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2008年10月5日

《教会に仕える務め》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイの信徒への手紙?1:24〜29

聖霊降臨節第22主日、讃美歌16、351、225、交読文31(詩130篇)

聖書日課 士師記11:29〜40、ヘブライ9:11〜15(16〜22)、
ヨハネ11:45〜54、詩編130:1〜8、

本日の聖書は、パウロの使徒としての任務を明らかにする所です。

この手紙をパウロ自身が書いた、とするなら、使徒・伝道者パウロの自己認識となります。

後の時代の人たちによるものと考えるなら、その人たちのパウロ理解となります。その場合、パウロをよく知る人たちによる間違いのないパウロ理解と考えます。

24節「今や」これは、23節までに展開された福音の真理を知った今は、と解します。

そして、「キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足らないところを、私の肉体をもって補っている」。口語訳

「われ今汝らのために受くる苦難(くるしみ)を喜び、又キリストの体なる教会のためにわが身をもてキリストの艱難の欠けたるを補う」。文語訳

このところは、教会の青年たちが悩まされた文章です。青年会で討論したことを思い出します。しかし、それ以上に厳しい神学上の問題点でもありました。

ローマ教会は、この所を一つの根拠として、諸聖人の余分な功徳・功績が、信徒たちの苦行の不足を補い、罪を免れることを可能とする、としました。すなわち免罪符の起源です。

ルターはこの間違いを指摘します。

十字架におけるキリスト・イエスの救いのみ業は、使徒がその身をもって補うような欠陥があったのか、という問いかけでした。キリストの十字架には欠陥、不足があるはずはありません。ヨハネ福音書19:28〜30は、「イエスは、全てのことが成し遂げられたのを知り」と記します。更にイエスの「こと終わりぬ」、「全てが終わった」という十字架上の言葉は、「完了・成就」を意味しています。十字架への道行きが終わった、という意味だけではありません。神の計画された全てが完了した、と告げています。

それではパウロは何を語るのでしょうか。彼の告げるところは、救いの十字架には欠けたるものはなく、完全無欠。然し、福音宣教、その伝道、その教会形成においては信仰者、使徒、伝道者が大いに労苦する、それはイエス御自ら担うことはできない。そのところをパウロは喜んで担う、と言っています。

この所をスタディバイブルは次のように解説します。

「使徒が教会のために苦しむことで、十字架と復活のキリストを宣教し、キリストの業を補足する」。

パウロのうちに福音の喜びがふつふつと沸きあがり、ほとばしり、突き動かしています。

自分の意志ではないものが彼を揺り動かし、駆り立てて苦難の多い働きに従わせています。

もはや、自分のすき好みなど言いません。主の命じ給うままに。

 使徒パウロの働きは、御言葉を余す所なく伝える務めです。従って使徒・伝道者は

このために教会に仕える者です。厳しく言うなら、伝道者は御言葉を語ることで教会に仕えるのです。それ以外ではありません、となります。

 20年以上前のことです。九州東部の教会と幼稚園を尋ねたことを思い出します。

いずれも小さな教会ですが、その一つに新卒の伝道師がおりました。主任者が言いました。

「彼は、この教会の出身者です。説教は出来るけど、他のことは一切出来ません、と言うものだから、招聘がないのです。仕方なくここの伝道師にしました」。

以来、ずーっと考えています。確かにおかしい、牧会なしで説教ができるか。説教になるのか。然し、御言葉を語ることで教会に仕える、と考えるならおかしくはありません。きっと折り合いをつけて、今でも説教を続けているのではないでしょうか。

次にパウロが伝える御言葉とは何かを考えましょう。御言葉とは、明らかにされた神の秘密の計画です。秘密、奥義はギリシャ語ではミュステーリオンです。ミステリー小説などで今も生きて用いられています。隠された真理、と言えば良いでしょうか。26・27節がそのことを告げています。奥義は、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です、とあります。内に居て静まっているわけではありません。29節にあるように、力強く働いておられるのです。今も生きて働く、アブラハム・イサク・ヤコブの神です。

パウロは、主イエスの活動を見ているはずです。その教えを聞いているはずです。その上で彼はユダヤ教徒、ファリサイ派のひとりとして、反対しました。

その彼が、ダマスコ途上の体験によって回心します。信じる者となります。

そして、体験したことを語る目撃証人となりました。

更に、思索するパウロは解釈する人となり、宣教者となります。

このパウロの働きの目的は、具体的に言うなら、全ての人がキリストに結ばれて完全なものとなることです。そのために、全てのあなたがたを教え、諭しているのです。

ところが、教会の歴史を見ると、教え諭すことの結果が対立を生じ、分裂を招来するようになることが、随分あります。受け入れられないこともあるでしょう。相手の人を承認できないこともあるでしょう。家柄、血筋、学歴。

 学歴に関して、思い出すことがあります。戦後、教団によって学校法人東京神学大学が設立されます。そして牧師は大学院修士課程を修了することになりました。

高学歴化を見通して、軽んじられないだけの学歴を身につけさせよう、と考えたためです。

きわめて人間的な理由で対立が始まります。私は自分が軽んじられても構わない、と思います。然し、主の御名が軽んじられることは、受け入れることが出来ません。自分の名が重んじられることは、少しも嬉しくありません。主の御名が崇められるようになるなら、大変喜ばしいことです。

昨4日午前、豊中市岡町にある大阪のぞみ教会で行われた吉田国彦牧師の葬儀に出席しました。神学校の同級生、高校からの入学組で、健康で明朗、元気な青年でした。教区では石黒、市川、五島、田中清嗣、有田典生各牧師は同級です。9月1日〜2日、横浜でクラス会がありました。37名のうち集まった者18名、永眠者4名、「次回が誰かの追悼礼拝にならないことを願いたいね」とは出席者一同の言葉だそうです。私は欠席です。山本牧師からのメールで知りました。願いも空しく、吉田牧師が召されました。

先生のお父上は同志社出身の牧師、霊南坂教会の副牧師から、聖徒教会を設立。彼はこの父をたいへん尊敬し、信頼していました。

卒業後10年ほど父親のもとで副牧師、その後78年頃、関西にこられて伝道活動を始められました。全国各地に集会を持ち、ボランティアーを組織して伝道に励まれました。

大阪のぞみ教会、河内長野みぎわ教会、橋本集会などは先生の足跡があるところです。

そうした活動のさなか、1996年ごろでしょうか、頚椎に特定難病を発症、行動が不自由になります。さらに脳梗塞も。見ていても痛々しいほどでした。それでも負けずに、活動を続けました。清教学園の聖書科教師も続けられました。2003年には説教を書き、プリントして配っています。特に心を注いだのは『放蕩息子の譬』でした。

葬儀に際し、製本された冊子となって、会葬者に配布されました。

2008年10月2日(木)午前8時49分、65歳をもって帰天されました。

その二日ほど前に奥様と話されたそうです。『僕は平安だよ、大丈夫だよ』と。

司式者は、吉田牧師の一生は『献身』の一語である、と語られました。そして申命記34:5、モーセの最後の場面を引いて「彼の死はまことに神の命じられたものである」と語り、そして65歳である故にそれは未完の人生である、とも語りました。

そうでしょうか。確かに80歳まで生きることと比較すれば短い。意欲的、積極的な彼にとって、まだまだやりたいことはたくさんあったでしょう。しかしそうであっても、召された献身者であるなら、神に命じられた死によってその一生は完成しています。他者より短い時間であっても、その間に走るべき道程(みちのり)を走り終えた、と考えるのです。

吉田牧師は、たいへん自信と確信に富み、明るく元気で多くの人々から愛されました。

私にとっては、彼は元気なときよりも、病気になってからのほうが、良い感化を与えたのではないかと感じます。それは、彼の元気に圧倒されることがあるからです。病気になっても彼の口は相変わらず元気一杯でした。心の中にある福音信仰がほとばしり出る感じでした。凄いなあ、と思わせられるほどでした。

 在日の人たちの老人ホームへ入居が許されると、ここで福音を伝えるのだ、とすこぶる意気軒昂であったことを思い出します。

恐らく彼の心の中では、キリストの苦しみに自分も与ることができた、と感じ、かえって喜んでいたのではないでしょうか。自分が病気を苦しむなら、それはキリストの御名が崇められるためである、と信じたでしょう。

ボランティアーについて教えているそうです。よく自発の意志に基づく奉仕活動といわれるが、それでは充分ではありません。少なくとも教会の、キリストに結ばれたボランティアーは違います。自主・自発だけなら、自分のご都合で取りやめることも可能です。私たちの心に働きかけ、私たちの心の中から生まれ出るものによって揺り動かされて仕えるのが真のボランティアーです。そのようなボランティアーを求めます。

おおよそ、このようなことを書いているそうです。

これはまさに、コロサイ1:29の言葉通りです。

「このように、私は苦労しており、私の内に力強く働く、キリストの力によって戦っています。」

伝道者として吉田先生は、私たちに良い足跡を示してくれました。パウロを手本としたのでしょうか。コロサイ書に記された伝道者の姿を示してくれました。御言葉をもって教会に仕え、多くの人の敬愛を集め、主イエス・キリストに結び付けました。記憶に留め、私たちもこのような働き人を生み出したいものです。

感謝して祈りましょう。