集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2008年9月7日

《キリストに結ばれて》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイの信徒への手紙?1:1〜5

聖霊降臨第18主日 讃美歌66,313,361、交読文25(詩103篇)

   聖書日課 歴代誌下7:11〜16、エフェソ3:14〜21、ヨハネ10:22〜30、
詩編103:14〜22、

突然のように気候は秋めいてきました。九月最初の聖研祈祷会、7時前、門の南側の草むらで鈴虫が鳴き始めました。途切れそうな弱い鳴き方。8時過ぎ、終わって出てくると、力強く鳴いていました。確かに秋の風情です。それでも近年の傾向は、長い残暑です。10月まで暑いはずです。そうは知っていても、体は秋に反応し、気も緩んでしまいそうです。

 これから暫くの間、コロサイ書を続けて読みましょう。

教会暦に基づく聖書日課を二年間、その後半年は創世記後半。連続講解らしき説教を試みたいと願いました。

聖書研究はガラテヤ書を終えて、旧約の小預言書『オバデヤ書』を読み始めました。

教会の公的な集会では新約と旧約がバランスよく読まれるべきだ、と考えてきました。

勿論その中心は福音書です。教会の中では、絶えず福音書が読まれる事が望ましい、と考えています。



 何故コロサイ書なのか、私自身馴染みが薄いから、というのが一つの理由です。それは皆様も同じだろう、と考えます。理屈っぽい、ということもあるでしょう。その背景にある民族的習慣や宗教がよく分らないために、読んでも上っ面で終わってしまうから、ということも馴染み薄の理由でしょう。要するに、余り面白くない、ということです。

 それはそのまま、これを乗りこえれば面白くもなるし、有益なものに成る、ということになりそうです。聖書を面白く、楽しく読めたら素晴らしいことです。多少の努力も必要でしょうが、ご一緒に学びましょう。



 1節には、パウロの手紙と同じ形式の挨拶が記されます。差出人が誰であるか分ります。

パウロがローマで処刑された後、その弟子が書いたものとされます。その書き手は、自分の栄誉を求めてはいません。先生の名前を用いることで、その先生自身が栄誉を受けることを願っています。最近では、偽作、盗作は非難されますが、この時代はよく行なわれ、その名を利用される人が称揚されたようです。

パウロとテモテですが、肩書き様のものが付けられています。「使徒とされた」とあります。これは、日本語訳ではパウロとテモテ双方にかかる、と解釈することも可能ですが、原文は明らかにパウロだけです。また、聖書の中では、テモテを使徒と呼ぶことはありません。「使徒パウロ」と「兄弟テモテ」からと理解します。

「使徒」とは何を指すのでしょうか。アポストロス、「派遣する」と言う言葉が元になります。派遣された者、福音書では、特に「十二人の者たち」と記される弟子たちを、指しています。その厳密な意味では、パウロは使徒の中に入りません。そのためでしょうか。

パウロはその手紙の中で、自分も使徒である、と主張します。あるところに対しては僕と言い、或は双方を書き連ねることもしています。その教会の現状や、その教会へのパウロの思いがそうさせるのでしょう。手紙の初めの部分をご覧いただくと、大体の事が分ります。コリント第一、第二、ガラテヤ書は「使徒とされた」、ローマ書、フィリピ書は「僕」、フィレモン書は「キリスト・イエスの囚人パウロ」となります。

使徒は、キリストの公生涯の間、終始共にいて、行動を共にし、教えを受け、福音宣教に派遣された者たちです。

2節に進みましょう。手紙の宛先が記されます。スタディバイブルから引用します。

「コロサイ」は、エフェソの東約180KM、リュコス川流域の東西通商路に位置した。パウロの時代以前の少なくとも500年間は毛織物産業で有名な都市だった。しかしパウロの時代には、ヒエラポリスやラオディキアといった近隣の都市より重要性が薄れていた。この手紙から判断すると、コロサイの周辺地域では、数多くの宗教や哲学が信奉され、時にはそれらが融合した。天使礼拝や信者に厳格な規定を課する密儀宗教(2:16〜23)、世を支配する霊(2:8)と呼ばれる占星術などもあった。



「聖なる者たち・・・兄弟たち」聖なる者たちは、神の民とも訳され、神の家族の一員として選ばれた者を意味する。兄弟は家族や同国人を指すこともあるが(マタイ7:3、ローマ9:3)、ここではキリスト者同士の人格的な結び付きを表現する。女性に対しては、姉妹が用いられる。ここでは女性たちも含まれる。

パウロはこれらの言葉を用いることで、コロサイの教会、その信徒たちをすこぶる親しい者たち、愛する者たちである、と意識していることを表そうとしています。この教会は、エパフラスが教え導いたものであり、パウロ自身は、一度も訪れたことはありません。それなのに、この親愛の情、何故でしょうか。それを明らかにするのが、「神のみ心によって」と「キリストに結ばれている」という言葉ではないでしょうか。



「神のみ心によって」セレーマトス、セレオーという動詞、意図する、志す、欲する、願望する、・・・したいと思う。

パウロは、自分自身、あの十二人の者たちのひとりでないことを充分承知しています。それにも拘らず、彼らと同じように自分も「使徒である」と考え、ここに書き記し、主張しています。そのことを認めない人たちもいる、認める人もいる。しかしパウロはそれらを問題外だ、とします。自分の使徒職は、人の承認によってではなく、神の御意志によっているから、と致します。



「主キリストに結ばれた」エフェソ3:12にも同様な訳があります。

コロサイ書では、エン クリストーとあり、至って簡潔です。普通なら、「キリストに在って」、と訳されます。

これは説教題になって、1週間、門前に掲示されました。ある日午後、母親と中学生の娘さんが立ち止まり、しげしげと見ておられました。そして読み上げて、驚いたように顔を見合わせていました。《主キリストに結ばれて》

100本ぐらいでしょうか、カセットテープを大事に持っています。いずれもFM.放送を録音したものです。ミュージックテープやCDを買うよりよほど安く、しかも貴重な音源を聞く事が出来ます。その中の一本、アルゼンチン・タンゴがあります。カルロス・ガルデルが歌っています。その中の一曲「アンクラオ・エン・パリ」パリに繋がれて、詩人の心は、あのパリに今も繋がれている。日の光にも思い出し、人々の話し声にもパリを想う、と歌われます。


聖書の中で「繋がれる」という言葉は別にあります。

デスオス、縛られること、獄に繋がれること、語源は デオー、デスマイ、デスマ

動詞形 デオーは、縛られる、束縛を意味します。

?テモテ1:8「私が主の囚人であることも恥じてはなりません」、ここで用いられるのは、デスミオスなのです。


ところが、コロサイ書では、これらの言葉は用いられていません。結ばれ、縛り付けられる必要はないのでしょうか。あなたがたは主キリストの中にある、とこの手紙の筆者は語ります。恐らく翻訳者は、「忠実な」という言葉にひかれて、結ばれている、と訳したのでしょう。ピストイス アデルフォイス、忠実な兄弟たち、彼らの忠誠は何へ、どこへ向けられるのでしょうか。誰か伝道者に向けられることを考えているでしょうか。パウロの教えに忠実であることでしょうか。或はコロサイの指導者に忠実であることでしょうか。

エンという前置詞はいろいろな意味を持ちます。基本的には、内部に、中に、という場所を表します。時間も、関係も表します。エン エモイは、私にとっては、の意味です。

同じように考えれば、キリストにとって忠実となります。


パウロが、或はこの手紙の筆者は、キリストに対する忠実を考えています。勿論、パウロやコロサイ教会の指導者に対する忠実、も考えているでしょう。しかしそれは二次的、三次的なものです。先ず主キリストに対する忠実があってのことです。

 神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。祝福の祈りです。

祝福もいろいろあるだろうに、その中から、恵みと平和を求め、与えるのは何故でしょうか。それこそ、他からは得られない貴重なものだからです。いつでも父なる神、創造者なる神のもとから溢れ出るものであり、神がそれを与えようとしておられるからです。



 今夜と明日午前、古谷洋さんの葬儀が行われます。古谷さんは役員も勤められました。

皆様全員がおいでになることは難しいでしょう。少しだけお話しておきましょう。

何故洗礼を受けられたか、「すでに信仰を抱いている妻と同じ価値観を持ちたいから」と言われたそうです。これはお嬢さんの言われたこと。一つの家庭が、幾つもの価値観を持っていたら、衝突して絶えず争いに成るでしょう。洋さんは、平和を求め、与えられました。

愛唱賛美歌は、298番安かれ、わが心よ(フィンランディア)、405番神共にいまして。

520番しずけき川の岸辺を。

いずれも平和を主題としています。この平和は、神が共にいましたもう、という平和です。これこそパウロがコロサイの信徒に与えることを願ったものでした。そして神の恵みなのです。



 神の御心を第一とし、キリストに忠実に歩むなら、私たちは平和と言う最大の恵みをいただく事が出来ます。感謝しましょう。