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2005年8月14日

《み心に留め、風を吹かせられた》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記8:1〜13

讃美歌12,169,330、



箱舟の中の生活はいったい、どのようなものだったでしょうか?

瀬戸内クルーズとか地中海クルーズとか、最近は船旅に人気があるようです。

ノアたち一家は、大嵐の中での出航、見送る人たちは木の上や、高い所に居たでしょう。彼らは、ボンボヤージュを叫ぶでもなく、グッドラックと声をかけるはずもありません。むしろ、この大洪水の中に俺たちを残してゆく不人情ものとの叫び、神の不公平を呪う声、俺を入れてくれと求める必死の声や船板をたたく音。呪詛と怨恨の声です。船の中の者たちは、何も悪いことをしてはいないけれど、いたたまれない思いになったことでしょう。やがてそれらが途絶えると、死体が流れ、ぶつかる音。激しい雨と流れの音だけに変わってゆく。戦争などのときに、多くの人たちが亡くなった後、生き残った人の心には申し訳ないという感情だそうです。

時代は違っても人の心の本質的な部分はあまり変わっていないようです。かれらは、今生き残ったけれども、大きな心の葛藤を経験したに違いありません。

 

耳をふさぎ、肩を落としていたノアたちにもやっとなすべきことをしなければならない、との思いが甦ってきました。何よりも腹をすかせた生き物たちが騒ぎ立てるから、何とかしなければならない。忙しい日常が始まります。船の中で戦場のような毎日です。

お世話をするときは、こちら側の精神状態が落ち着いていることが大切ですよ、と伺ったことがあります。感染するのです。静かに落ち着いているならば、大丈夫。これは、人間の親子関係と同じです。若い母親が、嬰児との関係に不安を感じていると、嬰児、幼児は敏感にそれを察知して、不安げに泣くようになります。可愛いなー、楽しいなー、とゆったりと見るようになると赤ちゃんもゆったりとしてきます。ニコニコ笑います。

 

詩篇46:10、口語訳でお読みします。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。

    私は諸々の国民のうちに崇められ、

    全地に崇められる。」

文語訳も同じでした。「汝ら静まりて 我の神たるを知れ」。

このように出来るノアにとって、船中の一年は苦労も多かったでしょうが、喜び楽しみも多かったことでしょう。



この洪水の一年間は、ノアの一家にとって神を信頼し、委ねる訓練のときでした。

クルーズを楽しむ時ではありません。船を造っていた年月と共に、神に従うことを学ぶ時であったことは確かです。

御心に留めるということは、彼らの生活を見守っていること、その成果を見届けていること、先行きに対して信頼することを意味しているように考えます。

何故このことが大切なのでしょうか。わざわざ書くほどのことでしょうか。ノアたちの心理状況を表しているのです。忘れられた、見棄てられたという不安な心です。

ノアたちは40日40夜、雨、風の中を閉じ込められた状況でした。

現在でも梅雨時に一週間位、雨に降り込められることがあるでしょうか。最近の記憶にはありませんが、昔はそのようなこともあったかに聞きます。東京オリンピックの年に晴天が続いたことを記憶しています。東京砂漠といわれました。嫌な日々でした。数年後にも。

話が少しそれましたが、暗く狭い空間に閉じ込められました。何時終わるかもしれない新しい環境です。これが私たちであれば、神から見棄てられたのではないか、神は忘れてしまうかもしれない、次々と不安が湧いてきます。そうした人間の心情をご存知である神は、心に留められたのです。これは「愛」という言葉に置き換えることが出来ます。



風を吹かれた。ひとつには、船を思いのままのところへ送る手段、船に動力を与えたこと。帆もないのに、という意見もあります。船は高さがあり、更にその上に覆いがついていました。それだけでも風を受ければ動きます。それだけではなく風は波を起こし、流れを産みます。

ヘブル語の風は、ルアッハ。これは呼吸、息、霊と同じです。

創世記2:7、神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられると、人は生きたものとなった、とありました。ここでも、水の洗いを受けて新しく生きようとするノアたちを神の息で生かそうとされたのです。



洪水は、「大いなる淵の源はことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は40日40夜降り続い」て始まりました。そして「淵の源と天の窓とは閉ざされて」雨が止みました。実際のところ、記憶に残る洪水がどのような程度のものであったかは知れません。メソポタミアのどの範囲にまで及んだのか判りませんが、イスラエルの人々は、洪水を引き起こす全能の神の力を的確に理解し、信じているのです。表面的に雨を降らせ、風を送る神というだけではなく、その根源である「淵の源、天の窓」を支配される神を信じているのです。信仰は、すべてのもの、すべてのことの根源に至るまで迫り、そこに神を見るのです。それは古代人の原始的な振興だ、といって軽く見てはなりません。今日私たちが、精神的に苦しいときに同じことを考えているのです。そして自分の考えと神の計画との間にギャップがあることを認め、自分の歩みを神の側に微調整するときに安心するのです。



アララテ山、トルコの東のはずれ、ロシア、イラクとの国境近くにある海抜5165メートルの高山。黒海の東南にある。冬は雪に覆われる。山腹は、絶えず白雲に取り巻かれている。伝説の山であり、幾度も探検隊が入り、箱舟を捜し求めてきました。

1876年、頂上近くで人間が細工をした材木が発見された、という。

1883年には、巨大な箱舟の残骸の発見が伝えられた。

航空機の時代になって、空から遺構が発見されたことが伝えられ、探検隊が捜したがどうしても見出すことが出来ない。

面白い絵本を読みました。ピーター・スピアーズだったかも知れません。

『箱舟そのご』という題名でした。『ノアの箱舟』の続編として書かれたものです。

手に取ったとき、そのアイデア、イマジネーションの豊かさに目を見張りました。これは子どもたちの想像力を刺激するだろう、と思い幼稚園に置きました。子どもたちの人気の一冊となりました。



 すっかり乾いた大地に降り立ったノアたちは何をしたか。最初は礼拝。その後です。

船の板をはがして麓に延びる木道を作ります。船を幾つかに分けてこの道を使って麓へ降ろします。山の上では生活は不自由なはずです。アララテから下ると、現実にその地は水も豊かな平原地帯です。チグリス・ユーフラテス川の源流地域となります。

船底に近い、入り口のあった辺りは、ひっくり返して家になります。家畜小屋もあります。

牧場の柵も作ります。

 こんな絵本を読むと、初めの形のままの箱舟を捜して見つかるはずがないよ、と考えるようになります。貴重な材木をそのまま朽ちるに任せるはずはない、きっと再利用している、と確信します。

 探し出すことよりも重要なことがあります。この地域は東南への傾斜を持っています。洪水は通常であれば、必ずその傾斜に従うはずです。現在のペルシャ湾へ流れ出るはずです。ところが、二つの大河の水源地よりもはるかに高いところに漂着したのです。通常とは異なる、不思議な力、神の力が働いたことを知らなければなりません。

これはノアにとっても予想外のことだったでしょう。下流に流されるのではなく、源流へ戻されたのです。象徴的に語ることをお許しください。これは新しい世界を、元に帰って始めよう、という神の御意志なのです。

現代においても同じことが考えられるはずです。新しさを求めるものは、奇想天外なことへ往くのではなく、源流に立ち返るなら、本当の新しさを見出すことが出来ます。政治も憲法改正を問うなら、その始まりに帰るべきです。信仰を、教会を、そして私達自らの生き方を問うものはイエスの甦りへ立ち返り、学び返すなら新しいことを学ぶことができます。源流に帰ろうではありませんか。
欄外

憲法改定の問題も源流に帰らねばなりません。今の流れは、この国の傲慢と不遜、物質主義、独りよがりな考えだけです。アジアの一国として世界の平和のために何が出来るか、という源流に帰りましょう。