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2007年1月28日

《新しい神殿》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書21:1〜9

 本日も旧約の日課から読みましょう。ハガイ書は、旧約の1477ページです。
あまり読まれることのない箇所でしょう。理解を深めるために、イスラエルの神殿の歴史を、お話しましょう。

アブラハムの時代には神殿はありませんでした。高き所、高い木の下を礼拝所としました。マムレのテレピンの木の傍らで、という言葉を直ぐ思い出します。何処からも良く見える場所だったようです。
エジプトの経験は、壮麗な礼拝所・神殿を求めさせました。
出エジプトの時に幕屋を造る事を命じられます。そこにはエジプトの神殿を偲ばせる形は見られません。アブシンベル神殿程度しか知りません。
    幕屋を神殿の原型と見るのが普通であるが、逆に、ソロモン神殿を原型に幕屋を構成したのではないか。神殿のミニチュアたる幕屋。ソロモンを理想の王とする考えに基づくもの。(ただし、これは私見です。)
幕屋は、シロの聖所に安置されました。
ソロモンの神殿。7年を要しBC951年完成、587年バビロニア軍により破壊されます。
  ダビデは、血を流した罪の故に、神殿造営は許されなかった。この記述は、ソロモンを理想の王とするためのものであろう。
(罪深い牧師、信徒は、会堂建築に携わることが許されない、と言われることがある。それは間違い。ヘロデを見よ。それ以上に罪のない者がいるのか。聖書はすべての者を罪人と断じる)。

バビロン捕囚、バビロニア帝国、ネブカドネツァルの兵士は神殿を破壊しました。
帰還のイスラエルは、ペルシャのキュロス王から神殿再建を許される。
資材や経費もすべて支給される。538年には始められた。
しかし、近隣諸部族の反対のため、ダレイオス王の時まで延期される。
その後、アレキサンダーの東征後、アンティオコス・エピファネスは、神殿に豚を追い込み、異教の祭儀を行なう。これに対して立ち上がるのが祭司マカベヤ家の人々。
独立に成功し、神殿を生別する。ハスモン王家となり、宗教国家・祭司候国となる。
ヘロデの神殿
  流血王の彼が神殿を建てた。紀元70年、ローマ軍によって破壊されます。
以来今日まで、誰も神殿を再建することは出来ない。その跡地にはイスラムのモスクが建てられている。黄金のドーム(丸屋根)をもつ、エル・アクサ寺院です。

 ハガイ書は、キュロスの時代からすでに20年近くたっているのに、神殿はどうしたのか、と怒りをもって語っています。ダレイオスの第二年はBC520年7月と考えられています。20年近く、お前たちは様々な理由を言い立てている。神殿を建てることは出来ない、と言って来た。その一方で自分たちの住宅は立派に建てている。これはどういうことか。
それに対する怒りが第1章です。神殿で用いるべき木材は、お前たちの家に用いられている。「板張りの家」という表現があります。私たちの感覚では、紙と土のバラック、掘っ立て小屋、のように感じるかもしれません。しかし、中近東の事情は、それとは異なるはずです。石や煉瓦を基本材料とする世界では、その上に板を張る、というのは素晴らしく豪勢なこと、贅沢なことなのです。神の家をないがしろにして、お前たちは自分の屋敷を必要以上に贅沢に作っている。そればかりではなく、図々しくも神の恵みを求め、多くの収穫があるように、と願っている。
それゆえ私は、旱魃を呼び寄せた、と言われるのです。

そして第2章、勇気を出しなさい。思い切って神殿を建てなさい。ダビデ王家の子孫で、総督に任じられているゼルバベル、大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、そして国の民が呼びかけられます。主なる神は、「諸国の民を動かし、すべての民の財宝をもたらす」。そして「この神殿を栄光で満たす」と言われます。神殿の主は世界・諸民族を統治する主です。
「銀は我がもの、金も我がもの」という言葉はよく知られています。
ここで造営される神殿は、昔のものに勝る、とも言われます。
人間的に考えるなら、不可能に思えること、そのために20年近い歳月が無為に流れました。今や、そのときを意味あるものにしようとするかのように、神ご自身が語りかけ、動き出そうとされます。神が、その神殿を建てられるのです。

現実には、ソロモンの神殿より一回り小さく造られたようです。
それが、穢されたことによって、イスラエル人たちは立ち上がり、戦いました。
訓練され、戦いなれた、強力なシリア軍を相手に廻し、奇跡的な勝利を収めました。
神の勝利、神の栄光が顕されました。神のご計画は、いつも人の想いを超えた所に顕れます。その時には、不思議であり、理解することが出来ず、受け入れ難いことも、時間と共に、その中に主のご計画を見出し、讃美できるようになります。
ある時期を耐え忍ぶことも必要です。

さて、昔の神殿を見て来ました。この神殿には、どのような意味があるのでしょうか。
神殿は、神の住居する所、神の栄光が人の世に差し込むところ。
それを受けて、人が神を讃美するところ。神は人を用いてこれを建てさせる。しかし、人によって破壊され、消滅するところ。

それではルカ福音書21章は何を告げているのでしょうか。
神殿では人々が礼拝をします。それを御覧になりながら、主はその神殿が滅びる事を、消滅する事を預言されます。それは紀元70年ユダヤ戦争で現実のこととなります。
 ルカ福音書が書かれたのは、紀元80年代とされます。著者は、主の言葉が本当のことだ、と知りました。信じると言う以上に、そのことが現実化した事を見たのです。その手で触っていたかもしれません。あれほどに素晴らしく、永遠に残る、と思われたものが、主イエスの言葉通りに消滅してしまう。これは驚きだったでしょう。

最後になりますが、新約のパウロ書簡は何を告げるのでしょうか。
?コリント6:14〜7:1、「私たちは、生ける神の神殿なのです」とあります。
創造された人間は、神の息が入ってはじめて生きる者になった、という意味で神の住まう所、神殿と理解されています。これが《新しい神殿》の信仰です。
ある学者は言います、「パウロは、霊的な宮としての共同体という概念を発展させた」と。
パウロにとっての意義は何でしょうか?
ユダヤ教神殿の特性であったユダヤ人と異邦人の間を隔てる中垣を取り除いたことであり、その結果、万民が神に近付くことが出来る神殿を主張しています(エフェソ2:14〜)。
「だから、心に留めておきなさい。あなた方は以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。・・・22節、キリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
私たちが神殿であれば、当然、その生き方も見えてきます。同じように他の人の生き方も、それに対する対応も見えてきます。それがパウロの倫理です。それが?コリント7:1です。「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
これは、少しばかりショックを感じさせます。聖なる者になる、それは私には無理、というのが普通です。自分の力で、と考えるからです。「聖」とは、神のものになることです。神ご自身が、すでに身代金を払って私たち一人一人を御自分のものにしてくださったのです。それを感謝して受けるだけです。ありがたいことです。これが私たちが「新しい神殿」であることの意味です。

古い神殿は、歴史の中で繰り返し破壊され、消滅し、再建されました。
キリスト・イエスの十字架によって命を与えられた新しい神殿、すなわち私たちすべてのものは、滅びることがありません。感謝と讃美、望みに溢れて歩みましょう。