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2008年12月7日

《委ねられた務め》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイ4:7〜18

待降節第ニ主日、讃美歌23、96、339、交読文23(詩96篇)

聖書日課 イザヤ59:12〜20、ローマ16:25〜27、マタイ13:53〜58、

詩編96:1〜13、


一年はこんなにも早いものか、と思わせられます。2008年も12月・師走になりました。
寒くなりました。上空1500メートルにマイナス6度の寒気団とか、不正確です。

今でも憶えているのは、結婚した頃のことです。埼玉の西部、秩父連山の東の入り口、小さな町の教会。ある冬、シベリアから上空5000メートルでマイナス45度の寒気団が南下してきます、という予報。その頃は富士山頂測候所のレーダーが活躍中です。どんなに寒くなるかと心配しました。その朝、気温マイナス7度、勿論水道は出ません。窓ガラスは内側に氷が張っていました。それ以来冬になると、北側の窓には新聞紙を貼り付けるようにしました。この町から東に10kほどの所が熊谷、埼玉の平野部では一番寒い所として知られています。あの寒さは懐かしくもあり、恐ろしくもある、というのが正直なところです。大阪は暖かなままが宜しいようです。

さて本日はアドベント第二主日です。教会暦では新年度の第二週ということになりました。そして同時に主イエスの来臨を待ち望み、その時のために備える日です。主の来臨が意味する所をよくわきまえることが必要です。

とは言うものの私たちは、それを片脇に置きますが、コロサイ書を学ぶことで御降誕の意味を学びたい、と願います。

ここには、パウロに関係する多くの者たちの名が現れます。

 初めに登場するのは、ティキコです。「主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕・しもべです。」これは最大の評価と言えるでしょう。口語訳は「主にあって共に僕であり、また忠実に仕えている愛する兄弟テキコ」と訳していました。

主に結ばれた、エン キュリオー、以前は主にあって、と訳されていました。文末にあります。翻訳は頭にしています。一つの文章全体を形容する、と理解したようです。

しもべはドゥーロスですが、奴隷を意味します。ここでは、明らかにキリストの奴隷を意味しているようです。スンドゥーロス エン キュリオー、主に在って共に僕である。

スタディバイブルを見ましょう。

7節「ティキコ」は「幸運」の意味。彼は小アジアの出身だった。パウロと共に旅行し(使徒20:4,5)、パウロのために伝言を伝えた(エフェソ6:21,22、?テモテ4:12、テトス3:12)。

9節「オネシモ」は「役立つ」の意味。フィレモンの奴隷だった(フィレモン書参照)。

ティキコとオネシモの二人は、パウロの信頼を受けており、使徒の様子を口頭で知らせることになっていたようです。使徒パウロの使者になっている二人、完璧な信頼を得ている者たち、と言えるでしょう。これが第一のグループです。


次は三人のグループです。10節と11節、「アリスタルコ、バルナバのいとこマルコ、ユストと呼ばれるイエス」。

スタディバイブルは、このあたりは、引照付聖書のように、他の聖書の箇所を書いています。

10〜17節「アリスタルコ・・・アルキポ」殆んどの人は、新約聖書の他の箇所でも言及されている。アリスタルコ(使徒19:29、20:4,5、27:2、フィレモン24)

マルコ(使徒12:12、25、15:36〜39、?テモテ4:11)

エパフラス(17、フィレモン23)

ルカ(フィレモン24、?テモテ4:11)

デマス(フィレモン24、?テモテ4:10)

アルキポ(フィレモン2)

イエス(ユスト)とニンファは、この手紙の箇所のみに記されている。

このところの三人のグループには、三つの特徴が挙げられています。

第一に、彼らは「割礼を受けた者たち」です。すなわちユダヤ人、となります。割礼を誇りとするユダヤ人が多い中で、それを打ち棄て、十字架のイエスを誇りとする者たちです。

次は「神の国のために共に働く者たち」、イエスの宣教第一声を思い出します。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」マルコ1:15。

神の国は、イエスこそ、この世界の主であることを受け入れる所に到来しています。この福音伝道のため、パウロに協力する者たちです。

そして第三は「私にとって慰めとなった人」ということです。親切な、正しい行為・行動によって励まし、慰めることが意味されています。パウロの気に入るようなことをするのではありません。パウロが求めるのは、自分の生き死に関わらず、何時でも主イエスが崇められることです。

次いでエパフラスの名が挙げられます。

彼は「あなたがたの一人」とありますので、もともとコロサイの人なのでしょう。

そして「キリスト・イエスの僕」と呼ばれます。元来、惨めな奴隷を意味する言葉も、キリスト・イエスの僕、と言い習わされるようになって輝きを放つようになりました。徹底的にイエスだけを主と崇め、イエスがなさったように教会に仕える者への呼び方です。呼ばれた者は、誇りを抱き、責任を感じ、身が引き締まる日々を過ごしたことでしょう。

エパフラスは、コロサイの人々のために祈る人でした。「完全な者となり、神のみ心をすべて確信しているように」と祈ります。彼はコロサイ出身で、コロサイで伝道しました。その結果、信仰へ入った人も多かったことでしょう。エパフラスは、彼らの信仰が成長することを祈ります。彼らが神の御旨に堅く立つことを願います。信仰と行状のすべてにおいて、全くキリストの僕となることを祈り願います。

またエパフラスは、コロサイと、ラオディキア、ヒエラポリスのために労苦しています。13節「ラオディキアとヒエラポリス」、ラオディキアはコロサイの西約19Kmに位置した。ヒエラポリスは染色と織物業で有名な都市であった。リュコス河上流にあるラオディキアから約10Km離れたところにあった。

手紙にこのように書いている、というのは、コロサイの人たちが知らないところで、エパフラスがコロサイのために労苦しているのでしょう。祈りの働きは、やがて手、足、体をもってする働きになります。見えない祈りは見えるようになります。私たちには今でも見えませんが、当時のコロサイの人たちには、この所を読んで、あれはエパフラスの働きだったのか、と判ること、見えることがあったに違いありません。

次いで医者のルカとデマスの名が現れます。

ルカは間違いなくルカ福音書の記者でしょう。彼は伝道者パウロの良い助け手でした。
その最後となったエルサレム行きに同行し(使徒20:1以下)、更にローマでの獄中生活も共に居て彼を助けました(?テモテ4:11)。愛すべき医者のルカです。

デマスは、?テモテ4:10に名前が出てきます。珍しく、良い事は何も書かれません。
「デマスはこの世を愛し、私を見棄ててテサロニケに行ってしまい」ました。もっと悪いこと、悪口の類は書こうとはしません。

彼らからコロサイの人たちへ、「よろしく」と伝えます。文語訳では「安否を問う」となっていました。原語では、挨拶という意味の言葉です。確かに、日本語としては「宜しく」でしょう。それでも安否を問う、と聞くと意味が判ります。宜しく以上に、深く心配し、心にかけ、気遣っているのです。

次の部分は、少し様子が違います。流れが変わる、と言っても良いでしょうか。14節は、
パウロ自身が挨拶を告げています。この手紙をラオディキアの教会に回すことになるので、そちらに向けた挨拶を書き加えたものでしょう。「ラオディキアの兄弟たち、およびニンファと彼女の家にある教会の人々」、ラオディキア教会は一つの形だけではなく、家の教会を含んでいたようです。教会が発展するに従って家の教会が生まれた、と考えるよりも、最初の教会は家にあった、と考えたほうが適切でしょう。それが成長して教会の形を成してきたもの、と考えます。

16節は、貴重な情報をもたらしています。「ラオディキアから回って来る手紙」、これはラオディキアの教会宛の手紙について、聖書の中で言及されている唯一の箇所である 。この手紙が、ラオディキアへも回される回覧方式であることはよく知られています。そればかりではなく、ラオディキアから回って来る手紙があるようです。すでに失われており、見ることも出来ませんが、パウロの手紙は、もっと存在した。これから発見されることもあるだろう、と考えると楽しくなります。ただ偽物はご勘弁願いたいものです。

最後に登場するのは、アルキポです。フィレモン2節に「私たちの戦友アルキポ」とあります。フィレモン書はパウロの手紙と認められています。パウロが「戦友」と呼びます。

パウロの戦いは、何に対するものでしょうか。ガラテヤ書が明らかにしています。

信仰を守る闘い、その最悪の敵はユダヤ主義者、更に教会の中でイエスを主と告白しながらそれ以外のものを主としている者たち。

アルキポは主にあって戦友です。共に闘ってきた仲間です。冗々の言は不要です。
短い言葉で通じます。「委ねられた務めに意を用い、それをよく果たしなさい」。
これまでの戦いを続けよう、とのメッセージではないでしょうか。教会の中でも闘いが必要とされます。よく思い出す光景があります。

ある教会の牧師の息子と、その教会の青年の会話です。

「教会で一番偉いのは誰だか知っているかい」
「知ってるよ、僕のパパだよ」
「違うよ、イエス様なんだぞ」

委ねられた務めは、アルキポの闘いを戦い抜くことです。イエスだけを主と崇める礼拝を守ること、その信仰を深めることです。私たちのアドベントは、この勤めの一端を担うことです。礼拝を、信仰を守り、深めることこそ、この待降節に為すべきことです。