福音書は、病気や悪霊からの解放の奇跡を語ります。同時に自然現象を変える奇跡も語っています。
そのほかに、復活も一つのジャンルとしてあげましょうか。会堂長ヤイロの娘(マルコ5:41、タリタ・クミ)、ベタニヤ村のラザロ(ヨハネ11:43)、これらは命そのものへの奇跡ということができます。そして、人を変える奇跡もあります。弟子を呼び集めること従う者とすること、これらが如何に難しいことか、私たちは知っています。
本日は、これらを総括的に扱う、と面白いのですが、そうではありません。自然に対する奇跡だけです。マルコ4:35以下を読みながら、福音に触れるようにしましょう。
主日の聖書日課は、旧約、福音書、使徒書、そして詩編という四部構成になっています。
本日の旧約の日課はヨナ書です。ヨナは船に乗りました。タルシシ行きの船、これは物見遊山ではありません。自分に与えられたニネベへ行く使命を拒否し、神の前を逃れて行く旅です。これまでの行程で疲れたのでしょう。船中に身を隠し、ようやく神の顔から逃れ得たと安心したのだしょうか。ぐっすりと眠り込んでいます。この船を嵐が襲います。神はこの船の中ではなく、その外から働きかけます。守る神としてではなく、裁きを行う神です。
ヨナは熟睡しています。これまで逃げる先を探し、乗ることのできる船を求め、忙しく、あわただしく過ごしてきたことでしょう。ヤハウェを信じる者としては、この広い世界はその手中にある、と信じていたに違いありません。しかし、それも自分が知っているこれまでの世界だけのこと、それ以外の世界にはヤハウェの手も及ばず、眼も届くわけがない、と考えていたのではないでしょうか。この点でも、人間は進歩せず、変わっていません。
人間は自分の都合に合わせて神を推し量り、その限界を設けようとします。
それは無理解であり、誤解、錯覚なのです。人間がいまだ見ず、知らず、触れざる世界も、それは神の被造世界であり、その御手によって保たれているのです。神の御旨に背いて逃亡するヨナは、神なきところなら安眠できる、と思っているでしょう。神なきところなどありません。
彼は、何処へ行っても安眠できるはずがありません。
今、この船中で熟睡しているのは、自己欺瞞と疲労困憊のためです。
本来の眠りは、自分の全てを守る方の御手に委ね、平安を得るものでしょう。
残念なことに、ヨナは委ねるべき方、御守りくださる方を見失ってしまいました。
その方の御手から逃れようとしています。熟睡できるはずがありません。
熟睡しているのは、それほどに不眠状態が続き、肉体的に疲れ果てていた、ということです。
この眠りは、た易く打ち破られます。
実は、このヨナの姿と対照的なものとして、主イエスの姿が記されています。
マルコ4章で、主は譬によって、人々を教えられました。その舞台となった場所は、ナザレから北へ行ったカナ、東のガリラヤ湖畔、カファルナウム、南へ下がったティベリアス、この辺りであろうか、と考えられます。地図をご覧いただくと分かりますが、ガリラヤ湖の西岸、その北半分ぐらいの地域になります。
4:35では、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われます。北にあるカファルナウムから、湖の北辺を対岸に渡るとベトサイダがあります。私自身は、この辺で対岸に渡られたのだろう、と言いたいのです。しかし、5:1を見ると「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。同じことをマタイ8:28は「向こう岸のガダラ人の地方」、ルカ8:26は「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」と記します。写本によっては、「ゲルゲサ」や「ゲラサ」となっているものもあります。いずれもガリラヤ湖の東岸、南にあります。これだと最も遠いところを移動することになります。
実際の動きは分かりませんが、主は、これまでの活動地域を広げようとされた、と考えることができます。ヨナと同じように船に乗り込まれました。そして、艫の方で枕をして眠っておられました。舟に乗り、眠った、同じように聞こえますが、大きな違いがあります。逃亡者ヨナに関してはすでに話したとおりです。
主イエスは、神のみ旨に従い、御国の到来を宣べ伝えるために、進んでおられます。
ヨナと違って、神を恐れる事はありません。全てをおゆだねして、安心して眠っておられます。なんと船の中ですが、枕をしています。「高枕」と言う言葉があります。安心して眠る形容です。主イエスの様子を良く示すものです。安眠できないような時でも、状況でも、御旨に従い、御心に委ねる者は、安眠できるのです。
弟子たちのうち四人は、ガリラヤ湖の漁夫でした。この船は、彼らのものであった可能性があります。弟子たちが漕いで、舟を沖だししています。他の船も一緒だった、とありますので、群衆の中のある者たちは、イエスの跡をあくまでもついて行こうとしたのでしょう。すると「激しい突風が起こり」、波が打ち込み、水浸ししになるほどでした。
此処にはガリラヤ湖の特性が現れています。ガリラヤ湖は周囲を山に囲まれています。南は、ヨルダン川が流れ出て、亜熱帯気候のヨルダン渓谷を作ります。気温の高い低地帯は、高い所へ向かって吹き上げる風を送ります。水蒸気も送りそれが湖上に溜まり、雨を降らせます。この雨風は、突然やってくるため、熟練の漁夫でも察知・予知できず、命を落とす者が絶えなかったそうです。静かな湖が突然、荒れ狂う。船は転覆しそうになる。その恐ろしさを知る漁夫たちにとって、知らない者以上に恐ろしかったでしょう。
弟子たちは、主イエスを起こします。「私たちがおぼれても構わないのですか。」
そこで主は起き上がって、風を叱り、湖に言われます。「黙れ、静まれ。」
風はやみ、すっかり凪になりました。奇跡です。驚きと恐れがそこに漂い、満ちています。奇跡は、不信仰な彼らの只中で起こりました。イエスが救い主、キリストであることを証するために。
この不思議な出来事を見れば、たいていの人はその本質に気付き、信じるものになるだろう、と考えませんか。意外なことにそうではないのです。私たちも同じでしょう。気付かないし、分からないのです。
主は言われます。「まだ信じないのか。」これまでの病気、悪霊に対する奇跡を見てきたはずではないか。そうなのです。奇跡を見ても、驚きだけで、信じる心にはならないのです。
信じるとは、イエスが誰であるかを知ることであり、自分のうちに受け入れることです。
眞の主として承認し、受け入れることです。「信じる」という語は、信仰、信頼、信心などの意味を持つ言葉です。イエスが神の独り子であることを知り、被造世界の全てが従うことを受け入れ、このお方に信頼をおくことが意味されます。
信仰とは信頼です。
弟子たちは、この状況に恐れを抱きます。そして言い合います。
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
主イエスの言葉にも拘らず、彼らは信じることが出来ないでいます。
奇跡は人間の理性には合致しないものです。非合理的であっても、神の理性には合致しているのです。いやしの奇跡でも明らかになったとおり、救いの力、罪を赦す権能があることを証するのがイエスの奇跡です。信じることが出来ない人間でも、遂には変えてしまうところに奇跡があります。イエスの招きは、常に奇跡でした。
ヨナの生涯はこの意味で、奇跡の連続でした。あれほど神に背いたのに、いつも救われる、というのは奇跡以外の何ものでもありません。
奇跡物語は、何時でも、イエスが主キリスト、救い主であることを証するものです。
イエスが救う力を持っていることを示すものです。その意味で、将に福音そのものです。
ただ驚くだけでなく、イエスが救い主であることを認め、感謝して受け入れ、讃美する者でありたい、と願います。