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2008年9月21日

《祈り願っている》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイ 1:9〜12

聖霊降臨節第20主日、讃美歌77,310,354、交読文17(詩65篇)
聖書日課  ダニエル12:1〜4、?コリント5:1〜10、ヨハネ11:1〜16、
詩編65:2〜5、


先週は少々涼しくなりました。しかし台風13号が通過すると、また元通り厳しい残暑が戻ってきました。近年の傾向に倣うもので、その点では安心できます。稲の刈り入れが済んだら、早く涼しくなって欲しい、と願っています。


発信人パウロは、このところで、自分はコロサイの人々のために祈り願っています、と書きます。エパフラスを仲立ちとしていますが、未知の間柄です。それでも「こういうわけで」と書き添えていますから、きっかけがあるのでしょう。それはある学者によって、「福音を聞いて以来」、と解されています。訳し過ぎかな、と感じます。

この考え方では、パウロが聞いた、それ以来となります。その時コロサイの人たちはまだ福音を知らなかったでしょう。それなのにコロサイのために祈る、とすればそれは福音を聞くことができるように、ということのはずです。宣教が始まるように。ところが9節以下の祈願は、福音を聞いた後の歩みについてです。


そこで、他の考えにも耳を傾けて見ましょう。そこでは前段を受けて、コロサイ教会の信仰と愛の実践を聞いたことによって祈りが起こされた、と考えられています。この当時、コロサイにはさまざまな教えを説く偽教師らが起こりました。それにも拘らず、コロサイの信徒たちが、福音の本質から離れず、信仰と愛の実践に励んでいることは、パウロたちの喜びでした。そして、彼らが、更に福音に表される神の深い御心を知り、誘惑に対して備えを固くすることを願い、祈ります。


したがって手紙の発信人は、コロサイの信徒たちを愛し、彼らの信仰の確立を願い、主に喜ばれる歩みをするようになることを祈っています。そのために必要なものを祈り求めます。注意深く、この所を読むと、祈りとは何か、ということをしっかり教えられます。勿論信仰者、クリスチャンとして歩むとはどのようなことか、学ぶことができるでしょう。



 まず、祈りとはどのようなものでしょうか?

 祈りは神様との対話である、と言われます。心からの言葉であればどのような言葉でも良いのだ、と教えられます。確かにその通りです。

そのような私たちの考えを表しているのは、讃美歌308番ではないでしょうか。これは113番と同じ詩人による作品です。

ジェイムス・モントゴメリー、英国でモラヴィア派の伝道者の子として生まれました。同時代のフランス革命を賛美したことが原因で二度も投獄されます。温和な人物、新聞の編集に携わりながら詩作に励み、讃美歌だけでも400編を越えました。

「過ぎない程度に詩的であり、無慈悲にならない程度に教義的であり、感傷に陥らない程度に柔和であり、散漫に堕せぬ程度に精緻であり、努力のあとなくして音楽的であり、真に天才的な清められた心からのみ出る富をキリスト教会に残した」と高く評価されました。アイザック・ウオッツ、ウェスレー、ヒーバー、ボナーと共に英国五大讃美歌作者に数えられています(讃美歌略解参照)。以下は讃美歌308番の一・二節です。

  祈りは口より いでこずとも、  まことの思いの ひらめくなり

  いのりは心の 底にひそみ、   隠るるほのおの 燃え立つなり



  いのりは幼き くちびるにも、  言いうるた易き 言の葉なり。

  いのりは天なる みくらまでも、 けだかく聞こゆる 歌にぞある。


その反面、祈りは神様への捧げものだから、最上の言葉でなければならない、美しい練り清められた言葉を選りすぐるようにしなさい、とも教えられました。長老主義教会では長老が礼拝の司会をすることが多いのですが、礼拝の祈祷は事前に書き上げて牧師に見せなさい、と教えられます。能力を与えられている人は、その能力を有効かつ正しく利用することが求められます。それを埋蔵金のようににするなら、盗んだことになります。


祈りにも、訓練が必要です。言い訳無用です。密室では虚心坦懐に、心のままに祈りましょう。公同の祈りでは、皆が共に「アーメン」を唱和できる内容と言葉を選びましょう。皆さんのために『祈りの学校』が用意されています。それは『主の祈り』です。一日の最後には、この祈りを心静かに唱えるのが宜しいかもしれません。


次に祈りの内容を教えられます。何を祈るのでしょうか?

神のみ心を知るために、霊的な知恵と理解力を祈り願っています。


これは自分のための祈り願いではないことを理解しましょう。他者のための祈りです。

私たちはどうしても自己中心になりやすく、自分の願い事を次々と披瀝しやすくはないでしょうか。そのほうが自分としては判りやすいし、切実なのです。他の人のこと、遠くの出来事は矢張り『他人事』なのです。


祈りにも進歩、発達があります。祈りを重ねてくると、次第に自分のことから、他の人のことを憶え、祈るようになります。弱い人、力のない人、欠点のある人、嫌われている人、傷付いている人、悩みを抱えている人、苦しみ、悲しみ、失望落胆している人、病床にある人、自信を持てず劣等感を抱いている人、独りぼっちになっている人、友がいない人、そのような自分の状況に気付いていない人、これら以外にもいるのです。皆祈りの対象です。


勿論、自分のために、自分の求めを祈ることはできます。萎縮しないで祈りましょう。ただ、それだけで終わらないようにしましょう。このような自分が、愛され、罪赦され、語りかけることを許されているのです。他者のための祈りこそ、福音的な祈りであることが判るでしょう。


自分自身と他の多くの人のために、何を求めるのでしょうか。

発信人パウロは、コロサイ人のために、「霊によるあらゆる知恵と理解によって、神のみ心を充分悟り」と祈りました。人間的な知恵・知識ではありません。イエスこそ主キリストである、と告白する知恵と理解です。

この知恵は、ソフィアが用いられます。これは最も広い意味の賢さで、知・情・意の各方面において完備されるものです。ヘブライ的には、神の意志、目的への霊的洞察を中心とする高度の知的賜物を意味します。

それに対して、理解にはシュネシスが用いられます。これは、物事を理論的にまた実際的に思考し判断する力を指します。ソフィアの細かい適用である、とも言われます。


私たちの祈りは、自分の苦しみや悩みを訴えることに終始してはいないでしょうか。それに続いてたくさんの求めが続きます。当然だ、と思います。それほどに、現代社会は混乱し、苦しみを与えて倦むことがないからです。『理解してくれー』と叫びたいのです。

そうした時でも、他の人の苦しみや悩み、悲しみに目を向け、耳を傾けるなら、広い大きな世界が開けてきます。

しかし、理解を求めるために、私たちは、神様を私の僕であるかのように、従わせようとはしていないでしょうか。祈りは、神様を私たちの考えに従わせるための道具ではありません。私たちは、神様のみ声に耳を傾け、御心を聞くようになることを祈りましょう。

最大の祈りの一つは、「しもべ聞く、主語りたまえ」サムエル記上3:10(432ページ)です。



 それに続いて、発信人パウロは、「主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び」と祈ります。祈りは、主のみ心を聞いたなら、それが実行されるよう祈るのです。私たちが、神様を従わせるのではなく、私たちが神様に従う者と成るのです。神さまを私たちのご都合に合わせるのではなく、私たちが神さまのご計画に、御心に従うのです。

 「祈りは神様との対話です」と申し上げました。会話との違いは、対話においては、変化と成熟が期待されている、ということです。自分の都合を聞き、神様が変わってくれるのではありません。この私が、そして彼らコロサイの人たちが、神様のみ心を知り、更に深く知り、内側で変化し、成熟し、神様のご計画に合わせて働くように成る、歩むようになるのです。

もう一つ最大の祈りがあります。「私が願う事ではなく、御心に適うことが行なわれますように」マルコ福音書14:36、(92ページ)です。



 発信人パウロは、この道が容易ではないことを知っています。そのために「忍耐」を祈ります。ここは原文では、忍耐を意味する二つの言葉が用いられています。それを「根気強く耐え忍ぶように」と訳したのは、ご苦労なことであった、と感じ入ります。

一つはヒュポモネー、これは軍事的に用いられて、陣地を死守することとされます。苦難の中で、自分の持ち場、立場に踏みとどまり、一歩も引かないことです。

他はマクロスミア、これは性格的な気の長さを指して。他からの非礼、侮辱、迫害に対して怒らないでいることを指します。ゆったりと事態の好転を待つ姿勢です。



成熟した祈りは、他の人たちのために捧げられ、その人たちが神の御心を聞き、更に従う者になることを祈り、共に成熟することを求めます。


最後にもう一つ。よく祈ったって何になる、何も起きないじゃあないか、と言われます。祈りによって生まれるものがある、生起することがあります。

第一は「信仰」です。マルコ福音書9:14以下には、「汚れた霊に取り付かれた子の癒し」が記されます。そこでは「信仰がない時代」だから癒やされない、と仰せになり、信じるかとお尋ねになり、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」との答えを引き出され、癒やされました。そして29節「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。したがって、祈りが信仰を生み出し、救うのです。


第二は、その信仰生活では敵と戦う武器・福音の真理を語るための武具となります。エフェソの信徒への手紙6:10〜20にそのことが記されます。特に18節から20節の間に四回祈りという言葉が出てきます。祈りは私たちの立ちどころ、立場を固くして、守ってくれます。そしてここでも、祈りは他の人のために奉げられることが求められています。私たちも、福音宣教のため、主の御栄のため、祈りを篤くしたいものです。大きな祈りを捧げられるよう、自らを訓練しようではありませんか。

感謝しましょう。