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2009年7月27日

《異邦人の救い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ローマの信徒への手紙9:19〜28

  聖霊降臨節第九(三位一体後第八)、
  讃美歌60、304、262、交読文46(黙示録21章)
  聖書日課 創世記21:1〜21、ローマ9:19〜28、マタイ8:5〜13、詩篇102:16〜23、

 22日、水曜日は皆既日食でした。盛り上がったようです。
悪石島の人達は、土砂降りの雨でお気の毒でした。何事も思い通りにならないことは、ご承知のはず。かえつて、みんな一緒に挫折を、悲しさを共有したことで何かが生まれると嬉しいなあ、と感じています。

 関連した新聞記事を読んでいてびっくりしました。セミが鳴き始めた、とあったからです。玉出では、クマゼミやアブラゼミは、日食が始まると静まり返りました。終わるとまたなき始めました。なき始めたセミの種類も書いてあり、暗くなるとなき出すセミが、いることを知りました。南方系のセミで、茨城県笠間市が北限の絶滅危惧種ヒメハルゼミです。沖縄方面の手入らずの照葉樹林にいて、日暮れになると合唱するそうです。開発には、たいへん弱い種類と言います。ヒメハルゼミは太陽が戻ると静まり返り、玉出のクマゼミはなき始めました。
 
 雲の向こう側で、着実に日食は進行していました。玉出でもチャント暗くなり、明るくなりました。
「雲の後ろには、いつも太陽が輝いている」、という英語の諺を久し振りに思い出しました。
日食の時は、創造の神の不思議な力を感じる時でもありました。

 さて本日の聖書、ローマ9章には、「神の怒りと憐み」という小見出しが付されています。
私の尊敬するある牧師・学者は「ユダヤ人の約束と救いの希望」と題をつけました。この先生は、学者である以上に牧師でいらっしゃったのでしょう。新学校教師で、著書・訳書は多数あります。日本キリスト教会の東京主僕教会で定年を迎えたのちに、依頼されて北海道の寒村の教会へ行かれました。寒さが身に沁みるような海岸の小村、と伺いました。鶴のように痩せた、細いお体で、どの様に耐えられたのでしょうか。確か2年ほど居られたはずです。先生は聖書を読み、説教をすることに全力を注いでおられました。慰めと希望を伝えたい、と仰っておられました。そこから、この題が生まれたのでしょう。
 
 同じ箇所を読んで、一方は「神の怒りと憐れみ」と題する。少しも間違ってはいません。正しい小見出しです。そうであっても、少しばかり間違っていても良い、希望と力を与えられるような題を付けたいものだ、と考えてきました。これからも、及ばないながら、努めて行きたい、と存じます。
 正しいものは一つだけではありません。一つだけの正しさを振りかざして、それ以外のものを排除してはなりません。それがディサイプルス教会の『無信条主義』の指し示すものです。このことを大事にしたいと願います。

 さて、聖書の時代には、器ものは、たいてい土器、陶器だったと言います。粘土をこねて形を造り、太陽やかまどで焼いて固く締める。これらは金属で造られた物に較べるとはるかに安く提供されました。勿論、市場で売られるものもあったでしょうが、自分で造ることも出来ました。好きな形、大きさを選ぶことも出来ます。その上、落とせば割れますが、簡単に補充することも出来ました。環境に優しいすぐれもの、と言いたくなります。

 器を作る技術者がいます。それが焼き物師です。
彼は同じ素材から、自在に好きなものを作る権限を認められています。ひとつを貴いことに用いるように、一つは尊くないことに用いるように造ることが出来ます。そして造られたものは造ったものに不平・不満を言うことは出来ない、というのがパウロの語るところです。勿論、焼き物師を神・創造主と考えるゆえですが、そうであっても私たち人間は、今に至るまで、不平・不満を言い続けています。ある時は大声で叫び、ある時には小声であえぐように呟き、訴えます。

 私は、何故私なのか?どうして違う人ではなかったのか。
シェークスピアも同じことを問いかけさせます。
「ロメオ、ロメオ、何故にあなたはロメオなの」。ご存知『ロメオとジュリエット』に出てくる、ジュリエットのセリフです。舞台はイタリアのヴェローナ。対立し、争いを繰り返すモンタギュー(ロミオ)とキャピュレット(ジュリエット)両家の若者が恋に落ちる。
これは一つの典型でしょう。もっと違う形でも問われてきました。

 ある人が言いました。「人間は生まれる時と所は選ぶことが出来ない。悔しいけど仕方がない。だから私は、死ぬ時と所は自分で決める」と。その結果は?
自分で選んだ時が来る前に、病気のため何も出来なくなり、死んで行きました。
本当に弱い器です。しかしこの器も、造り主の大きな力を指し示す器でした。栄光を指し示すことが出来ました。

 私たちは誰でも、神の創られた器です。不平・不満を漏らし続けていてもそうなのです。
神に造られ、用いられるものです。「まさか、こんな私が」、私も同じことを言いたいのです。それにも拘らず、更に大きな目的に向けて神は用いてくださってきました。パウロは、不平・不満を退けます。被造物が創造主に向かって文句を言うことが出来るか、と。

 それだけではありません。神は造られたものに対し怒りを示されるが、それを通し御自身の力を示し、滅びの者たちを寛大な心で耐え忍ばれたのです。しかもそれは、神が憐れみを受けるように創られた者たちに栄光をお示しになるためでした。
全ての人には創られた目的があり、生存の意味があります。
私たちは年を重ね、からも不自由になり、頭もボケてきた、集中できない、と嘆きます。その私たちは、これからもっと大きな目的を果たすように求められています。一粒の麦が、地に落ちて死ななければ実を結ぶことは出来ない、のと同じです。神の目的に向けて、心を高く挙げましょう。

 パウロは、旧約聖書から引用し、説明します。これは読み手としてユダヤ人が多数居ることを想像させます
 9:27・28は、イザヤ10:22・23の引用
「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても,そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。主、萬軍の主は定められた滅びを全国に行われる。」

 9:29はイザヤ13:19
「国々の誉であり、カルデヤびとの誇りである麗しいバビロンは、
神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。」

ソドムとゴモラは、アブラハムの時代に繁栄していた死海沿岸の町。背徳の町々の象徴。その罪のため神に滅ぼされたことは、創世記18:16〜19:29に記されます。
イザヤの時代、繁栄していたイスラエルが、あのソドムのように、ゴモラのようになる、という預言です。
ここまでは、神がイスラエル・ユダヤを滅ぼすであろうことを預言しています。

 9:25・26は、ホセア2:23からの引用です。
ホセア書は、有名なロ・アンミという言葉を用いている。「わが民にあらざる民」の意。
第1章、預言者ホセアの妻ゴメル、彼女はみごもって男の子を産んだ。イズレエル
女の子を産む。ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ、憐れまれず、赦されず、の意である。私はイスラエルを憐れまず、赦さないからである。
しかし私は、ユダの家は憐れみ、これを救う。

 ゴメルはまたみごもって、男の子を産んだ。主は言われた。『その子をロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたがたは、私の民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである。』
 2:25「私は彼女を地に蒔き  ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でないもの)に向かって  あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は「わが神」とこたえる。

 このロ・アンミこそ、私の民でないもの、外国人、異邦人です。

聖書の中で、異邦人とはユダヤ人以外のすべての人々を指す言葉です。
エスノス(元来、ギリシャ語ではポレイスの住民に対して田舎の住民を指した語)
 ? 民族、国民、
 ? タ エスネー(複数)ユダヤ教以外の諸国民、異邦人、異教民族、異教人。

 異邦人とは誰か、何処にいるのでしょうか?
 カミユは、1940年『異邦人』を書いて、一躍フランス文壇の寵児となる。42年出版。
「ママンが今日死んだ」 アルジェから20キロほどの老人ホームからの電報。ムルソーは他の誰よりも母親を愛し、その老いの生活を支えてきた男。
葬儀のためムルソーは休暇を取る。葬儀の翌日海水浴へ行く。美しいマリーを知り、愛する。マリーも結婚を口にする。アラブ人を射殺する。逮捕され、裁判で多くの人が証言する。堅実なサラリーマンで、多くの人から愛される。
しかし検事は、「母親の葬儀で涙を流さなかった薄情な男」という姿だけを残し、印象付ける。ムルソーは叫ぶ。「一体、私は母の葬儀をしたことで裁かれるのか、アラブ人を射殺したことで裁かれるのか、どっちなのだ。」
何故射殺したか、と問われて「太陽が眩しかったから」と答える。

 分かったようなことは言いたくないけれど、彼ムルソーは、何処にいても異邦人なのだ。
社会の常識、こうあるべきだという考え、それらの中にいないで、その外に出てしまった人間だ。異邦人は、国籍、血筋、言語などによるのではなく、その社会との関係によるのではないだろうか。誰であろうと、何処であろうと、居場所を失ってしまった人間は異邦人です。日本に生まれ、育ち、他の何処も知らなくても異邦人になりうるのです。

 社会や慣習のようなものに馴染めない人々、適応が困難な人たち、ことによると私たちはそうした人を退けているかもしれません。多くの人を異邦人にしているのでしょうか。私たちが異邦人なのでしょうか。異邦人もまた救いに与る人だし、その存在の意味を認められているのです。全ての人は、互いに異邦人になっている、というのが現代です。 
 
 この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。コリント?8:11
 感謝しましょう