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2007年5月27日

《聖霊の賜物》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書11:1〜13

  聖霊降臨節第一主日、讃美歌312(こども61)、こども42,333、交読文6(詩23篇)、
聖書日課 創世記11:1〜9、使徒2:1〜11、詩編146:1〜10、

教会の誕生日とされてきました。そろそろ2000回目が近付いてきました。と言ってもあと30年ほど経ってからですが。この教会の誕生日もはっきりしないのに、全体教会の出発の時、誕生など、もっと判らないに違いありません。こんな時は、ひとつの権威に従っていると便利です。権威筋が、ひとつの決定を下せば、皆が従います。教会は、聖書の権威に従い、聖霊降臨日こそ教会の誕生日である、と信じてきました。

本日の日課のひとつ、使徒言行録2:1〜11は、聖霊降臨に伴う「多言語奇跡」です。
民族数は七つ、地方の数は九つ、実に多くの人々がいました。「ユダヤ人と改宗者」は、9節から10節に示された諸民族の名をまとめたものと考えられています。同じように、「クレタ人とアラビア人」も諸民族名のまとめであろう、と考えられます。恐らく「海洋民」クレタと「内陸民」アラビアを象徴したのでしょう。実際のアラビア人は、内陸だけではなく、アラビア海からインド洋にかけて、ダウと呼ばれる船を使って航海をしています。余り正確な象徴とはいえません。

その前で十二人の者が話をすると、彼らは自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いているように感じました。ということは、十二人がユダヤの言葉で話しているのに、自国語で話してくれたように、充分に理解できたということです。これを「異言」と解するグループがあります。「異言」は、1コリント4:21に記されているように、誰にも理解できない、日常語とは異なる言葉を指します。ここのように理解することが出来た言葉とは別のものです。聖霊の賜物は、神の福音が理解できるようになることに違いありません。

 ある人が書いております。「わかる説教はありえない。人間は神を知らず、理解できないのだから、神の事を語る説教が人間に判るはずがない」と。そうであるなら、そもそも神を語る説教などあり得ないことになります。失礼ながら、この方は聖霊の働き、聖霊の賜物を知らないのでしょう。

 聖霊の働き抜きでは、説教をすることは出来ず、それを聴いて理解することも出来ません。そして礼拝自体が成立しないのです。更に教会が成り立たないのです。

日本基督教会の牧師に渡辺信夫という先生が居られました。この方の『教会論入門』はたいへん人気のあるものでした。よく読まれました。その中心は、「教会は礼拝によって立ちもし、倒れもする。礼拝は説教によって立ちもし、倒れもする。説教は聖霊に因らねばなし難い」というものです。

神学校の説教学は、その時の学長が担当しました。桑田秀延先生は長く担当されました。先生はこのように教えられました。「説教は全文を書くこと。講壇に上がる時は、その粗筋・梗概を書いて持っていくこと。そうすれば聖霊の働く余地があるから」。
全文を読むようにしても聖霊は働きます。そのまま読むことなど出来ないのです。
準備の段階でも聖霊は働いています。説教は、礼拝は、教会は、人間の力ではなく、神の聖霊の賜物です。

本日の旧約日課は、創世記11:1〜9、これまた「多言語奇跡」です。唯、言行録とは正反対です。言行録では、多くの人がひとつの言語を聞くように理解しました。創世記では、ひとつの言語であったのに、人々の間で理解できなくなりました。

 世界の中に多くの言語があることの原因を顕そうとするものです。
人々は、数が増え、力が増し加わったのを喜びました。さらに技術革新がありました。
それまで大きな石、小さな石を使っていたものが、日干し煉瓦を作るようになりました。小さな一定の形です。運搬に便利、積み上げるにも、形作るにも判りやすい。
その上、接着に使う漆喰の代わりにアスファルトを得ました。これは水に強く、強力な接着力がありました。「さあ、新しい力によって、吾らの名を轟かせよう。建設だ」。
そして全世界にその力を示そう、誇ろうとして大きな、高い塔を造り、有名になろうとしました。

 いつの時代にも、権力者は、自分の力を世界に示すために、巨大な建設を行いました。
墓と神殿と王宮。世界遺産として残っているものを見てください。

人間の有名病は、古代世界にもあったようです。少しも変わらないようです。

創世記の場合、そこには神を越えるものとなろうとする意志が感じられます。ところが、それは神の側からすると、天の高みからはるかに降ってこないと目に留まらない程度のものでした。それでも神はこの試みを排除する事を決心されます。バベルの塔の物語は、この世界に多くの言語が存在し、互いの理解を困難にしているのは何故か、という問いに答えようとするものです。

 創世記の多言語奇跡は、人間の傲慢の罪に対する裁きとして与えられたものでした。
言葉による伝達、コミュニケーションが出来なくなってしまいました。建設は難しい。

わたしたちは、心の交流というものを軽く感じているかもしれません。でもこれはとても大きなことです。私たちの周囲に人交わりが苦手、という人があります。あの人は孤独がお好き、と言われる者もいます。実は、心が見え過ぎて、重くなり耐えられない人もいます。全く感じられないために自己中心のように見える人もいます。人間関係を上手にやっている、と考えている人も実は相手の側では困惑していることがあります。

様々な形、いろいろな事情があります。孤独になった人間が、悲しさを抱えて苦闘していることに気付きたいものです。

昨年5月発売、今年になって突然、社会現象となった「千の風」。
その詩文と単旋律の楽譜、そして岩崎ちひろの絵を組み合わせた本がありました。
岩槻でいただきましたが、娘・潤子が帰る時に上げてしまいました。素敵なものでした。新しく一冊買ってきました。第一版の発行は2006年6月です。すでに第10刷。

CDは間もなく100万枚になりそうな勢いだそうです。昨年5月発売、1万枚程度しか売れなかったものが、紅白歌合戦で歌われて以来、どうにも止まらない様子になったようです。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ  冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる  夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください  そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
あの大きな空を 吹きわたっています」

元の詩を書いた人は知られていません。私には、アメリカ大陸の先住民のもののように思えます。あの人々の持つ知恵そして感性には素晴らしいものがあります。この詩には、彼らの自然崇拝の信仰が見えます。
暗く、湿った所に愛する者が眠っていると考えたくない、という多くの方たち、とりわけ、阪神・淡路の震災被害者、福知山線事故、中越震災、多くの犯罪、事故、病気の犠牲者、それらのご家族・友人にとっては何よりも大きな慰めになったかもしれません。

 聖霊も風も、聖書の言葉では同じです。ルーアッハ、プニューマ、神の口から出る息、最初の男と女に吹きかけられ、生きる者とする神の力です。漂うのではなく、一人ひとりに向かい、吹き付け、力を与えます。そして、共通の言語を回復し、共に生きる者とします。ここに慰めがあります。

本日、最初に読まれたルカ福音書11:1〜13は、主が祈りをお教えになる場面でした。

祈りは、最終的に聖霊を求めるものとなります。それですから、聖霊を求めるものは必ず与えられる、と教えられたのです。

 聖霊が判らない、というのは、求めていないからだ、と言われます。
父は子どもに良いものを惜しまずに与えます。同じように神は聖霊を求める人にお与えくださるのです。それが良いものだからです。感謝しましょう。