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2010年1月31日

《教えるキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ4:1〜9

  降誕節第6主日、讃美歌79,234A、522、交読文13(詩46篇)
  聖書日課 箴言2:1〜9、?コリント2:6〜10、マルコ4:?〜9、詩編126:1〜6、

 大寒を過ぎたばかり、まだまだ寒い冬のさ中、と思いますが、良く晴れた日中の陽射しには、どこか春めいたものを感じます。気のせいでしょうか、木の芽もふくらんで来たように見えます。万物更新の春と言われます。

 このごろ世間では、若い年代の方が、まだまだこれからという時に、惜しまれて亡くなられることが、多いようです。教会も例外ではありません。
当教会出身の八尾教会・大畠俊勝(おおはた としかつ)牧師が26日、亡くなられました。61歳。奥様の恵美(やすみ)さんも玉出出身でした。先生は教会に仕え、教会の人々も先生を敬愛していました。四人の息子さんを残されて、先生も心残りなことであろう、と存じます。これからのご家族と教会の歩みが守られるように願います。
 先週は、東京の教会でもうひとつ、長女の姑の葬儀を経験しました。これは信徒です。さまざまな葬儀の一つです。

 本日の主題は《教えるキリスト》です。聖書を読みながら、学びましょう。情景から。
 「湖」とありますので、場所はガリラヤ湖。以前は、キンネレテの海、またヘロデ・アグリッパが湖畔に建てた(17年着工、22年完成)新しい町ティベリアに基づいて「ティベリアの海」とも呼ばれました。此処は突然強い風が吹くことで知られています。特に、南のヨルダン渓谷から吹き上げてくる風は、漁師を悩ませ、犠牲者も出してきたようです。風さえなければ、静かな水面は鏡のようになり、湖岸の美しい緑を映して、訪れる人の心をいやす、と伝えられます。

 主イエスは、この湖に浮かべられた「舟の中」におられます。ペトロのものか、ゼベダイの家のものか、語られません。彼ら四人は、その舟を捨て置いてイエスに従いました。彼らは舟を捨て置きました。しかし舟とその家、そしてガリラヤ湖は彼らを待っています。

 明治以来、多くの若者がキリストを信じる者になりました。そのある者は、やがて神学校に入り、牧師・伝道者になる道を歩み始めました。入学の時、普通なら就職して働き始めるはずですから、若者は勘当され、追い出されることを覚悟しました。彼の心の中では、すでに勘当されてもこの道を行く覚悟がありました。彼の家は、通常の日本人の家です。仏壇と神棚があります。律儀に仏事、神事を行い、参加し、納めるべきものを納めています。その家で、彼は異教徒、邪宗門の者です。
 彼は、あの四人の弟子たちと同じように、船と網を置いてイエスに従う心でいました。
しかし舟は、何時でも弟子たちの使用のため整えられ、待っていました。大きな恵です。捨て置かれた舟は、時を得て、主イエスの業のために仕えるものとなりました。

 「おびただしい群衆が」、岸辺に残されました。彼らは主イエスの言葉を求めて、各地からやってきた人々でしょう。湖畔で教えを耳にしました。このくらいでよかろう、という事はありません。まるで蛭のように、もっと、もっと、とお言葉を求めます。彼らは御言葉に飢えています。

 日照りの砂漠のように渇いています。イエスの教えは干天の慈雨のようでした。主イエスは、それを取り上げるつもりはありません。ただ危険を避けねばなりません。ご自身は小舟に移られました。其処から、この切に求める群衆に語られます。
舟の中で腰を降ろし、岸辺の群衆に目をやると、その頭上はるか遠くにか、近くにか、種を蒔く人の姿が見えたに違いない、と考える学者もいます。
主は、すぐそこで起きている出来事、触れることのできるもの、すでに良く知っていることを材料にして、興味深い譬を作られ、人々に話されました。

その一つが「種を蒔く人の譬」です。

 聖書の中には、種まきの譬は幾つかあります。これはその中で、最も有名です。
「種まく人」が種を蒔く。これはミレーの有名な作品の題材になっています。
この風景は、わが国のものではありません。主イエスの国土で、その時代の人々が行う農作業です。現代日本の多くは、機械を操作して作業を行います。それは縄文、弥生期のものとは大違いのはずです。同じように、そうした機械類がない時代、紀元第一世紀のイスラエルで、どのような農作業がなされたか、考えることになります。

 私たちは、この国の農業生活に馴れています。収穫物を食べるばかりで、作る事はしていない人が大部分ですが、それでも日本の、農作業の光景は見慣れています。機械化以前も、以後も、この国の農業者の仕事は丁寧です。畝を作り、種や苗を一本一本植えて行きます。そして、這い蹲るように雑草を採り、水と太陽を調整します。

 現代イスラエルは、キブツと呼ばれる機械化による大規模集団営農スタイルです。
一世紀のユダヤでは、粗放農業が行なわれています。一応、農地は耕作されます。しかしこの土地を人々は自由に歩き回り、通って行く、と言いますから驚きです。棚まきは、この畠をロバに背負わせた袋から種を落とす、という形でなされます。勿論、農夫が自分で袋を背負うこともあります。この袋の隅に穴が開けられています。種はこぼれます。風が吹きます。種は吹き飛ばされます。行く先は、誰に聞きましょう。誰も知りません。神のみぞ知る。
それでも充分な収穫があり、神の恵を讃美できました。

 主イエスが教えられた譬では、どのようなものだったでしょうか。
道端に落ちた種、鳥が来て食べてしまいます。
石地で土の少ない所に落ちた種、すぐに芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
茨の中に落ちた種、茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
他の種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、60倍、あるものは100倍にもなった。

 以上が、本日の箇所の大体です。どの様に考えましょうか。どの様に読み、考えれば、主イエスが教えられたことの核心に到達できるでしょうか。

 教えを切望する人たちに、何故この譬だったのでしょうか。
聖書学者に助けていただき、譬とは何か、ということから考えて見ましょう。

 譬と良く似ていて、取り違えられるものに比喩がある。バークレーは次のように語ります。
比喩は、その物語の全ての部分、行為、細部が、内側の意味や重要さをもっている。従ってこれは、読まれ、研究され、試験、調査されるものである。
これは、ハンターが寓喩と呼び、定義するものと同じです。
「寓喩の場合、その物語のどんな細部にも、それに対応する意味がある」。

 それに対して譬は、聴かれるためのものであり、即座の印象と反応を求めて話されるものである。一度話されてしまえば、繰り返される事はない。ハンターは、「譬では、話と意味とは、あらゆる点においてではなく、一つの中心点で一致している」と指摘します。

 聖書学的な事は、理解を助けるよりも、難しいと感じさせることの方が多いようです。
それでも少しは助けになれば宜しい、と感じます。これらを参考にしながら、もう少し考えて見ましょう。主イエスの時代に身を置いて考えることができれば幸いです。
主は十字架に向かって歩んでいます。多くの人々が、そのとき躓くかもしれません。
70年のユダヤ戦争では、エルサレムが崩壊します。ユダヤ人は、再び散らされ、離散・ディアスポラの民となります。主はそうしたことを全て御承知でした。

 その上で主は、この譬によって何を教えたのでしょうか。幾つかの可能性があります。
先ず、種を福音の言葉と理解するとどの様になるでしょうか。現在、主ご自身がなさっておられるような群衆への教えは、実に無駄が多いように感じられるでしょう。
将来、弟子たちが派遣されて、宣教するときも同じようなことが起こるに違いありません。それでも大丈夫です。大きな収穫が保障されています。

 次に、神の言葉、福音はすでに蒔かれた、と読む時、何を心に刻み付けることになるでしょうか。私たち、あるいはあなたがたは、それぞれの生活に気を付けなさい。蒔かれた種が、奪い取られたり、枯れたり、実を結ばなかったり、ということにならない様に。そして100倍の実を結ぶように気をつけるのです。警告です。

 第三に、神の国が到来し、神の御支配は成長しつつある、と読めるでしょうか。
確かに、主イエスと共に神の愛による支配は到来しました。そして、その支配は拡張されています。大きくなってきました。深められています。励まされます。

 私自身は、どれか一つを採るのではなく、これらすべてをバランスよく取り入れれば良いと考えます。主イエスが教えられた時、これを聞いたとして、その瞬間にどれか一つを採り、他を捨てる、という作業をすることができるでしょうか。私には出来ません。
全体が何を指し示すか、声の調子や、身振り、視線などによって判断しようとします。
そうは言うものの、今私たちの眼前に主がおられるわけではありません。
主イエスが御承知であった教会の今後の苦難を思えば、警告と励ましを残そうとされただろう、と考えます。

 福音宣教の第一声、「神の国は近付いた。悔い改めて、福音を信じなさい」。
この宣言は、確実です。神の国は、限りなく近付き続けています。大丈夫、安心しなさい。
主は言われます。あなたたちは、同時に責任があります。福音の言葉が結実するように気をつけて、それを守りなさい。 
あなたたちの力ではなく、種自体の力によって成長するのです。大丈夫、安心しなさい。 
 さあ感謝しましょう。祈ります。