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2007年9月2日

《神からの誉れ》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書14:7〜14

だいぶ過ごしやすくなりました。この夏、全国の平均気温を比較すると、大阪が一番高かった、と伝えられました。全国に気象庁の測候所が置かれていて、その観測記録に基づくものです。昨年と較べれば大したことはなかった、と思うのは何故でしょうか。慣れがあるかもしれません。それでも、これから猛暑の付けを払わねばなりません。涼しくなると夏の暑さの疲れが出てきます。お気を付けください。

本日も旧約の日課から読みましょう。1023ページです。ページをお知らせするのは簡単なことです。若い方には、聖書名目尽くしの歌で憶えていただきたいものです。
箴言25:2〜7a、ソロモンの知恵とされるが、もっと多くの時代の産物ではなかろうか。
イスラエル、ユダヤ人には現代に至るまで、このような知恵、箴言、格言、諺を重んじる心があります。ユダヤ5000年の知恵、ユダヤの諺、ユダヤ人のユーモアなどと題する本が今でも出版されます。
この部分は、ユダの王ヒゼキヤに属する人々(紀元前715〜687年頃)、すなわち書記たちによってもたらされたもの、とされる。恐らく王の図書館の古いものの内から、有用と考えたものについて新しい写本を造ったのでしょう。

お読みします。初めの部分だけでもなかなか分りにくいものです。
口語訳「事を隠すのは神の誉れであり、 事を極めるのは王の誉れである」。
文語訳「事を隠すは神の栄誉(ほまれ)なり、事を窮むるは王の栄誉(ほまれ)なり」。
英訳 It is the glory of God to conceal a thing:
but the honor of kings is to search out a matter. 
私たちは隠し事してはならない、というように教えられました。成長するに従って、それは子供が親に隠し事をすることであり、一般的にはすべてをオープンに、公開することはあり得ない、という事を学びます。プライバシーは保護されることも確認されました。
このところの解釈は、「神秘は神の本質であり、よき王は世論に耳を傾ける」ということである、とされます。それでは「事を極める」とは何でしょうか。
 ひとつは、君子の道、という解釈です。古典に「君子は一以って之を貫く」とあります。
どのようなひとつだろうか、という問いが出てくるでしょう。右往左往しないで一本の道を進むこと、とされました。箴言の時代、同じ思想があった、とすると面白いのですが、余り現実的ではありません。
 もうひとつは、王としての使命、という考えです。その達成に向けて一路邁進する、ということでしょう。こちらのほうが相応しいようです。
王として使命を達成することの中に、神からの賞賛、栄誉があるということです。

 次に新約聖書、使徒書を見ましょう。337ページです。
?コリント11:7〜15、福音を無報酬で伝えるパウロの自負が語られています。この時代、多くの偽伝道者がいました。彼らは自分の利得を図り、多くの報酬を要求、取得していたようです。他方、真の伝道者パウロは生活費をどの様にして得ていたのでしょうか。不自由な時もあったが、マケドニアから来た人々が、その必要を満たしてくれた、と語っています。これはフィリピの教会を指す語です。マケドニアはフィリピを含むギリシャの北部、アカイアはコリントを含む南部。

フィリピの信徒へあてた手紙の最後は、パウロからのフィリピ教会への、感謝の言葉で満たされています。
4:15以下で、あなた方は、私の窮乏を補ってくれた、それは神への捧げ物となります。そして神が、あなたがたの必要をすべて満たしてくださるでしょう。このように告げています。
フィリピの人々への賞賛と感謝の言葉は、そのままパウロ自身の覚悟を示しています。利得を得なくても、神が豊かに与えてくださる、と。

ルカ福音書14:7〜14、ここでもルカ福音書特有の譬が語られます。
招待を受けた人と招待する側の人に、心得を諭します。
先ず、招待された時、上座に着くな、と教えます。着座と訳されますが、この時代、宴席ではローマ風に横たわるのが普通でした。ある学者ははっきりと、横たわると訳します。
末席を選びなさい。そうすれば、どうぞ上の席へお着きください、と言ってもらえるかもしれない。上座から下へ移ってください、と言われるのとどちらが面目を施すことになるだろうか。
これは非常に世俗的な知恵のように感じられます。その結語は、福音の衣を着せられているように感じます。『高くすれば低くされ、低くすれば高くされる』。

ガルスト、チャールス・エリアス、アメリカ人、ディサイプルス派の宣教師。
1853〜1898、ウェストポイントの陸軍士官学校を出て、インディアン戦争に出征し、大尉にまで昇進。退官して宣教師となり、夫人と共に83年 来日。出遅れた教派のため、東北しかなかった(1859年リギンス、ウィリアムス来日、同年ヘボン、ブラウン、フルベッキ)。
秋田、山形で伝道。農民の貧しさに心を痛め、これを解決しなければ伝道も困難である、と考え秋田から鶴岡へ移り、貧困の理由を分析しました。
(当時、山形では「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われていた、と聞きました)。

小作農民は、地主に地代を払い、更に国税が課せられるので、二重に税金を納めることになっていた。ガルストはこれを不合理とし、「単税論」を主張し、新聞などにその考えを発表。「単税太郎」の名で知られるようになり、講演にも招かれ、世論に大きな影響を与えた。足尾銅山事件の田中正造、社会運動家の片山潜、安藤太郎、政治家の板垣退助、大隈重信などとも親交がありました。ガルストは、自分の利得ではなく、福音伝道のため社会問題へ目を向けた宣教師でした。その墓は青山墓地にあります。30歳で来日、46歳で眠りにつきました。「私の生涯が遺言だ」、「ガルストは日本人の心を愛した」

生前、苦しいことの多い生活でした。軍人として出世も出来たでしょう。しかしインディアン戦争の残酷、悲惨を体験すれば、続けること、出世を求めることは出来なかったのでしょう。彼は世の中からの賞賛を浴びることや、政府からの勲章のような栄誉を受けることはありませんでした。しかし今現在、聖学院大学の副読本『聖学院の精神と歴史』にその名を止め、研究され、評伝が出版され、多くの人の心に刻み付けられています。
神からの誉でしょう。感謝しましょう。