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2008年1月20日

《教えるキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書8:21〜36

この冬一番の冷え込み、どんよりと曇り空、予報は雪。
その上、センター試験、大阪女学院中学も入試、気ぜわしいことです。
 
本日も旧約の日課から学びを始めましょう。ヨブ22:11〜28、旧約の804ページです。
ここは長いヨブ記の中でも、ヨブと三人の友人たちとの論争です。
主題は、ヨブの身に降りかかった災いは、ヨブがなにか神に対して罪を犯したためなのか、ということです。
ヨブは断じて身に覚えがない、私は正しい、と言い張ります。
それに対して友人たちは、それがヨブの傲慢であり、必ず神の御心に従わないことがあったに違いない、気付かない罪がある、と繰り返し語り、ヨブに迫ります。「神に帰れ」と。
彼ら三人はヨブの友人です。親しい友であり、彼らのうちに、悪意は見られません。
むしろ善意の塊、と言っても間違いはないでしょう。
残念なことに、人の善意が悪い結果をもたらす、善意が多くの人を傷付けてきた、ということも洋の東西を問わず事実です。イタリアの諺は言います。
  「地獄の敷石は善意、善意の音がする」。
善意が人を傷付け、人の優しさが人を増長させ、善悪の区別を誤らせてしまうのでしょう。

24、25節は、友人たちの主張、忠告の一つの頂点だと感じます。
「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい。
全能者こそがあなたの黄金 あなたにとっての最高の銀となり・・・」

黄金は何を指しているのでしょうか。クリスマス物語にも登場しましたからご存知でしょう。東方から来た博士たちが「黄金、乳香、没薬などの贈り物を捧げた」(マタイ2:11)とあります。ページェントではこの場面には次のような博士の台詞がついています。
「王の中の王に相応しい黄金をお捧げ致します」と。
更に歴代誌下8:18には、ソロモンの船隊のことが記され、「オフィルの金450キカルを・・・携えてきた」とあります。9:10では金を運んできたのは「ヒラムとソロモンの家臣であった」とも記されます。ティルスの王は歴代誌では、通常はフラムです。同一人物でしょう。
オフィルは、インド、南アラビア、或は南アフリカの地域とされます。エジプト語文献でのプントすなわちナイル川上流のスーダン南東部のこととも言われます。
450タラント、新訳はキカルという単位名に変わりました。重量単位で34キログラム、全体で1万5300kgとなります。1000キロで1トンですから15トン余、大変な重量です。
「オフィルの金」は、王位に相応しいもの、ソロモンの繁栄の象徴であったことが分ります。ヨブもまた、それほどに繁栄し、王の位はなくてもそれほどの権勢を持っていたのでしょう。
黄金に関しては、詩19:10も考えておきましょう。
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
  また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」。
「これら」という代名詞は、直接的には、主を恐れる道、主の審きを指しているようです。しかし全体の流れの中では、主の掟、主の証をさすことに疑いの余地がありません。全てに勝って優れた黄金よりも重んじられるべきものがある、それは主の掟である、ということです。
人の世で重んじられる全てのものを捨て、神に帰れ。神の御意志に従え、と語られます。
人が惹きつけられ、躓かせられるものがあります。そのことが次の?ヨハネ1〜13、(448ページ)で語られます。

教会の始まりの時代には二つの強敵が存在しました。
一つはパウロが終生対峙したユダヤ主義者または律法主義者です。厳密には別物かもしれませんが、かなり重複しているはずです。
もう一つはグノーシス派です。非常に複雑な中身があり、私などには簡単に話すことなど出来ません。この手紙から伺われるのは、偽教師たちは、物質は悪である、と考えるグノーシスの教えを信奉したこと、人間世界は物質世界、神は悪の世界に身を置くはずがない、と主張したことです。ここから仮現説・ドケティズムが生まれます。この手紙の著者は、教会をこの攻撃から守ろうとしています。

仮現説(ドケティズム)とは。超越的神の子キリストがイエスの洗礼時に人間イエスと合体したが、十字架の刑死の前に再びイエスを離れて帰還したとする説です。

1節に「長老たる私から」とあります。これはこの手紙の著者であろうと考えられます。
長老は、ユダヤの年長者も意味しますが、ここでは1世紀の変わり目あたりに確立されてゆく教会職制の中の長老である、と考えることが出来ます。この書簡が書かれたのがその頃だからです。しかしそれ以上に、より個人的な資質と権威により教会の指導する教師が考えられます。そうした状況では、個人的な偽教師が入り込みやすいのです。
この偽教師の実態が告げられるのは、7節です。
「彼らは、イエス・キリストが肉となってこられたことを公に言い表そうとしません」。
これは反キリストの異端です。このような主張をし、教えをなす者には、挨拶もするな、家にも入れるなと教えます。愛を語るヨハネとしては語り難いことであったでしょう。
しかし、教会の人たちを誘惑から守るためには、言い難いことも語ります。
信徒の信仰を守るためなら、自分が道から外れている、と言われることにも耐えるのです。
教会の長老、役員、牧師にとって、自分の栄誉よりも信徒のキリスト信仰のほうが大事なのです。信仰を守るとは、その人のうちに置かれたイエスの教えを守ることでもあります。教会はいつでも保守的になります。それはこのイエスの教えを守るためなのです。
それを表現するのに「護教的」という言葉があります。他のものを守るためにこの言葉を使おう、とすることには注意が必要です。唯イエスの教えを守るためです。

問題があります。このイエスの教えとはなにか、を巡って聖書解釈の争いが起こるのです。そこでは常に異なった考え、信仰、思想に対する寛容さ、聴く姿勢が大事になります。
手紙の著者は、自分の力を過信する危険を知っているようです。信徒に近付くな、近付けるな、離れていなさい、と教えます。今日の私たちにも大事なことです。

このイエスの教えに留まることを軸にするようにして読まれるのがヨハネ8:21〜36、これは少し長いところです。また難解な箇所と言えそうです。
32節の「真理はあなたたちを自由にする」と言う語句は大変有名です。真理であるイエス・キリストを本当に知るならば、私たちのうちに自由が生まれる。どのような状態にあってもこの自由は、取り去られることはない、と励まされたものです。
31節には「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とあります。

 本日の主題は《教えるキリスト》です。読まれた聖書の箇所からこの主題を読み解くことは大変困難です。主キリストは何を教えるのか考えて見ましょう。
イエスの教えはそれまでの掟、律法に対して、御言葉と呼ばれました。その御言葉にとどまる者が弟子である、とありました。御ことばを語る者は、旧約聖書の時代には預言者です。彼らは神の言葉を預かり、それを神の民イスラエルに告げました。
 主イエスは神の言葉を語りました。キリストの三職には預言が含まれます。しかしどうしても預言者とは呼ばれません。
  ある教派・教団は、イエスは救い主ではない。救い主はまだ来ていない。イエスは神の預言者の一人である、と主張します。それでいて自分たちはキリスト教である、とします。セブンスデイ・アドベンチスト教会です。或は「ものみの塔」、「エホバの証人」です。
彼らにとってイエスとは誰なのでしょうか。キリスト、救い主ではなく預言者の一人似すぎません。彼らは、御言葉のうちにとどまっていない故に、キリストの教えの外に出てしまっています。キリスト教会とは認めがたいし、挨拶をしないように求められるのです。家に入れるな、と厳しく教えられるのです。

罪人に対してはあくまで寛容に、その赦しをお与えになります。福音を危うくするものに対して、また信徒の信仰を危うくするものに対しては、大変厳しいのです。

 私たちはキリストが到来したと信じます。しかし、預言者とは呼びません。イエスが御言葉そのものだからです。主イエスは、神の究極の言葉そのものなのです。
この究極の言葉は、人間世界の水平の地平を破るように垂直方向から降って来ました。
創造者である神の世界を開示しました。
主イエスは垂直の世界の奥義を与える方、教える方として私たちのもとに来られました。奥義を教える方は、奥義のみ言葉そのものです。
教えるキリストは自らをお与えくださる救い主です。 感謝しましょう。