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2006年2月26日

《イサクは慰めを得た》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記24:34〜67

この章は、繰り返しが多いので朗読は省略しました。後半だけお読みいただきました。
各自、全体をお読みいただきたく願います。

サラの死後、イサクの父親アブラハムは息子の配偶者を求めました。
家令(家宰)に命じます。わたしたちの故郷ハランへ行って、よき嫁を捜しなさい。

何故ハランが故郷なのでしょうか。彼らが出立したのは、カルデアのウルでした。
結局、父親のテラがここで亡くなり、その地に葬られています。この章を読むと分かりますが、アブラハムの一族の者が生活している土地です。この二つの理由がハランを故郷と感じさせているのでしょう。
テラがウルを出立して目指したのは、カナンの地でした。途中で挫折したのです。アブラムは、神の命により、父親の遺志を継いでハランを出で立ち、約束の地、カナンを目指しました。今息子イサクの配偶者、相応しい助け手を捜します。今いる、このカナンの地の女の中から求めようとはしませんでした。カナンの地では偶像崇拝が行われていたということが、大きな理由でしょう。その中にはモロクという神があり、人身供儀を求めた、と伝えられます。環境は大きな教育力を持ちます。カナンの環境の中で育った女性を、新しい民族の母とすることは出来なかったのでしょう。自信がなかったと考えます。
こうした場合、知っているところから求める、捜すのが安心できます。これまで、22:20以下にアブラハムの兄弟の消息が出てきました。何故ここで、これが必要なのか、と考えたものでした。今ようやく判ります。一族の許へ嫁探しの使者を送るのです。

11章と22章20節以下に基づくテラの系図 
テラの父親はナホル。テラの息子はアブラム、ナホル、ハラン。ハランの息子がロト。
このハランはテラより先に故郷カルデアのウルで死んだ。
アブラムの妻はサライ、ナホルの妻はミルカ。このミルカはハランの娘。
テラは、アブラム、ロトを連れてカナン地方を目指したが、途中ハランで滞留する。
テラは、205歳の時、ハランで死んだ。
 ここまでのところ、ナホルが何処にいるか記されていない。
イサクが生まれ、モリヤの山の出来事の後、ナホルの子らについて記される。(22:20以下)
ミルカがナホルに産んだ息子たちは8人、ウツ、ブズ、ケムエル(アラムの父)、ケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエル。そしてこのベトエルがリベカという娘の父である。ナホルの側女も、4人の子を設けている。
  
彼らはどのような生活をしてきたのでしょうか。初めカルデアのウルで、テラと共に一家を成して生活していました。ウルを去り、カナンを目指す一家とは別行動をとりました。ウルに残ったと考えられます。しかしそれも暫くの間で、やがて、ハランの地へ移ったもののようです。それも、何も語られていませんので、テラが亡くなった後でしょう。
ハランへ移動したことで、テラやアブラムたちの無形の遺産を受けて、かなり速く、短期間で豊かになっていたようです。多くの子どもを育てることは豊かさのしるしであり、神の祝福に基づくことと考えられています。

 家宰は、ご主人様に用心深く尋ねます。適当な娘が見つかったとしても、こちらに来るとは思えません。その場合は、イサク様を、あちらへ送って、結婚させるように取り計らいましょうか。
 アブラハムは、たいへん厳しい姿勢を示します。決してイサクをあちらへ連れて行ってはならない。神は、お前の子孫にこの地を与える、と約束してくださった。神は、お前の前に道筋を備えてくださる。もしそうならなければ、お前はこの誓いから解き放たれる。
この厳しさは、神の約束に賭ける厳しさです。むしろ委ねる、というべきでしょう。約束してくださった方は、必ずその成就に必要なものを備えてくださる、との確信です。

 家宰は、誓いをなし、旅立ちました。長いこと、らくだは「砂漠の舟」と呼ばれ、家畜の中でも重用されてきました。運搬用、乗用、乳用、競走用など各種があり、それぞれ血統書付きで売り買いされてきました。10頭は大変な財産となり、その何倍ものらくだを所有する者の資産の莫大さを感じさせたことでしょう。
ナホルの町について、彼は考えました。ヘブロンやベールシェバと違って大勢の人がいる。この中から、どの様に嫁さんを見つけることが出来るだろうか。彼は祈りました。示されました。一つの知恵です。
 多くの町の人が水汲みに来ている。私も水を求めよう。そのとき、私とこのらくだに喜んで水を汲みましょう、と言ってくれる女性がいたら、その人こそイサク様の嫁となるべき人に違いない。神様、あなたがお決めくださったものと致しましょう。
 するとそこへ若く美しい女がやってきて水汲みを始めました。そして、まさに家宰が祈ったとおりにしてくれます。あなたとらくだに水を差し上げましょう。お飲みください。
これは、見知らぬ人に対する砂漠の民の親切さです。らくだは1度水を飲めば、1週間以上飲まずに歩き続けるそうです。それだけに1回の分量は、大変なものがあったでしょう。
それだけの労働を、厭わずにこなすことが出来る健康を保持している、という事です。
 この人こそ神が定められた女性に違いない。ということで贈り物を差し上げ、いろいろ話を聞くと,なんとご主人アブラハムの弟ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘、と分かります。アブラハムからは甥の娘という事です。これがリベカです。ラバンという兄がいます。
家宰はベトエルの家の客となります。そして何が起こったのか語ります。彼女に語り、ラバンとベトエルに語ります。すでにベトエルは死に、母の家と呼ばれていたようです。
アブラハムの指示、家宰の祈り、神のなしたこと、リベカがなしたこと、これこそ祈りの答えと確信すること。主の慈しみが私を導いてくださった。どうぞ、あなた方も私の主人に慈しみとまことを示してください。お願いします。

ラバンとベトエルは、答えます。今日なら、娘の意思を尋ねましょう、と答えるでしょう。二人は、直ちに、「このことは主から出た事です。どうぞお連れ下さい」と答えます。
これを聞いて、家宰は喜び主を讃美し、贈り物を披露します。
次の朝、リベカと一行を伴い出立します。
来るときの一行にリベカとその乳母や侍女たちが加わり、大きな荷物もあったでしょう。労苦は増しますが、家宰にとって嬉しいことです。役目が上首尾であったこと、アブラハム、イサクを喜ばせることが出来ること。家全体の喜びとなること、御心が示されたこと。足取りも軽く旅を続けたことでしょう。カナンを抜けネゲブにきました。

イサクが野に出たのは夕刻でした。「野原を散策していた」とありますが、きじ打ちに出た、と説明されたことがあります。古代人の間でもトイレは天幕のすぐ近くには作らない。衛生上、少し離れたところに造るそうです。散策はお散歩ではなく、狩猟ではなく、生理現象を指す言葉だったようです。

イサクは、その母親の死によって、誰からも慰められ得ない深い悲しみを感じました。
という以上に、この時代の人々が、そして旧約時代の人々が同じ感情、悲しみを共有していた、ということなのです。母親を失うとき、その喪失感は、他の何ものによっても癒やされがたいのです。それが癒やされるのです、と保障してくれています。
 イサクがモリヤの山で、あの礼拝によって傷を負った、と考えられます。しかし、それはここで癒やされます。
精神医学者は、基本的絶対信頼を培う時期に応答する愛が不十分であっても、それに代わる良い経験を積むことで修復できます、と語ります。そのために適切な人が備えられることが必要なのです。それこそ相応しい助け手の本来的役割です。

 聖書の中では、繰り返されていることは、重要なことだから繰り返されるのです、と申し上げました。繰り返しを省略しました。重要なことは何でしょうか。あのところでアブラハムは、神が約束してくださったのだから、神が成し遂げてくださる、ということを繰り返していました。イサクの癒やしは、イスラエルが将来にわたって癒やされる事を示しています。その通りに成りました。
 傷は癒やされる。約束は成就されます。感謝と讃美を捧げましょう。


欄外

家宰は、主人アブラハムの腿の間に手を入れて誓います。
9節は、8節につながります。新共同訳は10節に結びつけるような段落になっていますがおかしい。10節からは旅立ちです。新しい段落の方が宜しい。
腿の間に手を入れる、というのは、親しい間で誓うときの動作。「腿」は男性性器の婉曲的表現か。
らくだの化石は100万年以上前の地層から発見される。ただし家畜化されたのは前二千年紀後半からとされる。

28節、「母の家」とあるのは、父ベトエルが亡くなっていたからであろう。降誕の物語中、イエスを「マリヤの息子ではないか」と人々が語るのと同じである。50節で、ベトエルが出てくるのは不自然。恐らく「彼の家の者」か、彼女の(兄と)母の誤り。

もう一つの要素を考える。それは父親アブラハムのことだ。彼は、自分の信仰の求めるところに従って、息子イサクを焼き尽くす供え物として捧げようとした。アブラハムは、神から与えられたイサクを殺そうとしたのだ。希望の芽を自分で摘み取ってしまうことを神から求められた。はんさい、焼き尽くす捧げ物は自分の罪の贖いとして捧げられるものだ。贖いのために我が子を捧げるか?
前回、申し上げたとおり、この父によって慰めを得ることは難しかろう。

アブラハムについて何も記されていない。聖書の困ったところ。彼がサラを失い、どれほど悲しんだか、寂しく思ったか、家内のことで困難を感じたか、何も書かれない。聖書記者は、それは各自が考えるに任せる、としている。本当に必要なこと、自分が伝えたいと思うことだけ書き記す、これが聖書全巻にわたる基本姿勢だ。