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2007年2月4日

《教えるキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書8:4〜15

箴言知恵の泉(箴言). 箴言は、充実した人生を送るための実際的教訓集です。 人々を悔い改めに導く働きをする・・・ 箴言には、神様の知恵とともに、もともと人間に備わっている知恵や常.識などもあり、それぞれ、日常生活に役立つものです。(グーグルによる)

詩1編などは、まさに箴言・格言を集めたものと言えるでしょう。別府の孫の名は、流果。
詩1編を感じています。「かかる人は、流れのほとりに植えし木の、期(とき)にいたりて実を結び、葉もまたしぼまざる如く、そのなすところはみな栄えん。」
ここで示されているのは、箴言1:15〜19と同じこと、詩人はもっと積極的です。
知恵ある者は、神に従うもの。悪事に誘われずその罠を逃れることが出来る。詩人は、豊かな実りを謳います。讃美します。

日本人は箴言とか、格言が好きだ、と言われます。
漢字文化の伝統である四文字熟語はそのひとつです。『千字文』はその宝庫です。
「積善の余慶その家にあり」「邯鄲一睡の夢」「臥薪嘗胆」「同床異夢」
「悪銭身につかず」「悪い奴ほどよく眠る」「青年老いやすく学成り難し」
「人生至る所青山あり」
個人の名が付されていても、古代の人々の、近世社会の、あるいは民族の知恵を総合したもの、と言えるでしょう。それにしては、最近の日本人はあまり賢いとは言えません。
いつの間にか、からだの奥深くまで染み込んでいる様なものでしょう。

スタディーバイブルは、その冒頭の各書解題で、このように書いています。
「格言の目的について『知恵と諭しをわきまえ・・・正義と裁きと公平に目覚めるため・・・知識と慎重さを与えるため』と述べられている。何よりも、真の知恵と知識は神を敬い、神に従う事を通して得られるものとされる。箴言は知恵を神からの賜物として描いており、神に従うものはすべてこの賜物を持っており、それを用いるよう勧められている。2:6
知恵ある者とは、他の人に公正と正義をもって接し、謙遜、忠実、勤勉、親と権威ある者への尊敬、貧しく虐げられている者への援助などの大切さをわきまえている人とされている。」   
「旧約の箴言では、知恵は神から来るものであり、初めから神と共にあったものとされる。」
1:7“主を畏れることは知恵の初め、無知な者は知恵をも諭しをも侮る。”
これこそ旧約箴言の核心です。
私が、若い頃心惹かれたのは、27:6です。
「愛する者の傷付けるのは真実(まこと)から、敵(アダ)の接吻(口づけ)するのは偽りからである。」
新共同訳は次のようになります。
「愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くの接吻を与える」
すべて物事には、表面とその陰になる部分があるのだ、と教えられました。それはしばしば全く反対であることが多いのです。

神を畏れる知恵をイスラエルは教えました。憶えさせた、というべきかもしれません。
ギリシャの教え方と同じだったと言われます。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの時代から変わりません。先生と弟子が共に歩きながら、先生が質問する。弟子が答える。さらに質問し、問題を深める。答える。そして先生が教える。
この形は、福音書でイエスが弟子達との間で、しばしば行なっているものです。
ある時には、山の上で腰掛けて、多くの人々に語られました。ガリラヤの海辺で語られたこともあります。病人の家で教えられたこともあります。エリコ近くを歩きながら教えたこともあります。あらゆるとき、機会を捉えて教えようとなさったようです。ご自分の準備が整っていることも大事でしょう。それ以上に主は、教えを受けようとする姿勢が整っている事を見ていたように思えます。それは求める気持ちがある、ということです。烏合の衆と言われる群衆であっても、一人一人は熱心に求める人であり、教えに渇いた者たちです。そうしたものを感じ取れば、ためらうことなく、その彼ら、彼女たちのために語られました。

ルカ福音書8:4節以下は、『種を蒔く人』のたとえ、とされています。
種を蒔く人、と話し始めたとき、主イエスの視線の中に、当にその人が入っていたのだ、と解釈する学者も居ます。面白いですね。現場主義、とでも言いましょうか。それほど身近な事を用いてお話になられたのです。
 ここに語られている種の蒔き方は、日本の農業を知る人からは、農民・百姓はこんな荒っぽい種まきはしない、と怒られるようなものです。確かに、わが国ではこのような方法はとりません。しかし古代イスラエルの農法は、このようなものだった、と聞きます。

当然のことでしょうが、イエスの時代には、日本のように深く耕した畑があるわけではありません。あるいは、土を入れ替えるなど土壌改良をするようなこともありません。
種を入れた袋を自分の背中か、ロバの背中に乗せます。下隅に穴があけてあります。歩くにつれて落ちて、風に舞います。何処に落ちるかは風任せ、運任せ、ということです。ここで語られるように道端、石地、茨の中、よい土地、様々なところに落ちます。そして様々なことが起こります。人生いろいろ、種もいろいろ、育ちも様々、ということになります。
主イエスは、このたとえで何を教えようとされたか、11節以下で解説しておられます。
御言葉が語られ、聞かれる。これが種まきです。聴いた人の事情、状況が様々な場所によって表されています。

種蒔く人は、どの種が何処に落ちて、どれ程の収穫になるか知りません。
それでも蒔き続けます。
主イエスの種まきも全く同じです。100パーセント大丈夫なわけではありません。それでも種は蒔かれました。
聴く私たち、聴衆はどのような土壌なのでしょうか。主は私たちを百倍の実を結ぶ良い地、と見てくださっているのです。

9,10節は、譬を用いて話す理由が語られます。驚いたことに、それによって、多くの人には真意が伝わらなくなる、というのです。私たちは、伝わりやすくしようと考え、譬を用います。主イエスの譬は、その内側に本当の事を隠してしまうのです。しかし少数の弟子たちには、福音の真意が明らかに語られました。それは、福音が付託されたことです。

 先日息子のことが心配になってメールを送りました。薬・ドラッグの誘惑が怖い、と。
直ぐに返信がありました。「どうしたの急に、大丈夫だよ、信頼」。

 信頼されていること、心配してくれる人がいること、どちらも感謝すべきことです。
私たちは、主イエスより良い地、として信頼されています。感謝しましょう。
良い実りを結ぶためには、忍耐が必要です。
箱舟を造るように選ばれたノアを思い出します。人々の嘲笑と誘惑を忍び通しました。
結実に必要なのは忍耐です。主イエスの信頼に応えようではありませんか。

 ?コリント4:8以下でパウロは、「わたしに倣うものになりなさい」と勧めます。
若い日に『凄い人だ』と感じ、今も同じように感じる自分を見出しました。
このような人に憧れました。しかし今は違います。パウロはパウロ、私は私。
彼が勧めることは受け入れ、認めます。それは、このところでは、福音のうちにとどまりなさい、ということです。人に勧めながら、自分は知らずに外れてしまうことのない様にしよう、ということになるでしょうか。
福音を分かち合いましょう。その喜びを共にしましょう。