聖霊降臨節第24主日 讃美歌77,501,392、交読文24(詩100篇)
聖書日課 ヨハネ17:13〜26、エレミア29:1,4〜14、フィリピ3:7〜21、
詩編34:16〜23、
入会式執行(井上利一兄・大阪住吉教会より)
本日の主題は《キリストに結ばれて歩きなさい》
口語訳に親しんだ者たちにとっては耳新しい表現です。
従来は『キリストに在って』と訳されました。
エン クリストー、in Christ, ここでは、エン アウトー「彼に」となります。
どちらかと言えば「キリストの中にあって」という感じでした。
今、私たちの心は何に結ばれ、何に繋がれているでしょうか。
だいぶ旧聞に属することですが、1986年、伊豆大島の三原山が噴火して、全島一万人が緊急避難したことがあります。避難した島民は、各地で歳を越しました。避難は急のことでした。持ち出せる荷物は手に持てるだけに制限されました。一体何を持ち出すだろう。
テレビ画面に映し出されたもの、大きなリュックの一番上に、最後に入れたのは先祖代々の位牌でした。これを持つことでご先祖との結びつきを保持し続けるのでしょう。これは血筋、血脈との結び付です。そうではなくて、家との結びつきとも考えられます。
私は、高校生の頃からアルゼンチン・タンゴを聞くようになりました。
最近知った曲があります。カルロス・ガルデルが歌う『パリに繋がれて』アンクラウ・エン・パリという題です。アルゼンチンの人は、20世紀の初め頃、パリへ出稼ぎに行ったそうです。彼らは、パリで仕事を見つけ働きます。どれ程盛んな花の都パリであっても、彼らは故郷ブエノスアイレスを懐かしむことが多かったそうです。帰りたい、しかし帰れない。そうした心を歌う音楽です。
現代のパリも多国籍国家です。仏印と呼ばれたインドシナ三国(カンボジア、ラオス、ヴェトナム)、アフリカやアラブからの人たちが多いようです。かつての植民地からの出稼ぎ、或は移民のようです。戦争や飢え、貧困,政治的不自由、差別、危険を逃れて、豊かで安全な国へ来てもなお、居るべき所、居場所を求め続けます。それは故郷です。
秋から冬にかけて聞きたくなる音楽、不思議ですが、シューベルトの『冬の旅』。
初めて聴いたのは憶えていませんが、高校生の頃にはセットになったSPレコードを持って聴いていました。ゲルハルト・ヒュッシュのバリトン、ハンス・ウド・ミューラーのピアノでした。春になると、モーツアルトやシューベルトの『春の歌』を聞きたくなります。
最近はピンクレディーやキャンディースの歌も聞きたい、と思います。
こうした音楽への拘りは、それによって生活が変わるほどのものではありません。
コロサイの信徒への手紙は、生活を変えてしまうほどの拘りを問題にします。
イエスが主キリストであることを受け入れた人たちを、それにも拘らず支配し続けているものがあります。
先ず8節では、人間の言い伝えに過ぎない哲学に気を付けなさいとあります。「世の小学」という訳語がありました。文語訳では「人の言伝えと世の小学とに従い、人を惑わす虚しき哲学をもって汝らを奪い去るものあらん」となっています。空しい騙しごと、と形容されています。これは、どの様にして見抜くことができるでしょうか。見分ける方法はしっかりした基準を持つことです。人間の栄誉や利得を導くものは、騙しごとです。それはキリストに従うものではありません。
世の原理に従うものです。
ここでは「世を支配する霊に従う」とあります。世はコスモス、宇宙とも訳される語です。スタディバイブルには次のようにあります。
霊や目に見えない諸力が、人間の生活を支配すると考えられていた。パウロにとって、「世」はしばしば、神や神の計画に敵対する人々を意味した(ロマ12:2)。ここでの霊のギリシャ語はストイケイアで、宇宙(ここでは「世」と訳されている)の万物を構成する基本的な構成要素のこと。人間の基本的な行動を支配し、駆り立てる(2:20、ガラテア4:3,9)。
私たちは、キリストの支配を受け入れたはずなのに、今なお世界内の諸力の支配を受け入れているままだ、と言われています。以前の生活の中で力を持っていたものをいまだにそのままにしている、ということです。花の都パリで生活しながら、故郷ブエノスアイレスを懐かしく思い出しているようなものでしょうか。悪と穢れに満ちた地上で生活しながら、まだ見てはいない天の故郷を望み見ることが出来ます。
このところでは、特徴ある言葉が用いられています。それが「割礼」です。
「割礼」は、男子の陽の皮、すなわち男性性器の包皮を切り取ることです。元来は衛生の思想に発することで、砂漠の民に共通する、と聞きました。
11節では短い文中、三回もこの言葉が用いられます。
「またこのキリストにおいてあなたがたはキリストの割礼により、手によらない割礼でもって割礼されて、肉の体を脱ぎ捨て、バプテスマにおいてキリストと共に埋葬され、バプテスマにおいてまた、死人の中からキリストを起こした神の力への信仰を通して(キリストと)ともに起こされた。」保坂高殿訳(岩波版)
割礼は、創世記17章でアブラハムに対する契約のしるしとして定められました。ヤハウェは、アブラハムを私の民とする、アブラハムはヤハウェを私の神とする、という約束です。新約ではルカ福音書2章、フィリピ3章で生後8日目の割礼が記されています。
キリスト・イエスは、割礼による救いを否定されました。割礼によって救われるのではありません、これがイエスの教えでした。ここで「キリストの割礼」と語られているのは何故でしょうか。
割礼はよく、肉に傷を付ける、と表現されます。肉の一部を傷付け、切除することで、神の民であることが確保される、と考えられたようです。そのことを、更に「肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」ることに結び付け、新しい割礼がはるかに優れていることを語ります。肉体の一部ではない、肉体全体をすっかり脱ぎ捨てるのが、キリストの割礼、すなわちバプテスマです。
割礼を受けた者たちは、自分は義である、罪はない、と考えるようになりました。そこでパウロはコロサイの人々に語りかけます。彼らは、血筋の関係を持たない人たち、割礼と律法に無関係な者たち、ユダヤ人からは異邦人、穢れた者どもです。
割礼を受けなかったあなたがたは、罪の中で死んだ状態でした。誰も赦しを保障してはくれませんでした。それだからこそ、神はあなたがたをキリストと共に生かしてくださいました。
この13節はたいへん力強い言葉に満ちています。
「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破壊し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」
更に、もろもろの支配と権威の武装を解除し、とあります。キリストの主権の前では、他のいかなるものも力を発揮することはできないのです。権威は存在しません。
そのために私は、古くから言われてきたことにも疑問を呈します。
「この教会で、先生と呼ばれるのは一人だけです。私たちの先生は一人です」。
牧師を権威に祭り上げてはなりません。牧師も弱い人間です。こんなことを言われると嬉しくなってしまいます。そして堕落させられます。
ここには、現在の私たちへの福音がはっきり語られています。
私たちの罪と、それを赦し、すっかり取り除いてくださった神の恵みが語られています。罪と結び付いていた私たちは、キリストと共に十字架につけられました。そしてキリストの復活の生命に与るものとされました。
それにも拘らず、あなたがたは、何故キリスト以外の力、支配に服そうとするのか、と問われています。当時、コロサイの人たちの間には、食事やその他の宗教儀式についての律法に従うべきであると教えるユダヤ人キリスト者がいたことが分かります。
彼らは教師の名に値しない偽教師です。
幸い私たちのところにはそのような人はいないはずです。しかし、同じようなことをする者はいるはずです。当たり前の顔をして、教会の中で世間的な常識を振りかざし、間違った聖書解釈を語り、礼儀作法を問題とする、このようなことはないでしょうか。
或は、禁欲的克己主義や、規律厳守の厳格主義、すべての時と所で敬虔を旨とする敬虔主義。この敬虔が人間の体験である場合もあります。違う経験主義です。
こうしたことに過度に捕らわれる時、私たちは、キリストに結ばれてはいないことになります。罪赦された罪人として、感謝に溢れて歩もうではありませんか。