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2009年8月23日

《忠実なよいしもべ》

説教者:
牧師 中谷哲造
聖書:
マタイによる福音書 25章14節〜30節

 御言葉はわたしたちのさまざまな時に語りかけてきます。ある日には、そうでなければ尻込みをするであろう課題を行う勇気を与えてくれます。また、失意の日には立ち上がる力を与えてくれます。ある時、人生航路を全面的に変えたりさせられます。御言葉はまた、時によってわたしたちがどんなに多くの賜物を神から受けているか、気付かせてくれます。どんな時でも、わたしたちが御言葉の力を信じてそれに従うなら、わたしたちを変えてくれるということです。

 今朝、お読みいただいた聖書の箇所は新共同訳聖書の小見出しには 「タラントン」のたとえ と書かれてあります。このたとえ話が言わんとすることを、ルカによる福音書の12章48節の一言に集約されると見ておきたいのであります。こう記されております。

  すべて多く与えられた者は、多く求めら
  れ、多く任された者は、更に多くを要求
  される。

と言うのです。この御言葉からまず注意を惹くことは「多くを与えられた者は」というのと、「多くを任された者は」というこの二つの表現であります。多くであるか、少なくであるかは一応別にして、人生はいずれにせよ、与えられたものでありますし、任されたものでもあります。
 人生そのもが自分の意志で獲得したものではありません。自分から生まれたいと願った人はひとりもいません。気がついたら、この世に生まれていたし、生かされていたのです。そういうわけで、人生は与えられたものでありますし、さらに言えば、任されているものであります。
 この世には、神さまから与えられた人生、あるいは神さまから任された人生とは考えられず、自分勝手にできる自分の所有物であると考える人もいるのであります。だから、こんなものは要らないという人も中にはいますし、煩わしいだけと感ずる人もいたり、またもてあましたりする人もいるのであります。命の尊さ、あるいは命への畏敬という思想を理解することができない人々であります。
 しかし、救われた私どもは、神さまからの御言葉をすでに聞いております。イザヤ書43章4節には

  わたしの目にはあなたは価高く、貴く
  わたしはあなたを愛している

こういうことを語りかけてくださる神さまのみ手に包まれていることを有り難く受けとめております。イエスさまを通じて神さまを知る私どもは、その神さまから私という者がいかに価高く、貴い者と扱われているか、を示されて命への畏敬に導かれるのであります。神さまは、ご自身のひとり子であるイエスさまの命を賭けて、その血で贖いとるほどに愛してくださったのであり、またそれは、すべての隣人の命にも当て嵌まることでありますから、お互い尊敬し合うことにもみちびかれるのであります。

 さきほど、「多くであるか、少なくであるか別にして」と申しましたが、いのちの尊さということを弁えれば、弁えるほどこの「多く」という形容詞は単に複数の意味における「多く」ではなくて、尊厳を意味する形容詞として「多く」と言ってるのかも知れません。「多くを与えられた」とは特定の賜物の豊かさとか、賜物の種類の多様さというよりは、尊厳性をさしているのだと理解すれば、ここでイエスさまが語って下さったこのたとえ話からは大変新鮮な響きを感じ取ることができるのではないでしょうか。それは、イエスさまの成し遂げて下さった救いの偉大さ、その愛の尊さであります。主の愛の豊かさと尊さは、ときに課題に立ち向かう勇気を引き起こして、取り組む意欲を高めてくれます。ときに失意を克服する力となり、進むべき方向を指し示す羅針盤の働きともなります。「多くを与えられた」という言い方で、主の愛の豊かさをときどきに新鮮に受けとめさせていただきたいと祈りたいものであります。

 マタイによる福音書18章21節以下でも一万タラントンという途方もない大きな借金を主君から負うておりました家来が、決済を迫られた話があります。主君は敢えて言うのであります。自分の妻も子も、また持ち物も善部売り払って返済せよと命じました。その家来は返済の誠意を言い表しますが、返済期限
の厳しさに耐えられなかったのでした。そこで、主君がこの家来を憐れに思ってこれを赦し、帳消しにしてやったというのです。これはイエスさまによる罪の赦しであり、こえを受けた家来は「多くを与えられた者」とされた人間の典型にほかなりません。この赦された家来に相当するわたしも、隣人を限りなく赦していくことが要請されるのであります。 だから、イエスさまは祈るべきことを教えてくださいました。

  わたしたちの負い目を赦してください。
  わたしたちも自分に負い目のある人を赦
  しましたように。

今朝の聖句に話を戻しましょう。

  すべて多くを与えられた者は、多くを求
  められ、多く任された者は、更に要求さ
  れる。 ルカ12:48

主の憐れみ、主の限りなく豊かな愛にあずかったわたしは、隣人を限りなく愛し、赦すことにおいて忠実さが求められている。その訴えをきくことが今朝のメッセージです。主の憐れみに応える忠実さです。

 カトリック大阪司教区の補助司教をつとめておられる松浦梧朗神父から、こんな話を聞きました。
広島に原子爆弾を落とすために基地から飛び立とうとしている爆撃機の乗り組み員たちを祝福してその使命を果たすように祈った従軍神父がいました。原爆が投下されてその結果が如何に残酷非道であったかを知ったときに、その神父は胸つまる思いで自分は如何に間違ったことをしたかを知り、悔い改めたというのです。

 5タラントンを預かった僕であれ、2タラントンを預かった僕であれ、それを用いて忠実に商売したという話も、その商売の中身や、運用の仕方の内容は問われていません。要は忠実さであります。しかし、原爆の投下任務を祝福する祈りをささげた神父さんも自分のつとめに忠実だったのです。しかし、神さまの愛に対して忠実だったのではありません。間違ったことへの忠実さもあると言わねばなりません。人間性を問われる酷い商売もあります。それへの忠実は困ります。どこまでも自分のような罪深い者を憐れみ、愛して下さる神の愛に報いようとする忠実さを主は喜ばれ、祝福されます。