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2007年11月11日

《神の民の選び》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ8:51〜59

本日は暫く前、教会暦改定の動きの中で、「契約節」と名付けられた期間に当たります。
昨年も申し上げたことですが、これについては、かなり強硬な反対意見が表明されました。
そのような他に例のないことを無理やり作り出すことは賛成できない、というものでした。
たいてい、長いものには巻かれろ、無理が通れば道理がひっこむ、ということになります。
しかし、この場合は違いました。提唱した人も、反対した人も同じ東京神学大学の有力な教授でした。論争は有耶無耶になりましたが、「契約節」、五主日は立ち消えになり、代わりに待降節が前倒しのように、五主日だけ長くなりました。
 聖公会では、降臨節第1から第4主日があり、その後降誕日が来ます。これが教会の伝統です。歴史の中で、教会を豊かに養い育てるために編み出したものです。
日本基督教団は、聖霊降臨節22主日(10月21日)の次に降誕前第9主日(10月28日)となります。降誕前第4主日が、従来の待降節第一主日となります。ということは、妥協の産物でしょう。それでも意義付けはあるはずです。恐らくおかしなことだけれども、降誕日へ向けての期間を更に充実させよう、ということでしょう。そのくせ、と言っては失礼かもしれませんが、その中身は「契約節」そのものです。創造、堕落、アブラハム、モーセ、王の職務、その次が待降節「主の来臨の希望」となります。
 私たちは、この期間を待降節前の準備期間、と考えて過ごそうと考えます。
それはある意味で終わりに向かう時、また新しい始めに備える時でもあるでしょう。

創世記12:1〜9、これは10月28日、特別礼拝で北谷先生が話された所です。再度取り上げるのは気が引けますが、日課ですから止むを得ません。
ここでは、アブラハムの召命が語られます。この「召命」という言葉は、教会では良く用いられるので、説明もせずに使ってしまいますが、良くないことです。証明(アリバイを)、照明(暗い所を明るく)、正銘(正真正銘)、PCには三種類の用語がありますが、教会で用いる「使命に招き出す」という言葉は出てきません。モーセやサムエル、イザヤ、エレミアたちは、預言者へと召されました。ダビデはイスラエルの王となるよう召されました。アブラハムは何のために呼びかけられたのでしょうか。
75歳のアブラハムに、先ず語りかけられたのは、見知らぬ土地へ出立しなさいということ、それに伴うのが「あなたを祝福の源にする」という神の祝福でした。

アブラハムは、父親テラと共に、カルデアのウルを出発して、カナンを目指し、途中ハランまで来て、そこに留まりました。年齢、年数は不明です。テラは205歳になって、ハランで死んだことが記されます。その間の事情は何も分りません。
数年間と数十年ではだいぶ違います。それでも、今いる所を「生まれ故郷、父の家」と呼び、そこを離れて、私の示す地へ行きなさい、と命じられます。司馬遼太郎は、『故郷、忘じがたく候』という題の小説を書きました。16世紀末、太閤の朝鮮侵略の折、薩摩軍によって拉致され、薩摩焼の祖となった陶工枕寿官を描いたものです。
今、この講壇の脇に新しい花瓶があります。古びて見えるかもしれませんが新しいものです。先月末に、心斎橋で個展があり、気に入りました。造っておられる方の話を聞くことが出来ました。日本中の土を集め、それをブレンドして轆轤にかけ、焼き上げます。釜は奥飛騨に作った登り窯、釉(うわぐすり)は使わない、高い温度なら黒くなり、より低ければ赤みがかる、ということでした。
少しばかり薩摩の黒に似た感じがある、と思いました。週報に書きましたが、作家の小崎陶仙さんから、服部博文さんが買い取って寄贈してくださったものです。

話を戻します。故郷、忘じがたいのは誰でも同じでしょう。それを振り捨てて、見知らぬ土地へ行きなさい、と言われた時、私たちはどうするでしょうか。転勤の経験。
私には学校へ行く子どもたちがいますので、暫くお待ちください。仕事があります、よその土地にも確実にあるでしょうか。家内が病気を抱えています、病院がないと困ります。かけがえのない友人がいます、これだけは捨てることが出来ません。家を建てたばかりです、ローンも残っています、新しい土地でまた家を作る気力も体力もありません。私を支援してくれる人たちがいます、この人たちを抜きに仕事は出来ません。この土地を愛しています、思い出が一杯です。行きたくない気持ちを正当化する理由はいくらも見つかります。行かない様にする理由はいくらでも見つかります。

それにも拘らずアブラハムは、父をハランに葬ると出立します。何故出来たのでしょうか。それを語るのは新約聖書・使徒書簡の日課、ローマ4:13〜25です。ガラテヤ3:26〜29と共通するものです。どちらも異邦人の大使徒パウロによって書かれたものです。
パウロは多くの教会を指導しました。それらの教会が抱く問題に精通していました。彼の手紙の大部分は、一般論ではなく、相手教会の問題解決のために書かれています。非常に具体的な内容を持った手紙です。ガラテヤ書は、現在聖書研究会で学んでいる所ですが、ガラテヤの教会に侵入しようとする律法主義者たちを退け、福音信仰を確立しようとしています。ローマ書は教会内の二つの勢力、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題を扱います。そのため、律法主義を退け、信仰による義認を語ります。この点でガラテヤ書と共通します。

アブラハムの決断は、次の言葉で表現されます。
4:18「彼は望むべくもあらぬときになほ望みて信じたり、」
同じことをヘブライ人への手紙11:8は次のように記しました。415ページ
「信仰によりてアブラハムは召されしとき嗣業として受くべき地に出で行けとの命に従ひ、その行く所を知らずして出で行けり」文語訳。
ある時期まで、ヘブル書はパウロが書いたものと考えられていました。アブラハムの評価などで一致しているからでしょう。しかし異邦人の使徒と呼ばれ、また自称したパウロが、ユダヤ人に手紙を書くことはなかったろう、と考えます。

アブラハムは希望を持つことは出来なかった、断る理由のほうが多かった、と理解されています。それにも拘らず、彼は主なる神の約束を信じた、これが信仰です、と語られます。神の約束は、この信仰故に実現されます。不可能を可能とする力が神にはあることを認め、それを貫く信仰がアブラハムにはありました。この信仰を持つ者は皆アブラハムの子孫です。アブラハムに対する約束の継承者、約束を受け継ぐものです。

私たちは、信仰の美徳と言うようなものには欠けが多い者です。或は、倫理道徳面では苦手なものを感じます。しかし、それにも拘らず、これまで多くの恵みを感じさせられてきました。その故に神を信じることは出来るのです。神は時に、不合理な求めや試練を与えられます。私たちは嘆き、苦しみます。そうして神も仏もあるものか、などと言います。
喜びに満ち溢れている時は自分の力に酔いしれ、苦しみ悲しみの時は神の所為にする。自己中心であることがお分かりになるでしょう。信仰は、望むことが出来ない時こそ望むところにあります。希望を捨てなければならないようなときにこそ、希望を持ち、それを目指して歩むのです。自分の力ではありません。神が導き、その御手に全てお委ねするのです。

ヨハネ8:51〜59、「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」というイエスの言葉尻を捕らえて論争します。アブラハムは死んだじゃないか、というわけです。
52節、当時の人々は、イエスが自分に従えば死なないであろうといった意味が判らずにいた(6:51)。この時代、永遠の命について異なる理解がありました。夕礼拝でもこのことに触れるでしょう。

ヨハネ8章は少々難解な部分です。私などは面倒くさいナー、と感じるほどです。分析的な読み方が要求されます。話は逸れますが、ヘーゲルと言う学者が居りました。彼は経済学を研究するには、巨視的と微視的な見方が必要である、と言いました。また分析と統合、ということも言います。細かく調べること、それを再構築すること、二つながらに必要です。これは経済学に限らずすべての学問に必要なこと、更に日常の生活においても大切なことではないでしょうか。 

 アブラハムの出立は、少しであっても希望があったに違いありません。
彼の真骨頂は、イサク奉献の出来事にあります(創世22)。自ら、たった一つの希望の芽を断ち切る決断をした。それこそが、希望を持てないのに尚希望したことです。

このようなアブラハムも死にました。その後の預言者も王も死にました。生きながらえる、と語るこのイエスは何者か、とユダヤ人たちは怒りました。それに対して主は言われます。
アブラハムは今も生きている。ルカ16:19〜31、「金持ちと貧乏人のラザロ」の譬でこの考えを顕されます。
56節、アブラハムは神の約束がどの様に成就されるのかを見ようとしていた、アブラハムはその生存中、メシア到来を信じ、その時を待ち望んでいた、と主は言われたのです。

58節、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」。神の子イエスが人間として生まれながら、真の神でもあるのは、初めから神と共に存在するからです。「アブラハムが生まれる前から、私はいるのである」。時間を超越して存在している、それが神なのです。
「イエス・キリストは昨日も今日も明日も永遠に変わることのない方である(ヘブル13:8)」。
 
イエスは創造主なる神、父なる神を知っている。しかしあなた方はそれを知らない。私たちがそうです。神を知らないからこそ、知っているなどと言うのです。私たちは今、イエスの言葉とその生涯、十字架と復活によって、父なる神を知ることが出来ます。
イエスの言葉を守る者は、アブラハムの信仰の子孫です。彼が選ばれたように、神の民として選ばれています。アブラハムも何ら功績がない時、信仰があるか否かすら分らない時、神の民に選ばれました。私たちも選ばれています。感謝しましょう。



使い慣れない言葉が用いられています。『栄光』です。
栄光は、元々人間の評価、面目、栄誉を表す語を、七十人訳聖書が、神の自己顕現に伴う光と音を表すための訳語として採用しました。ヨハネ福音書は、イエスの死を彼が神に栄光を帰した出来事、また神が彼を栄光あるものとした事件として捉え、この神からの栄光を人間に由来する栄誉と対照させています。

この栄光は、イエスにとって、自分が求めるものではなく、神から与えられるものである故に意味があります。栄光を求める者は、神からの高い評価は得られないのです。