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2007年1月21日

《宣教の開始》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書4:16〜30

 教会の説教は、大別して二種になります。
ひとつは「講解説教」。聖書を真正面に据えて、それと取り組み、聖書自体が語る事を聴こうとするものです。その過程で、教義学的な解釈が入ることは当然考えられます。政治、経済、文学のような社会学的解釈も入るでしょう。様々な領域が適度に、判りやすい形ではいるならば、聴衆の心に届く説教になるでしょう。一領域だけが突出すると、福音の説教・宣教にはなりません。
もうひとつは「主題説教」と呼ばれます。教義学の主題や、時事問題の主題を掲げて、それに対する聖書の教え、または教会の教義を語ろうとするものです。教団の教会暦とその聖書日課は、主題説教を前提としていると考えられます。その時々に語りたい事を選ぶことが出来るので、人間的な好みを反映しやすいと考える向きもあります。

どちらも説教者がどれほど聖書に耳を傾けるか、という問題になります。聖書的な説教になることが大事です。とりわけ説教する者が、聖書を利用して自分自身を語り、誇ろうとする事を排除しなければなりません。
説教批判をしてはならない、という考えがあります。私はそうは考えていません。教会は正しい説教批判をしなければなりません。その役割を担うように役員が選ばれ、任命されています。牧師を補佐する務めは、牧師の説教が誤った方向へ行く時、いち早くそれを指摘し、正すことです。正しい説教であれば、それを奨励することです。
協力牧師がいることのメリットは何か。先日のように、聖餐式の司式を代わってもらえることでしょうか。第五主日の説教をお願いできることでしょうか。そのようなピンチヒッター的な仕事をお願いすることではありません。もう一人の説教者が聴いている、ということです。正しい説教批判をする者がいる。これが良い説教を生みます。

説教批判をしてはいけない、ということで一切沈黙が守られる所では、礼拝は沈滞します。活発に話し合われるとき、礼拝は活性化します。千葉県の松戸教会に石井錦一牧師がおられます。同志社出身です。学生時代にお目にかかることがあり、以来ご尊敬申し上げています。先生は、礼拝後に皆が説教について語り合う時間を設けている、と教えてくださいました。先生は見事な説教をされるから、自信がおありなのだろう、と感じます。御殿場の頃、と記憶しますが、このようにおっしゃいました。
「イヤー、僕の説教だって随分叩かれるものだよ。でも有り難いことだね。最初は否定的なことが続くけど、最後には必ず良い事を言ってくれるのだ。肯定してくれる。教会員は優しいよ。有難いよ」。
陰口になるようなことは良くありません。説教について語ることはタブーではありません。自分の説教に関して自信などはありませんが、語り合おうではありませんか。
 長々と前置きのようにお話しました。実は、これが本日の本論なのです。説教とは、宣教そのものです。福音を告知することです。このことが、聖書を通して語られます。

先ず本日の旧約聖書を読みましょう。
民数記9:15〜23、出エジプトの民が、その翌年の第1の月、シナイにいた時のことです。この部分は、第1章が「第2の月」の出来事で始まっているので、すでに執り行われた過越し祭りのことが言及されている、と考えます。
このところのメッセージは、雲の柱、火の柱、という言葉で記憶されてきました。
実態は不明です。昼間は雲の柱、夜は燃える火のように見えました。
出エジプトの民は、雲の柱が留まる間は、宿営し、滞在して動きませんでした。
この柱が動くとき、それに従って進みました。イスラエルは、その出処進退の全てを主なる神の御意志に従いました。23節の最後に記されるとおりです。
「彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った」。
 
これを読み、思い出したことがあります。神学校の時、ドイツ人の教授が宣教学を担当していました。ドイツへお帰りになり間もなく、亡くなられた、と伺いました。
「君たちが出て行って伝えたとき、キリストがそこへ行かれる、ということではありません。何時でも、何処でも、主は私達に先だって行かれます。この主が、世界の主であることを宣言することが宣教です」。概ねこのように語られました。
 説教は、主がいましたもう事を宣言する、告知する業です。私たちがどれほど拒絶し、否定しようとも、主イエスはいましたもう。私たち一人一人を愛していてくださっている、と宣言し続けることです。世俗化し、無神論的になった世界に最も必要なことです。

ルカ4:16「いつもの通り安息日に会堂に入り・・・」とあります。主イエスはこれまでにも、会堂で聖書を読まれ、語っておられたようです。しかし、ルカ4:14以下で、小見出しは、「ガリラヤで伝道を始める」としています。
カファルナウムは、ガリラヤ湖の北岸にある漁業の町。イエスの時代、強制的に徴税を行なうローマ兵が拠点とした場所。イエスは宣教開始後、ナザレからカファルナウムに移りました。これは、スタディバイブルの解説です。以下に幾つか記します。
4:16「聖書」律法、預言者、諸書から構成される、現在キリスト教での旧約聖書(書の順序は異なる)を指す。
25〜27節、サレプタのやもめとシリア人ナアマンは異邦人でした。この物語を通して、神は異邦人を含めたすべての人に目を注いでいる事をイエスは示しました。列王上17:1〜15、列王下5:1〜14参照。
ルカ4:27「重い皮膚病」、多種多様な皮膚病の総称。特定の皮膚病と診断された者は汚れていると考えられ、神を礼拝する人々の共同体に加わる事を拒否された(レビ13,14章)。ユダヤ人の共同体では、汚れた人や物に触れた者が社会生活へ戻るためには沐浴をして清めの儀式を経なければならなかった。

主イエスの宣教第一声は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というものでした。捕らわれている人は解放され、眼の見えない人は見えるようになり、圧迫されている人は自由になる。このことが成就したと宣告なさったのです。
社会の掟に縛られ、疎外されている人。見たくても許されない人たち。行きたい所へ行けない人。様々な形が考えられましょう。すべてこれらの人が神の愛によって解き放たれました、と言われたのです。

新約聖書の書簡からは、?コリント1:1〜9です。手紙の冒頭の挨拶とそれに続く讃美・感謝が記されています。8節、9節をお読みします。
ここでも、イエス・キリストによって、神の恵みを受けたものであること。
この神は真実な方であり、私たちは、この方によってイエス・キリストとの交わりに招き入れられたことが語られています。その形は、まさしく宣言になっています。

本日の三つの聖書日課は、その繋がり方が判りにくくなっています。
三つの点に絞ってしまいましょう。
主が始めた宣教は、恵みの神の主権を宣言するものであること。
その主権の下、人は従うか否か決断するものであること。
そして、主が最後まで支え、導いてくださること。

今、鎮西学院院長をしておられる林田先生が、以前お話しになった事を思い出します。
諫早の洪水のとき、家が流されてゆく。その屋根に子どもが乗っている。父親が船でその下に来た。子どもに、お父さんの腕の中に飛び降りなさい、と呼びかける。決して、お前の自由だよ、どちらでも良い、などとは言わなかった。

 主イエスは、私たち一人一人を愛してくださっておられます。その愛は、ここへ来なさい。私の愛のうちへ、飛び降りなさい、と宣言します。告知します。
感謝して、この愛の言葉、宣言に答えようではありませんか。