降誕前節第8、讃美歌8、226、258、交読文15(詩51篇)
聖書日課 イザヤ44:6〜17、ローマ3:21〜28、マタイ23:25〜36、
詩編105:1〜11、
早いものです、2008年も11月に入りました。楽しい日々であれば嬉しいのですが、血腥いニュースが多く、食品などわが身の安全を脅かすことや政治の貧困さが知らされ、先行きに望みはないのかな、と考えさせられる時でした。
そうした中で思い出したのは、最初のオイル・ショック時のことです。多くの人たちが、ティッシュペーパーの買いだめに走りました。まさにショック、パニックでした。そうした中で講壇では牧師が、今こそ伝道の絶好の機会である、と説教しておりました。私にはなかなか理解しがたいことでした。
人々が不安と混乱のさ中にいる、それを伝道の好機と捉えることに困難を憶えました。教会の自己中心主義の表われか、と思ったのでしょう。
伝道が教会の勢力拡張、進展だけを求めている、と考えていたようです。
そうではなく、福音をもって不安と混乱の中にいる人々を慰め、励まし、導くことと考えるならば、確かに好機となります。
まだ若かったのかな、と感じます。
その意味では、昔も今も伝道の好機です。そして好機を生かしていないのは何故でしょうか。伝道力の枯渇でしょうか。牧師の力不足でしょうか。教会が組織化されていないためでしょうか。意識が低いためでしょうか。17、19世紀、海外宣教が盛んに行なわれました。第二次世界大戦後、アジアへの伝道活動が活発でした。あの力はどこへ行ったのでしょうか。
昨日は東京集会、7名の方がおいでくださり、さまざまなことが話題になりました。いつも話されることの一つは、かつての日の玉出教会が盛んであったことです。若い人が多かったねー。中・高・青年で一杯だった。どこの教会も同じようだけど、またかつての日々を取り戻して欲しい。前向きに、考えられていました。
それをかつての伝道力を再構築することは出来るのでしょうか。教会は、新しくなることができるのでしょうか。
もう一つ、私にとって耳の痛い話がありました。石田先生の説教は15分程度、長くて20分だった、ということです。教会の力、信仰の力は説教のなさにもとずくものではない、ということのようです。勿論、説教の値打ちは時間の長さではありません。その中身です。どのような中身でしょうか。
そのようなことも含めて、《新しくなること》をコロサイ書から学びましょう。
1節でパウロは、「あなたがたはキリストと共に復活させられ」と書き記し、コロサイ教会の信徒像を定着させようとします。それは私たちのものでもあります。
私たちの教会のバプテスマの形式は、原則として全身を水に入れるものです。「浸礼」と呼ばれます。受洗者の上を水が覆うのは死んで葬られるようなものであり、水から現れ出るのは、新しい生命に甦ったことを示します。これが信仰者です。
更に考えてみましょう。
キリスト者とは、キリストに属する者のことです。所有されている、と言っても宜しいでしょう。更に、ここで言われるのは、キリストと共に生かされている者、ということです。キリストを見る者が父なる神を見出すように、キリスト者を見る時、そこにキリストを見出すのです。
もう一つのことを考えましょう。「命であるキリスト」という言葉です。日本人のある人たちには、これは古くからよく理解されていました。仁侠映画などに観られました。自分にとって一番大事な人の名を刺青したものです。次郎長いのち、お蝶いのち。
パウロはヤクザ者ではありません。しかし同じ精神をもち、理解しています。キリスト者とは、キリストを他の何ものよりも価値あるものとし、これを守り、このためなら命をも捨てることができる人です。この方によって生かされ、生きている人、これがキリスト者なのです。
3節「命は神の内に隠されている」これは前章で問題にされたグノーシスの思想を意識して書かれたようです。天的実在に関する秘義は詳しい研究によって獲得される、という主張などです。これに対抗しようとします。
5節には、「捨て去るべきもの」が記されます。よく考えてみると、私たちの生活はたくさんのものを積み重ねることの上に成り立っているようです。資本主義は、そもそもそうしたものです。多くの人から資本を集める、人々は株券を積み上げ、利回りを漁る。役所は裏金を作り、不時の必要に備える。ゴミ屋敷は多くの人がゴミと見なすものを積み上げ、商品だ、と言い張る。もっともなことかもしれません。教会から出たゴミを道に出しました。その中にこれはどうなるかな、まだ使えるぞ、と思った品がありました。古いものですが充分使える。他のゴミ袋の上に乗せました。一時間ほどして見たら、それだけなくなっていました。これなども私たちが不要不急のものを蓄え、積み上げていることのしるしです。集め、たくわえ。積み上げることで安心しています。
ルカ福音書12章には「愚かな金持ち」の譬話があります。長年分の食糧を備蓄できた。わが魂よ、喜び楽しめ。ところが、神のご計画は違いました。汝の魂、今宵とらるべし。
蓄積は、逆に不安の種となります。
自分のために積み上げたものによって、どれ程安心や希望を得られるのでしょうか。
全く反対です。自分のために集め、積み上げ、蓄えようとして、人はしばしば罪を犯し、他の人を傷付け、世の中を混乱させてきました。
このところからパウロの倫理が明確にされます。2000年の歴史の中で、人々の生活は大きく変わりました。その変わる方向も、必ずしも一定しているわけではありません。人間の欲望に従って解放され、自由になることがあり、逆に抑制するべきだ、となったこともあります。倫理のない宗教は宗教ではない、と言われます。どの方向であっても行き過ぎに対しては批判が加えられ、バランス感覚が働くようです。
「淫らな行い・・・偶像礼拝」スタディバイブルを見ましょう。
キリストにあって新しい命を得ている人は、不純な欲望を持つことを避けるべきである(マタイ5:27,28,31,32、?コリント5:15、ガラテヤ5:15、エフェソ5:3)。聖書では、貪欲は偶像礼拝と同じ位悪いこととされる(マタイ6:24、エフェソ5:5)貪欲の原義は「もっと持ちたい欲望」。ここでの五つの悪徳は、「五体」の中に働く欲情に当たるかもしれない(ロマ7:5)。或は、ペルシャ宗教に見られる、それぞれいつつの良き業と悪しき業が真実の運命を作り出すという思想が根底にあるとも考えられる。五つの徳については3:12参照。
貪欲(プレオネクシア) には特に注意を払うべきでしょう。これは本来、自分には何の権利のないものを欲しがることです。箴言はこれを蛭と較べて「よく似ている」と哂います。やがては不朽の名声、不死を求めるようになり、神の如くなることを心に固く決めるでしょう。なんと愚かな、とお考えになるかもしれません。しかし、歴史の上には、そのようなことがたくさん残されています。秦の始皇帝、歴代のローマ皇帝その他。そして、自分が神になろうとして他の人々を道具のように利用しようとします。神さえも、自分の欲望充足の道具とします。神の座に他のものを、実は誰よりも自分自身を立たせています。これは偶像礼拝です。これは他の人を裁くことに連なります。
これがコロサイの人たちの現状であり、私たちの姿です。それに対し、勧告されます。
10節「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」。
新しくなるとは、先ず古いものを脱ぎ捨てることです。
大極拳の会で吉住先生は、呼吸法も指導されます。腹式呼吸です。これは声楽と同じです。おなかに収めた息をすっかり出してしまえば、自然と新しい空気が入ってきます、と教えられます。
偶像礼拝を、恥ずべき言葉を捨てなさい、と言われるわけです。
次いで創造主の姿に倣う新しい人を身に着けます。その結果が日々新しくなることです。それから、真の知識に達するのです。
パウロの時代、古いものといえば、ギリシャ・ローマの神々であり、これは人間を神々の遊びや気まぐれの対象としていました。その結果が有名なトロイ戦争です。
ユダヤでは律法主義が古きものでした。祭司や律法学者は、詳細な律法研究を行い、細かい規則を作り出し、それを守るよう庶民に教え、自分たちはその重荷を上手に免れるようにしていました。古いものは民衆を苦しめるもののことでした。
同じ時代、もっとも野蛮人とされていたスキタイ人は、恐らく自然崇拝の汎神宗教でしょう。なんでも神々として崇める。
パウロ・著者は、このような古いものを古い衣のように脱ぎ捨て、新しい衣・キリストの福音を身につけなさい、と教えます。人々を苦しめるものから、慰め、励まし、希望を与える福音を身につけなさい、と語ります。
「日々新たにされる」、言葉としては、耳に心地よいものです。しかしこれは可能なことでしょうか。人体を考えます。細胞は日々新しくなっているのではありませんか。しかし総体としての人間は生まれた瞬間から、老化に向かっている、と聞きました。
新たにされる、とはこうしたこととは全く異なることのようです。
アメリカ南部、メキシコ湾北岸の地方都市へ行ったことがあります。大きな教会が教派別に幾つもありました。その一つの礼拝に出席しました。言葉は判らないのですが、礼拝の熱は感じます。
800人ぐらいの会衆、アレン・オルガンの響き、聖歌隊と会衆の賛美、素晴らしく整えられていました。会堂正面、講壇の後ろは階段状になっていて、その最も高い所に透明に近い小型のプールがあります。バプテストリーです。
ファースト・バプテスト・チャーチだったのでしょうか。その町の名が付けられますが、忘れてしまい、思い出せません。特別に白い浜辺の砂で有名でした。大きな空軍基地フォートエグリンの南ということは覚えているのです。
説教が終わって、牧師が何事かを訴えました。2〜30人の多様な人が、講壇の下へ集まりました。牧師はその人たちのために祈り、紹介しました。キリストのために献身しなさい、という訴えでした。その勧めに応じた人たちです。まだ若いカップルもいました。手に手をとって出て来ました。頬を紅潮させ、目をキラキラさせていました。
彼らは、以前からクリスチャン、教会員です。彼らは新しくされたのです。
彼らにキリストの言葉が届きました。この言葉に力があります。
11節「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」。
キリストに堅く付き従う時に、私たちは新しくされ、力を発するものとなります。
曖昧さは許されません。キリストのために生きるのです。自分の論理を振りかざすことすら、退けられます。誰も同じです。区別すらありません。キリストを着ることができるし、真の知識に達することができるのです。この知識が、常に全てを新しくする力を持っています。最新のコンピューター工学がそのことを証明しています。コンピューターは自ら学習して機能を更新してゆきます。すでにある程度、実現されているようです。
キリストは、コンピューターとは次元が違います。その知識を得るなら、常に新しくなる力を獲得するのです。伝道の力も、説教の中身も新しくなります。御言葉だけにその力があります。感謝しましょう。