集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2010年1月3日

《エルサレム訪問》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ2:41〜52、降誕節第二主日

  讃美歌85,117,120、交読文17(詩65篇)
  聖書日課 ゼカリヤ8:1〜8、?テサロニケ2:1〜8、ルカ2:41〜52、詩編89:2〜15、

 新しい歳のお喜びを申し上げます。年末からの冷たく強い風で、寒くなり、元旦は少年の頃のような厚い氷が張りました。青い空と乱れ飛ぶ雲、冷たい空気。この一年の環境を示唆している、と見るのは穿ちすぎでしょうか。

 昨年は、なかなかタフな一年であったように感じます。アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが、作中人物フィリップ・マーローに言わせる有名なセリフを思い出します。
「タフでなくちゃあ生きられない、優しくなければ生きる値打ちがない。」
こうした名句は、落語の落ちと一緒で、説明できても、それをしたらおしまい。名句の香りが消えてしまいます。じっくりと味わっていただきたいものです。

 本日は、先ず中高科礼拝のご奉仕がありました。テキストは、ルカ2:22〜38です。
連続した長い箇所を二回に分けて説教している気分になります。錯綜して、これは此処で話すことか、どちらへ持って行くべきか、解らなくなりそうでした。同時進行を止めて、先ず中高科説教の準備を終わらせ、その後、新年礼拝に取り組むことにしました。

 本日の主題は、《エルサレム訪問》。
この言葉だけですと、どこかの教会で行われる説教のようです。牧師が念願の聖地旅行を果たし、帰国して旅行の見聞記的な説教をする。その焦点にもなるテーマです。
 エルサレムを訪れました。その時の状況を詳細に語る。説教になる、としたら、その説教者は、よほど大きな力を持っているに違いありません。
 私自身は、そのような力を持ち合わせてはいません。本来の説教の中に、適切と考えられる記憶を織り込む程度でしょう。本日も、自分のエルサレム訪問が重なり合って感じられます。説教が進む中で、少しばかりお話しすることになるでしょう。

 本日の主題は、イエスが12歳の少年であった頃のエルサレム訪問を、学ぶように求めております。ルカ福音書2:41〜52には、12歳になった少年イエスのエルサレム訪問が描かれています。ただし、これがイエスの最初のエルサレム詣でとは記されていません。
 何故12歳なのでしょうか。スタディ版はこのように記します。
「ユダヤ人男子は、13歳になったときに宗教的共同体の中で全責任を取れるように、12歳で準備した。」 13歳からは、成人男子として認められ、生き、働くので、その準備として、エルサレムの神殿に詣でたのです。
 イエスの両親、マリアとヨセフは毎年、過越しの祭りにエルサレムに来ています。12歳の時だけ息子を連れてきた、とは考えにくい。毎年のことだったのではないでしょうか。慣れがあったからこそ、当然ついてくるはず。ついてこないことに気付かなかった、と私は考えます。

 マリアの夫ヨセフ、口数も少なく、ベツレヘム行きの後、その姿は消えてしまう。
この年までは、確かに両親が揃っている。

 両親は、帰途につきました。一日路ほど行ってしまってから、イエスがいないことに気付きます。ユダヤ人の場合、エルサレムからナザレへ帰る道筋は、通常東寄りに道を選びます。ダマスカス門を出てまっすぐ北に道をとれば、最短のコースになりますが、その途中に異教的なサマリヤがあります。この土地に足を踏み入れないために、たいへんな大回りをしています。しかも厳しい道のりです。そのために強盗に襲われたり、病気になったり、命がけでした。

 私たちは、律法を大事にする人たちを律法主義者と呼び、軽蔑的な態度を取ります。
しかし、あの人たちは自分が大事にすることのために命がけになれる人たちです。
 紀元70年のユダヤ戦争でユダヤ人は、エルサレムの城壁の中に立て篭もり、ローマの大軍に対し勇敢に戦いました。にも拘らず陥落したのは、ローマ軍が安息日に攻撃をかけてきたためです。
 ユダヤ人達は、安息日を守って、命を守るための抵抗すらしなかったと伝えられます。
律法に従い、座して殺されることを受け入れました。
私たちは、何かを守るため、命がけになるでしょうか。そして、一体何が、命をかけるのに値するでしょうか。ヘブライ書12:4は次のようの書いています。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。

 東よりの回り道が、更に逸れてしまいました。真っ直ぐ北上する道を選ばず、オリブ山を越えてエリコへ下る道を下ります。かなり急な傾斜のある道です。強盗が出没するところとして知られ、安全のため人々は集団を組み往来しました。エリコからヨルダン川を渡り、其処から北上します。ルカ10:25以下、『善いサマリア人』参照

 ナザレからの都詣での一団は、一日路ほど行った、とあります。一日の行程はどれほどだったのでしょうか。人間が徒歩で行く距離は、その体格と習慣によって少しは違うでしょう。脚の長さや歩きなれている事は、長く、速く歩くことを可能にするでしょう。それでも基本的には、一里・四キロ一時間、一日八時間が平均的な数字でしょう。32キロ。エルサレムからエリコまでは、およそ24キロ。一日路の距離として良さそうです。
 下り道ですから、まだ明るいうちにエリコに入ったでしょう。そこで大騒ぎになって行きます。親類や親しい者たちのところに居ると思っていたのに、何処にもいない。大変。
最悪の場合、悪者に誘拐されたことも考えられる。最愛の息子が行方不明、両親は、一所懸命に捜します。暗い中を捜したかもしれません。合理的に考えるなら、朝になってから捜しに出るでしょう。登りの道です。処々方々に当たり、捜し、行き交う人にも聞きながら進みます。見つかりません。とうとう「三日の後」、エルサレムに着きました。

 鶯を 探し 捜して 麻布まで   尋ね求めて だったかな、若い頃知ったもので。  
これは六本木に近い三河台の菓子舗「青野」が、自店の『鶯もち』を宣伝した俳句です。もじって、 愛息を たずね 尋ねて 神殿へ

 いました、居ました。イエスがいました。なんと神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り込み、一緒になって話をしていました。聞いたり質問したり、と言いますから、殆んど対等です。そして人々は12歳の少年イエスの賢い受け答えに驚いていました。
 両親は息子のその様子を見て驚き、言います。48節
「何故こんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんも、私も心配して捜していたのです。」これは、愛情あふれる母親の言葉です。最初に、ああ良かった、此処にいたのか、どうしていたのかね。この位は言いそうですが、周囲への配慮もあったのでしょう。

 此処から家庭内のことが、意外な展開を見せます。その鍵はイエスの言葉です。49節
「するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』両親は、イエスの言葉の意味が判らなかった。」
 両親に分からなかった言葉の意味は、今日の私たちにも判りません。考えてみましょう。

 少年の行方が判らなくなり、心配した両親が捜すのは当たり前のこと。捜された少年は、心配させたことを謝ろうともしない。イエス様らしくもありません。
 何故、自分の父の家、と言われるのでしょうか。神殿は最初、ダビデの息子ソロモンによって作られました。列王記上8:23〜53は、神殿が完成した時のソロモンの祈りです。
 その29節にこのようにあります。
 「夜も昼もこの神殿に、この所に目を注いでください。ここはあなたが、『私の名を留める』と仰せになったところです。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」ソロモンは、この前の部分で祈ります。「神は地上にお住まいにならない、ましてわたしが建てたこの神殿など、なお相応しくありません。」と。

 神殿は、神の住まいではなく、神がその目を留められるところです。
 然しイスラエルの信仰の中では、父なる神の家、とされるようになりました。
このことが、イエスの言葉の中に反映しています。ご両親に対して、神の子であるわたしを、何故捜したのですか。捜すまでもなく、父の家、神殿に居るのが当然です。
 マリアとヨセフは、自分たちが育てている12歳の少年イエスを、わが子と考え、さがしました。然し、このときのイエスの意識は違っていました。13歳からは成人男子として一人前、自立して歩まねばならない。今はその準備の時。地上における神のひとり子として何処にいるべきか、その準備が必要。父が目を留めてくださるところで準備をなさったのです。そのための神殿です。

 然し、マリアとヨセフは違います。自分たちの子供を捜していました。イエスの言葉の意味が判りませんでした。解らないままの二人と共に、イエスは、ナザレへ帰られます。そして二人に仕えて、暮らします。神の定めの時まで。

 「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」これはルカが何回か用いる言葉です。
2:19,51(マリアは)、1:66(ザカリヤがヨハネと名付けた時、人々が)。
真に賢い人、神の霊に生かされる人は、不思議なことを拒絶するのではなく、深く考え続けます。

 東から来た学者は、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を求めて、ヘロデ王の宮殿へ行きました。然し、御子イエスは、家畜小屋の飼い葉桶の中におられました。訪ねる先が違うと、お会いすることが出来ません。「父の家」に私たちの主を尋ね求めなければなりません。教会は神の家族です。礼拝者ひとり一人は、神の子です。そのところで、主イエスにお目にかかることが出来ます。なんと幸いなことでしょうか。同時に、私たちは、私において、人々が主イエスと出会う、その準備が出来ているでしょうか。
そのためにも、信仰を整えたいものです。

 エルサレム訪問は教えてくれます。
 あなたは、どのようなイエスを捜していますか。
   罪の赦しを得させる方
 あなたは、キリスト・イエスを何処で探していますか。
   聖書と礼拝、愛のあるところ
 あなたにとって、イエスはどのような方ですか。
   私のすべてを知ってくださっておられる。弱さも、罪も過ちも、傲慢も。  
   しかもこのわたしを赦し、生きよと言ってくださる。
   私の望みであり、慰めの源です。

 このような福音を与えてくださった神に感謝しましょう。