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2008年11月23日

《時をよく用いなさい》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイ4:2〜6

降誕前第5、讃美歌12,504,355、交読文14(詩50篇)

聖書日課 マタイ25:31〜46、ミカ書2:12〜13、黙示録19:11〜16、
詩編50:1〜6、



 最近では珍しく、11月中の寒波でした。不用意なため、眠られない夜を過ごしました。

太陽の黒点の活動が少ない、というニュースがありました。このままだと、この冬は気温が上がらないことになる、とも言われます。
温暖化傾向を抑えることになれば嬉しいことだ、と感じました。今のままでは、北氷洋の生き物がかわいそうです。

 最近は、さまざまな事件があり、政治・経済も激しく動き、話題に事欠くことはありません。そうした中で、しばしば内閣総理大臣の言葉が問題になっています。と言っても、地方言葉や訛りのことではありません。語った言葉がすぐ訂正される。内容が明確になっていない。漢字の読み間違いまであります。これでは国民大衆が、政治家の言葉を疑うようになります。日本は言霊の国と言われてきました。そのこと自体危なく感じられます。言葉が不明瞭になり、その場を得ていない、ということでしょうか。

こうしたことを聖書はどの様に語っているか、ご一緒に読みましょう。

先ず2節から4節までは、祈りに関して語られています。
祈りに専念しなさい。これは、使徒言行録6:4で「祈りと御言葉の奉仕に専念する」とあるのと同じことです。私たちの心は、た易くさまざまなことに分かれてしまいます。私たちは、朝目覚めたとき、最初に何を頭に浮かべているでしょうか。感謝の祈りであるように、と言われます。どの様にすれば、そのようになるでしょうか。眠りにつく時、多くのことを考えることをやめます。ただその一日を神に守られたことを感謝し、み名をほめたたえます。「目を覚ましていなさい」と言われるのは、私たちが、見るべきものを見ず、眠っているような状態だからでしょう。覚醒していれば、神の恵みを知ることができます。

次に「私たちのためにも祈って欲しい」と記されます。

「私たち」と言う言葉は、この手紙の差出人パウロを想定・仮構しています。大伝道者パウロが、祈って欲しいと考えています。決して弱虫ではありません。無能でもありません。彼は、伝道の働きは、一人の問題ではないこと、教会全体の力を一つにしなければ不可能であることを知っているのです。個人的な利得ではありません。この「私たち」は伝道する教会です。玉出教会は、毎月第一主日に、互助伝道献金を捧げます。これは、この祈りを現実化したものです。言葉は現実の出来事となります。



 そしてこの祈りでは、二つのことが求められています。

一つは、奥義を語ることができるように、ということです。ミュステーリオンはこれまで、秘密、奥義と訳されました。新しい訳で「秘められた計画」は、神の救いの計画であって、隠されているもの、ことを指しますが、今やキリストの出来事によって明らかにされました。隠れたものが、明るみに出されました。

パウロは今、この救いを語ったために、牢に繋がれています。使徒言行録19:29は、アリスタルコスと共にエフェソで投獄されたことを記します。

?テモテ2:9も獄中のパウロを描き出します。「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖に繋がれています。しかし、神の言葉は繋がれていません」。
このことも、人間的には不幸なことのように思えるでしょう。しかし、その中に神の救いの計画があります。そのことを明確に語ることができるよう祈って欲しい、と言われます。

もう一つ求められるのは、この神の計画を明確に語ることができるように、という祈りです。論理を正しく用い、その限界をわきまえることは神とその御旨を語るとき、忘れてはならないことです。もし説明しつくしたと考えるなら、神ではない何ものかについて説明したのでしょう。

全く新しいことを語る時、或は思い見ることも出来ないことを語ろうとするなら、私たちは人々から指弾され、退けられることを覚悟しなければなりません。嘲られ、罵られ、笑われることさえあるでしょう。それらを恐れることなく、キリストのミュステーリオンを語れるように祈って欲しい、と言うのです。

コロサイ書を書いた人たちは、大伝道者パウロが、嘲笑、罵詈雑言の中で歯噛みしながら、キリストの奥義を語っている姿を見て来たに違いありません。だから、この祈りが必要である、と知っているのです。祈りは支えになります。

これは、私たちの教会の祈りでもあるでしょう。私たちの周囲には、神の恵みが満ち溢れています。しかし私たちは、自分の思い通りに成らないことを数え上げて、神に不平、不満を申し述べているのではないでしょうか。それでは福音の証し人になることは困難です。パウロが福音を伝道したように、私たちも主イエスがキリスト、救い主であることを証しするために何が必要でしょうか。何が求められるでしょうか。

私たちが、神のご計画に対して目覚めた者になり、周囲に溢れているキリストの恵み、神の愛に気付く者になることが必要です。そうするなら、私たちの家庭も、教会も喜びと感謝に溢れたものになるでしょう。

5,6節は、「外の人に対する」ことです。外部の人、差別的だ、と言われるかも知れません。使徒パウロは、同じ言葉を?コリント5:12,13で用います。

「外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。『あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい』。」

或はテサロニケ第一4:12にも、同じ語が用いられます。

パウロは、教会の内と外を厳格に分けています。信仰を告白した者が内であり、まだ告白、受洗に至っていない者が外とされます。大変冷たいように感じられます。彼は願っています。外と呼ばれる人々が、一日も早く信仰を告白して、内になってくれることを。

私たちの教会は、全ての主日礼拝で聖晩餐の式を行ないます。見えざる恩寵の見ゆる徴であり、神の国の食事の先取りである聖餐。信仰者にとって、生命的なものです。そこでは、譲歩することは考えていません。 
ただ、ひたすらに、いまだ聖晩餐に与ることのできない方々が、信仰を告白され、バプテスマを受けて、聖晩餐の仲間となることを願い、祈りつつお待ちしています。

「未信者の方に対する配慮から、我々の教会は聖餐式を減らしている。月一回だけ」、と言われる方が、教会が多いのですが、私たちは、それが生命的なことである故に譲れません。
大変申し訳ありません。どうぞ、この仲間に一日も早くお入りになってください。

外の人は、内から見て無関係な人ではありません。伝道と牧会の責任は、内の人と外の人双方に対して果たされます。パウロはいつも外の人に対し、適切な言葉を用いるように細心の注意を払っていたのでしょう。「外の人に関しては、ソフィアをもって振る舞いなさい」、ソフィアは知恵と訳されます。『神の知恵、人の知恵についても用いる。信仰者の日常生活の事柄に対して正しく的確に判断を下して行動し得る実際的能力を含む』。

伝道と牧会の言葉であっても、それは必ずしも耳ざわりの良い言葉ではなかったでしょう。時には、厳しい言葉であり、突き刺さるように、肺腑を抉るようなこともあったでしょう。口語訳は、優しい言葉。新共同訳は快い言葉。誰にとってでしょうか。相手が優しいと感じ、心地よくなるなら、こちらも優しい心になり、心地よいはずです。厳しい言葉が、神のご計画に目覚めさせるなら、その言葉は優しくも、心地よいものになります。

私たちは、塩で味付けられた言葉を用いなさい、と教えられます。塩加減はなかなか難しいものです。40年ほど前、貝のウシオ汁をいただいたときのことを思い出します。
作ってくださった方は、こんなことを言いました。これは貝だけで塩加減してあります。貝をたくさん使います。塩気が十分出ます。美味しいでしょう。
そのときの私には、充分な塩気でした。その時の体調によって塩の感じ方が違うようです。

言葉を用いる時の、自分と相手の体調を知らなければ、塩味は生きてきません。相手を理解しなさい、と言われています。理解が不十分な時の言葉は、誤解を招き、混乱を引き寄せます。どうやら私も、この教会のかたがたを理解できていない所があるままに、味の悪い言葉を使っていることがあるようです。不快をお与えしていたらお許しください。
もっともっとお互いを理解する必要があります。

この手紙を書いた人は、そのためにも、今の時をよく用いなさい、と語ります。ここは、
「定められた時を余す所なく活用しなさい」とも訳されます。或は、有効に用いる、とも訳されています。時間を浪費することのない様に、と考えてしまいます。カイロスが用いられます。時間に用いられる言葉は、幾つかあります。クロノス、ホーラ、そしてカイロスです。ホーラがもっとも普通に時間を表します。他の二つは、一定の期間を表すことが多いようです。ここでも、あなたに与えられた時間を、と言っているようです。

ギリシャの哲学者はこのように書きました。

「われわれは短い時をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は充分に長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。」 セネカ『人生の短さについて』

私たちには、時間という神からの恵みの賜物がたくさんあります。有効に用いるなら、偉大なことが、キリスト・イエスによる救いが成就します。あなたは、私にはもう残り少ない、と言われますか。いいえ、救いに与るには十分残されています。人には短く感じられても、その時間で、神はどんなことでもなさることができます。神の救いのみ手にお委ねしましょう。「今は恵みの時、今こそ救いの日」です(?コリント6:3)。

最後に小見出しについて、少しだけお話します。小見出しは、聖書本文ではありませんから、礼拝での朗読では読みません。それでも各自が読むことはできます。それを考えることも自由です。このところには『勧めの言葉』とあります。これをギリシャ語に置き換えるとパラクレーシスになります。法廷用語で、傍らに呼び寄せる弁護人を指しました。そのことから、「慰め、励まし、助け手、聖霊」を意味するようにもなりました。ある翻訳では、この同じ箇所に『励ましの言葉』と言う小見出しをつけていました。大変意味深いことです。勧めや教えの言葉は、私たちを守り、神の救いに与る者としてくれます。
だから、これらの言葉は私たちにとって慰め、励まし、希望になるのです。

感謝しましょう。