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2009年1月18日

《最初の弟子たち》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ4:18〜25

降誕節第四主日、讃美歌20,120、344、交読文11(詩40篇)
聖書日課 マタイ4:18〜25、エゼキエル2:1〜3:4、黙示録10:8〜11、詩編40:6〜12、



寒い日が続きました。アナウンサーが不思議な表現をしていました。
「真冬のような寒い風が吹いています」、今真冬じゃあなかったっけ?
これはニュースと違います。ニュースは、記者が書いて、アナは読むことに専念します。気象予報士アナは、自分で予報を作り、自分で読み上げ原稿を書く筈です。
「真冬らしい風」とするところを、冬の感覚がなかったため、真冬は来ていない、としたのかな、と感じました。私たちも良くやることです。

昨土曜日から少し寒さが緩んできました。大阪らしい冬、と言うところでしょう。

本日の聖書は、四人の漁師が、イエスの弟子とされる箇所です。イエスを主語に考えると、新共同訳小見出しのように、「四人の漁師を弟子とする」となります。私たちは、無意識のうちに、人間である自分を主人公に仕立て上げようとしますが、聖書は神を主人公、神を主語に語り出します。わたしの人生物語であっても、その主語は、神なのです。

昨土曜日、お昼を食べながら「生活笑百科」を見ていました。そんな時も説教から離れることができません。この番組は、漫才を使った法律相談です。
ある料理人が自分の店を持った。好評で繁盛している。ところが、かつてこの料理屋でひと月ほどアルバイトをしたことのある男が、自分で店を開きその料理人の弟子である、と言いふらしている。大変迷惑している、弟子を自称するのをやめさせられるか、という問題でした。不正競争防止法などで、やめるように求めることができる、という答えでした。履歴詐称もあるだろうと思いました。何処の国、何処の世界・業界でも、弟子と認められるには幾つか、クリアーすべきことがあるようです。私が桂小文治の弟子と言うようなものかな。寄席で噺を聞きますが、それ以上ではありません。

師匠・先生との信頼関係もそのひとつです。あいつから師匠などと呼ばれたくない、あいつはワシの弟子ではない、というような関係は師弟のものではありません。

学び、教える関係が重要です。アルバイトのひと月で、何かひとつを学び取ることは可能でしょう。それが、師匠が学んで欲しいことか否かは別物です。重要かつ中心的なことを身ににつけたか否かが大切なことです。
その人を見れば師匠が分かる、その弟子が分かる所まで来れば、その師弟関係は本物でしょう。弟子を自称するだけでは、いけません。
そして、弟子が何を一番大事に考えているか、が問題になるでしょう。師匠を、その教えを一番としているなら、師匠も弟子を大事に考えるでしょう。

主イエスは、ガリラヤ湖の畔を歩いておられます。湖は、南北に21キロ東西に13キロの小さなもの。マタイはこれをサラッサ、海と呼びます。北側は広く、南は狭まっています。水位は海面より207メートル低くなっています。周囲は温暖で、地質は肥沃で、基本的にガリラヤは、緑の豊かな場所、と考えられています。

一年中、漁師は湖に出て漁をします。周囲の山からこの湖を見下ろすと、一枚の鏡のようである、と言われます。ヨルダン峡谷のこの湖は、南から突風が吹き上げてくるため、突然暴風になることも知られていました。周辺の人々は空を見上げて、その雲行きから天候の急変に備えました。

 三通りの漁があります。一つは、沖へ出て大きな網を二艘の船で引き、大きな魚を大量に狙うものです。
もうひとつは、一艘だけで、投網を打つもの。比較的岸に近い浅瀬で獲物を狙います。三十年以上前、若い人に教えられ、一・二度網を打ったことがあります。なかなか上手な円を作ることができませんでした。一年も続ければ結構上達したかもしれません。彼は、飼っている鴨のために餌の雑魚をとっていました。網に鮎が入っていました。すぐにその腹を割いて内臓を取り出し、食べさせてくれました。川苔の香りがしました。うるかと呼ぶそうです。
忘れてならないのは、竿釣りです。私たちの周囲でも、多くの人が愛好し、川、海、湖沼に竿をたれます。よく「太公望」と呼んだりしてきました。
ガリラヤ湖の漁師はアマチュアではありません。生活をかけた、プロです。それによって自分と家族を養います。

漁師たちは、天の徴を知っています。空を見て変化を予測・予知することができました。
彼らは体力があります。勇気をもっています。釣る人は、忍耐をすることを知り、身を隠し、時と場合、狙いによって餌を変えるすべを知っています。財産と仲間と家族があります。彼らは専門の技術と知識を有する自由の民でした。

主イエスは、岸辺で、船の中から網を打っているシモン・ペトロとその兄弟アンデレに声をかけます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。
彼らは投網を打っていました。直ちに、網を捨ててイエスに従いました。
彼らは、付いて行く条件など何ら考えていません。自分と家族の生活がどうなるか、質問もしません。付いて行きました。
 暫く先に進むと、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと共に網を繕っているのを見出します。だれでも其処に目をやれば見えるものに違いありません。しかし、彼らの中に、表面では見えない何ものかを見出したようです。主は呼びかけました。恐らく「わたしに付いて来なさい」。
 声を聞いて後に付いて行く彼らには、後顧の憂い、というものはないのでしょうか。
自分のことはいざ知らず。共に生活してきた人々に対する責任はどうなるのでしょうか。

召命」の記事、あるいは出来事に必ず付いてくるのは「出る・捨てる」と言う言葉です。
これはキリスト教に限ったこと、と言いたいのですが、そうではありません。
日本仏教では、同じことを「出家」という言葉で表しました。自分の居場所である「家を出る、捨てる」ことが意味されました。
 世俗の家庭や財産を放棄して、釈迦の弟子となり、修行することです。
私たちは、死後仏教徒が掲げる戒名というものがあることを知っています。これは仏弟子になった人、あるいは、戒律を受け仏弟子になった人の名だ、ということです。
日蓮宗では法号、浄土真宗では法名と呼びます。従って人の死後戒名を売り買いするなどということは、とんでもないことだ、と言われます。

 仏弟子となっても、現実の生活の中では、その戒律を守ることは困難、そのため死に臨んで戒名を付け、仏弟子である、としたのでしょう。
明治の頃までは、おきても守られたようです。新政府によって、「僧侶妻帯勝手たるべし」
というお触れが出されて以来、様子が変わった、と仏教側の人が書いています。
随分昔から、仏教寺院や僧侶は、庶民の信頼があり、財産の信託があったと聞きます。それは一部のものだったのでしょう。規制緩和がなされると、してはならないとされてきたことに対する自制も緩んでしまうようです。
 いつの間にか変化があるようです。出家することは、捨てる事ではなく、より多くを確実に獲得することになりました。勿論すべてではないでしょうが。

聖書は、従うこと、捨てることについて、次のように語ります。マタイ福音書19:29、
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
主は、何故漁師を招いて弟子とされたのでしょうか。先ほど、彼らの持つさまざまな資質をお話しました。性格や能力を持っていること。何よりも、専門の技術と知識を有する自由の民、と申し上げました。
  「私に従ってきなさい」という言葉は、「捨てなさい」と同じことを意味しています。
四人の漁師は、捨てるものを持っていました。そしてその自由の意志によって、それを捨てました。
彼らは一切を捨てて従おうとした時、不都合を感じたに違いありません。いつでも取り戻せる、帰ることができる、と思っていたかもしれません。それでも、主イエスについて歩く中で変えられて行きました。徹底的に捨てる者となり、その故にすべてを与えられる者に変えられました。

彼らは何故、すべてを捨てて主に従って行くことを選んだのでしょうか。
当然かもしれませんが、彼らはその時、これから何が待っているか、知りませんでした。
先生は十字架で殺される、弟子たちは殉教の道を歩むことになるなどとは知りません。
それでも知らない道へ足を踏み入れることはしないでしょう。安全な生活、家族への責任を果たす道に留まるのが普通です。

 彼らはイエスの言葉に答えました。イエスの言葉、呼びかけ、その眼差しには、権能がありました。祭司・律法学者たちとは違う権威がありました。権力ではありません。おのずから頭を下げ、ひれ伏すような力が権威です。それは、真実と愛に基づくものです。
イエスを主と仰ぐことは、この権威をイエスのうちに認めることです。その他の何ものでもありません。

自分の外に、このような権威を認める人は幸いです。
主はいつも招いておられます。捨てる者に与えようと待っておられます。
後生大事に抱え込んでいるものがおありでしょうか。
永遠の命とどちらが大事でしょうか。

招きにお応えして、一切を捨てて主に従いましょう。