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2008年1月27日

《癒やすキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書5:1〜18

昨年の2月11日に同じ主題が与えられていました。
今年は、イースターが早くなります。なんと3月23日です。春分の日が3月20日。灰の水曜日が2月6日。この日から四旬節が始まります。その関係でしょう。半月ほど早く同じ主題、となりました。2005年の教会暦を調べると、2月9日が灰の水曜日、1月30日《いやすキリスト》、2月6日《奇跡を行うキリスト》、13日《荒れ野の誘惑》と続きます。
そして一部の聖書が変わります。全部の場合もあるでしょう。聖書が変われば、同じ主題でも当然内容が変わります。昨年と今年では《いやすキリスト》の聖書が全部違っています。ある年は、「ナアマンのいやし」とマルコ1章「重い皮膚病の人の癒し」が中心でした。
互いの間に関連性が強く、分りやすいと感じます。ところが今朝は、その関連性が希薄に感じられます。能力不足なのでしょう。考え続けました。

玉木愛子さんの句には  「明け易し 真夜の祈りと思いしに」
明石海人の歌 「夜すがらを 案じあぐめる歌ひとつ 思ひにはあり 朝粥の間も」
私もひとつ 「聖書を読み 語リ出すべき 説教を 考えあぐね 朝を迎えり」
いやしと言えば、病気の治癒と考えます。本日は何が与えられるのでしょうか。

先ず、旧約の日課から読みましょう。ヨブ23:1〜10、前週の続きです。ヨブは友人テマン人エリファズの非難に答えようとします。エリファズは三回目でした。次第に激しく、厳しい調子になりました。
ヨブはどの様に答えることが出来るのでしょうか。
ヨブは法廷を意識している、とされます。神の前に立って自分の思いを直接にぶつけたい、思いのたけを陳べたい。それなのにあの方は姿を隠して何も答えようとされない。わたしはあの方が語られるなら、そのことばを聴いて悟り、理解します。東西南北、一体何処へ行ってしまわれたのか。

こうしたヨブの答えは、神への信頼がそれを支えています。10節を御覧ください。
「しかし、神は私の歩む道を 知っておられるはずだ。
わたしを試してくだされば 金のようであることが分るはずだ。」
 信頼しつつ尚、立ち込める闇に困惑しています。神は望まれるならば、このわたしを滅ぼし尽くすこともおできになる。それなのにいまだ滅ぼし尽くされていない。だから恐ろしい。暗黒を、闇を眼前に置いてわたしはおびえています。これをどの様に読み解くのか、多くの学説があるでしょう。
 ここには「いやすキリスト」は語られていません。神への信頼が語られました。
ヨブは災いを身に受けました。病気もあります。友人がやって来て交々語ります。身に覚えのない罪を認めさせようとします。もっと謙遜になれ、と言います。煩わしいばかりです。ヨブは、神と語りたい、神こそ私の真の姿を知り、理解してくれるはず、と考えています。彼の体は病気に蝕まれています。彼の心は神の前で健全です。信頼があります。

次に新約の使徒書簡を読みましょう。ヘブライ書の次、421ページです。
ヤコブ1:2〜5、聖書にはいろいろなヤコブがいます。その中でも、この手紙を書いたのは、「初期教会の伝承によると、イエスの兄弟ヤコブでエルサレム教会の指導者であったと考えられる。」とあります。スタディバイブルからの引用です。
最初の言葉は意外な感じを与えられます。「兄弟たちよ」女性は対象になっていないのか、という疑問が出そうです。これについてスタディバイブルは次のように説明します。
「家族や同国人を指すこともあるが、ここではキリスト者同士の人格的な結び付きを表現する。女性に対しては姉妹が用いられる。ここでは女性たちも含まれる。」
「信仰、福音書やパウロの手紙では、信仰は普通、神と神の約束を信頼することである(1:6、2:1)。この手紙の他の箇所では、信仰は、正しい信仰と行いを意味する場合もある。」
 此処にも「いやすキリスト」は語られていません。信仰の試練と忍耐が語られています。試みの中で何が求められるか。ヨブと同様、神への信頼です。

最初にお読みいただいたヨハネ福音書5:1〜18、に戻りましょう。
「ベテスダの池で病人をいやす」と小見出しにあります。
今から30年以上前、エルサレムを訪ねる機会がありました。市中を歩いて行くと工事現場と思しき所がありました。実は考古学の発掘現場でした。道路から10メートルほど下へ行った所まで降りる、と言われました。降りるのは良いけど、昇りが大変だな、と思いましたが言われるままに粗末な木造の階段を降りました。地底にあったのは柱と水溜りです。そしてガイドは言いました。「これがベテスダの池です。最近発見され、今も研究中です。これから全体が発掘されるでしょう。」
 
エルサレムは、紀元70年のユダヤ戦争の折、ローマ軍により徹底的に破壊され、石の上に他の石が残されないような状態になったとされます。その残骸が踏み均され、平にされ、その上に後の時代の町が造られました。積み上げられたものが10メートルになってもおかしくはなかったのでしょう。2000年前のエルサレムに立っている、ということには少々感動しました。多分今は綺麗に整備されていることでしょう。
ここに主イエスが立たれました。イエスはこの池の周りにいる人たちを見渡します。人々は、イエスを知っていれば期待に満ちた目でイエスを見上げたでしょう。中には反対にこのペテン師め、というような思いを抱く人もいたでしょう。
主はそのような人の側の考えに関わりなく彼らを見られたようです。

3節後半から4節が欠けています。そのしるしが縦長の十字形です。この徴がある場合、その部分はこの書の最後に掲載されています。これは写本の時期による違いで、比較的新しい写本にしか出ていないものを削ったものです。212ページにあります。
「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
大勢の病人や不自由な人たち、彼らは家族や友人たちの助けを借りてここに居ます。朝ごとに運んできてもらう者、夜もここで休むしかない者もいたでしょう。
家に帰りたくてもそれだけの人手を都合出来ないのです。主イエスが声をかけたのは、そのような人の一人でした。すでに長い間、ここで、いやされるのを待っています。7節の言葉が事情をよく説明します。
「主よ、水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
助ける人がいる、自分で動ける、そのような人はいやされる。しかしこの男は38年間も、そのようなことを見続けてきました。全ての希望を捨ててもおかしくはなさそうです。それでも彼は、誰かが助けて、水に入れてくれる時が来るのではないか、と儚い望みを持ち続けて、生きて来ました。ここより他に彼がいるところはなかったのでしょう。
彼は誰よりも助けを必要としています。

 それを聞いただけで、主は言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
するとその人は良くなって、床を担いで歩き出します。これは説明のしようがありません。
病気のため寝込んで38年、足腰が弱くなり、立ち上がる力もないのが普通です。立ち上がることも出来ず、歩くことも出来ない者が立ち上がり、歩く、これは奇跡です。
いかなる合理化の試みも拒絶しています。

 古谷洋さんは、今、北野病院で医師や看護師から《奇跡の人》と呼ばれているそうです。さまざまの苦境を乗り越え生きてこられたからです。心肺停止はどのくらいの時間が許されるのでしょうか。5分、10分ではなく1時間を越えて尚生きている。これだけでわたしには、充分奇跡、甦りのラザロだ、と思えるのです。
30センチの高さから落ちて死んだ子どもがいることを、わたしは知っています。金曜日、山岸さんが仕事中、二階の屋根から落ちて緊急入院しました。それでも生きていることを奇跡と言うことが出来るでしょう。生かされて生きる故に、何らかの変化が生まれるはずです。そのことが後半の部分に語られます。

 その日が安息日であったため、起こったとされる問答です。安息日には、いかなる労働もしてはならない決まりでした。本来は、厳しい労働からの解放の日です。それが人を縛る制約となっています。

いやされた男は彼らに答えます。「私をいやしてくれた人が、床を担いで歩け、と言ってくれたから、その言葉に従っただけさ」。
そうなのです、彼は言っています。掟はこれまで、わたしを縛るだけで、病気をいやしてはくれなかった。しかしあの方は違う。何処の何方かは知らないよ。それでも、見ず知らずの私の病気をいやし、歩けと言って下さった。歩けるはずないさ、と思ったけど歩けた。床を担げた。彼はユダヤ人たちに啖呵を切ったようなものです。対立します。
彼は、これまで権威とされてきたものに代わる力、本当に従うべき権威を見出しました。
 主イエスとこの男はもう一度、今度は神殿の境内で出会います。主は彼に言われました。
「もう、罪を犯してはいけない」。掟を否定しそうになった男を、本来の律法、恵みとしての掟に立ち返らされます。

この当時の常識、一般的な考えが背景にあるのでしょう。
全ての病気や苦しみは罪がなければ存在しない。
病人は神がその罪を赦すまでは、その病気から解放されません。
この考え方は、ヨハネ9:3で主イエスによって否定されます。「本人が罪を犯したためでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 それが17節の言葉につながります。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
ここには神と神の約束への信頼のモティーフがあります。
現代は病める時代です。そこにこそキリストは働かれます。
試練の時代です。悩みがあって当たり前です。そこに暗黒が、闇があります。
主イエスは闇に輝く光となられました。これが「いやすキリスト」です。

癒しとは、解放であり、健全になることです。見えるようになること、語ることが出来るようになることです。その業は主イエスによってなされ、現在も続いています。キリスト教会もそれを受け継いできました。キリストの業を教会の業として受け継ぐことが許されています。感謝しましょう。