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2009年2月8日

《教えるキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ5:(1〜12)17〜20

降誕節第七、讃美歌28,246、228、交読文28(詩119篇)
聖書日課 イザヤ30:18〜21、?テモテ4:(4〜7a)7b〜16、
マタイ5:(1〜12)17〜20、詩編119:9〜16、

春の小鳥の姿を見るようになりました。囀る筈ですが、まだ声は出しません。
金曜午後1時、ぶどう棚の西の外れ、玄関を出ると視野の端をよぎるものに気付きました。見直すと、そこにいました。くすんだ茶緑色、風切り羽に細く白色、腹にはオレンジ色。カワラヒワでしょうか。美声で知られるのに、囀りはおろか、地鳴きもありません。声高らかに歌うには早過ぎるのでしょう。珍しく3・4分ほども一箇所にいました。それから牧師館の庭の方へ飛び立って行きました。双眼鏡を持って出ればよかった、といつも思いますがあとの祭り。

37年前、1972年札幌オリンピックの人気者、氷上の妖精・ジャネット・リンの落書き
LOVE、PEACE+LIFE in JESUS CHRIST
真駒内の選手村の一室に口紅で書いたもので、分譲時に一旦消されました。翌年再訪した彼女は、マジックを使って書き直します。今もそのまま残されています。
愛、平和、命(人生)は伝えられました。聞きました。しかし「イエス・キリストにあって」の部分は知りませんでした。私たちにとっては、その重要さが分かります。
重要さがわからない人もいるでしょう。それを感じながら、事実を隠す人もいるのです。
報道の使命は、真実を伝えることです。裁くことではありません。し意的に伝達したり、隠したりするような報道は、その資格が問われます。

本日の聖書日課は、17〜20節ですが、1〜12節がカッコつきで前置きされています。
カッコ内は、有名な至福の教え、あるいは九福の教えとも呼ばれるものです。
この部分はルカ福音書と共通します(6:20〜23参照)。ルカはマタイよりも劇的な文章表現を好むようです。幸いである、喜び踊りなさい、と記し、それに続いて富んでいるあなたがたは不幸である、と記します。そして23節と26節に「この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」と書いて、前後半の締めくくりとしています。

私たちに与えられているのは、カッコつきの至福の教えです。今私たちが読んでも、これは非常に新しい響きを持っています。これはガリラヤ湖の近くで語られたものと考えられています。周囲の村や町から多くの人が集まったことでしょう。彼らは決して無学で、破廉恥な人々ではありません。当時もユダヤ人は、シナゴーグと呼ばれる会堂で、幼少時から律法を学び、教育を受けています。神を讃美するために必要なことだからです。この伝統はイエスの弟子たち、キリスト教会にも引き継がれます。

1620年、ヨーロッパの人々が、自由の大地、新天新地を求めて新大陸アメリカへ航海しました。上陸した彼らは畑を作ります。次に彼らは礼拝堂を建て、其処から道路を決め、住宅を配置します。その次に何をすれば良いでしょうか。信教の自由を求めて大西洋を渡った人々は、聖書を正しく読み、解釈し、神を讃美するために大学を作ります。
神を正しく讃美するために学問が必要でした。

イエスの周辺に集まった人々は、律法を学んでいました。会堂司や学者から学びました。
それとは全く違う教えが語られました。しかも権威あるもののように聞こえました。ということは、この教えに従えば大丈夫、と感じさせられた、ということです。

 スタディバイブルには、律法と預言者について説明があります。
17節、律法は旧約聖書の最初の五書。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。預言者は旧約の預言書のこと。ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、イザヤ書、エゼキエル書、そして十二小預言書を指す。

20節、律法学者の多くはファリサイ派に属していた、と考えられる。ファリサイ派は、律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行なうことや清めの儀式を強調した。

主イエスは、この17節以下で律法について教えられます。至福の教えを伝えたことで、旧来の掟を守る必要がなくなった、と言って喜ぶ人が大勢いたのでしょう。あるいは、律法学者やファリサイ人たちの自己主張に反発している人が、多かったに違いありません。
彼らは律法の専門家です。上手に誤魔化します。律法を守っていることを印象付けます。守れない時は、それを目に見えないところに隠します。彼らは律法遵守の重荷を一般人に背負わせて、自分たちは担おうとはしませんでした。
主イエスは、それだから律法を守らなくて良い、とは教えませんでした。

律法は神とイスラエルの約束のしるしでした。律法を守り、行なうなら、私はあなたがたの神となり、あなた方は神の民となります、という神の恵みのしるしでした。神に背を向け、背く民が何の功績もなしに罪赦されて神の民となるのは、ただ神の恵みによるほかありませんでした。
旧約聖書では、アブラハムは血筋も功績もなしに選ばれ、神の民とされました。
新約聖書では、すべての罪人は、キリスト・イエスの十字架による贖いを信じる信仰により、その罪を赦され、神の民とされました。

キリストは神の恵みそのものです。キリストにおいて、律法は完全に成就しました。
私たちは律法をその一点一画に至るまで守れるでしょうか。義人なし、一人だになし、それは出来ません、と言って降参するほかありません。誰にですか。悪の諸力に対してです。それで良いのでしょうか。

使徒パウロは、エフェソ2:10で次のように語ります。
「私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった良い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」
良い業を行うための神の作品です、と言っています。大胆な断言です。良いとは、神に従うことです。それでも自分を見ると、とても賛成できません。

この人生で、私たちが求めているものは何か?
解っているつもりでやって来ても、しばしば分からなくなる。
同じことをいつも一生懸命やっている。これまでは何も感じなかったのに、ある日突然、自分は何故こんなことをしているのだろう、と感じてしまう。空しさを感じる。
真面目に学校生活をしていた高校生や大学生が急に勉強を放り出してしまう。
勤勉な会社員がある日、ふと疑問を感じ、夜になると繁華街に変装して出没。
現在の自分に嫌気が差す。違う人間になりたくなる。
変身願望を持ってはいないだろうか。

渥美清扮する『フーテンの寅さん』、国民的人気を有するキャラクターと聞きます。
本業は、日本全国を廻って、縁日の露店でたたき売りをする商売人。香具師と呼ばれます。
浅草言問橋の言問い団子のお店が実家、優しい妹のさくらがいて、兄は時々フラッと帰ってくる。そしてまたフラッと旅に出る。
此処にも変身願望があるのではありませんか。優しい兄が、思い立って旅に出る。違う人間になることです。帰ってくる。二つ以上の人格の間を変幻自在に通行・往来できる。
この映画には、誰もが心のうちに持つ願望を満たすようなものがあります。

誰もが持っている願いを密かに叶えるような作品は映画でも、テレビドラマでも、あるいは芝居、小説でも大受けしています。
ひとりの主婦がいる。毎日家族のための家事労働を誠実に果たしている。ある日そんな自分って一体誰なのか。何のため、こういう生活をしているのだろうか、と考える。自分になりたい、突然家事放棄を宣言し、温めていた夢の実現に向かう。
もっと激しく、家族みんなが勝手気ままにやっているのだ。自分も自由にさせてもらう。といって出て行く。ありそうにないことだろうか。

この頃話題になるのは、一家の主が、奥さんと役割を交代しても良い、と考えていることでしょう。ひとり暮らしをしているわけでもないのに、料理を習い、本格的に家事に乗り出す男性が増えているようです。此処にも変身願望。蒸発、熟年離婚。
それまでの固定化された役割を辞め、新しい自分を目指そうとします。
今までとは違う自分を見つけた、作り出したい。それも常識を超えたところで。

かつて、フランキー堺が主演した『私は貝になりたい』、最近リメークされたようですが、これは背景こそ戦争の悲惨ですが、矢張り大きく言えば変身願望です。

私たちは新しい自分になりたい。自然になれるはずはない。自分は造り出し、造り上げるものです。変身願望には良い方向付けが必要です。何処から来て、何処へ行こうとするのか。

札幌農学校のクラーク博士は、辞職して帰国するに当たって、学生たちに、「ボーイズ ビー アンビシャス」と語りました。
「この老人のように」like this old manと語られたという説もあります。

『少年よ 大志を抱け
金ではない、利己的願望でもない、人呼んで名声という空虚な志ではない。
人として追求すべきものの獲得に向かって 大志を抱け』

私たちの多くは、すでに老境に至りました。もはや少年の日々に変えることは出来ません。「大志を抱け」とは無縁の者であるかのように考えているかもしれません。然し、クラーク博士はすでに老境にありながら、母国を離れ、極東の異教徒の国へやってきました。ここには大志がありました。
Like this old manは、現代においてこそ意味があります。
私たちに必要なものは、キリストにあって大志を、野心を抱くことです。
神の良い作品になろう。これが大志です。
神の御旨が解らないときにも、その中に神の御旨を見出すことです。
教えるキリストは、私たちに律法を教えました。その重荷は自ら担ってくださる方です。
罪はご自身の血潮で贖ってくださいました。

キリストのうちに自分自身を見出すものは幸いです。

感謝しましょう。