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2011年2月27日

《癒やすキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ 5:12〜26

前週は、おおよそ暖かい春を思わせる日が続きました。
そうした中、教会員の葬儀が行われました。
昨年はお二方、小澤兌治兄、大橋眞兄。この1・2月でお三方、田中良平兄、小西善己兄、佐溝敏一兄、五人の方々の葬儀をこの会堂で行いました。御国はたいそう賑やかになり、地上の教会は淋しくなったように感じます。許斐兄は、中谷先生にお願いして、家族葬の形で葬られました。
ご家族の方々は誰よりも寂しさを感じておられることと存知ます。
主イエス・キリストによって、その悲しみが癒やされるよう祈ります。

私の聖書1989では、本日の聖書の小見出しに、『らい病を患っている人を癒やす』とあります。本文にも「重いらい病」とあります。
新共同訳の早い頃の版なのでしょうか。出版後、この言葉に関して論争が起きたはずです。新訳は、差別語を排除することを大きな目的としていたはずです。検討された結果、今では『重い皮膚病』とされました。こちらの黒い皮表紙の聖書1997は、神山教会の宇佐美伸先生が、最後の時期に使っておられたものです。『重い皮膚病』となっています。

わが国の歴史の中で、「らい病」の語は、無知と誤解、偏見と差別に満ちた言葉でした。
この病気を正しく理解し、差別をしないようにするために、今では、ハンセン病と呼ぶのが普通になっています。それに従います。原因不明の病気から治る病気になったのです。
この病気は、からだの末梢神経が麻痺したり、筋肉が弛緩したり、髪の毛が抜けたり、というのが特徴です。
ハンセン病の病原菌は、結核の病原菌と同じような形で、桿状菌と呼ばれます。
長い間特定されなかったのは、感染力も弱く、陽光に当てるとですぐ消えてしまうため、培養することも難しかったためです。病気の原因がわからないため、遺伝だ、血統病だ、と言われ、天刑病、不治の業病、と呼ばれてきました。

1873年、ノルウェーの医師ハンセンが、ようやくこの病原菌の特定に成功、病気の正体が知られるようになりました。遺伝でもない、血統でもない、他の多くの病気と同じように、感染症に過ぎないことが解かりました。次は特効薬の開発です。
1943年、大戦中のアメリカで、らい菌を消滅させる薬が、開発されました。プロミンです。
日本では同じ頃、石館守三博士により合成され、多磨全生園で使用され、著効がありました。昭和22年、長島愛生園でも使われ、治る病気になりました。
しかし行政は、依然旧来の姿勢を崩さず、かえつて、強制隔離、強制収用、強制消毒、外出禁止を、『らい予防新法』制定によって(1963年)、強化しました。
時流れ、1996年3月27日、衆議院本会議場において『らい予防法廃止に関する法律案』が可決され、ついに廃止が決定。4月1日、同法制定。全ての入所者、又在宅者への医療、生活、福祉の援護が、今後共に、国費によって行なわれることとなりました。

 それから15年、現状は如何でしょうか。好善社理事長・棟居勇先生が、『福音と世界』1月号に療養所の実情と法律施行の状況、過去と将来への課題などを簡潔にまとめておられます。多くの市民は、ハンセン病問題は終わった、と考えているかもしれないが、実際はお寒い状況であり、何も前進していません。一読をお勧めします。

2008年5月、『ハンセン病問題基本法』が制定され、2009年4月施行されました。
この法律は、予防法廃止の時、国が約束したこと。「最後の一人になるまで責任を持つ」
「社会の中で生活するのと遜色のない水準を維持するため、入所者の生活環境及び医療の整備を行うよう最大限努める」、
この二つをどの様に具体化するかを定めたものです。残念ながら、作業ははかどりません。
棟居理事長は次のように一文を閉じられます。
「過去100年間、無らい県運動などにより国を挙げての『未曾有の人権侵害』といわれる苛酷な仕打ちを強いられたハンセン病療養所に生きる人々が、今、『尊厳ある人生の終りを』と日本社会に訴える声を、私たちはしっかりと聴き、受け止めなければならない。」
ここにはハンセン病者の人権回復が訴えられています。

本日のルカ5:12〜16には、同じように、病者の人権への配慮を見出します。
この人は謙遜な信仰者でした。自分の求めは、なんとしても癒やされることでしょう。それでも、「御心ならば」、と申し出でます。この信仰に対応するように、イエスが手を差し伸べてその人に触れ、とあります。病気の人に触れるなら、その病気に染まる、と考えられています。なんと大胆なことでしょう。病も汚れもその身に引き受けられるのが主イエスです。そしてイエスは言われます。「よろしい。清くなれ。」「宜しい」は、私も願う、志す、という意味です。英訳には、?am willingとあります。この人が清められ、ユダヤ社会へ復帰すること、人権が回復されることを心底願っておられます。

 癒しは、言葉によってなされます。創世記は言葉による天地創造を描きます。神の力は、その口から出る言葉のうちにあります。その言葉は、新しい状態、環境にこの人が適応できるよう指導することも含まれています。病気が治ったことを社会の考えに従って証明しなければ、社会復帰は出来ません。宗教共同体ユダヤの市民に復帰しなければ、本当のいやしにはなりません。

らい病が癒された時にどのように行動するか、その基準は、レビ14:1〜32にあります。
らい病が癒やされた者は、その規定に従い、癒やされたことを祭司に証明してもらい、感謝の献げ物を納める必要がありました。

主イエスは、差別されていたこの病気の人を、イスラエル人の社会にお戻しになられた。これが真の意味の癒やしです。病気は治った。病原菌は見られない。しかし身体状況は改善されず、意識は回復せず植物状態、という人もあります。
全人格的な癒やし、権利回復こそ、主イエスの癒やしです。

「誰にも言わないように。」祭司にも、ここで起こったことを告げる必要はありません。
他の誰にも話してはなりません。これほど不思議なことが、嬉しいことが我が身に起こった、と言い広めたくなるでしょう。イエスはそれを禁じられました。
これまた現代日本の状況です。
病原菌は見られない。しかし、市民サイドでは、恐れ、不安が消えていないのではありませんか。そのために、元患者さんたちは故郷の家に帰ることができず、療養所で生活を続けています。病気は治った。しかし一般市民が元患者さんたちを見る目は、大して代わっていない。時が来るまで、沈黙も必要です。

 さて本日は、中風の人の癒やしも一緒になっています。
中風とは、半身の不随とか、腕や脚の麻痺する病気です。一般的には、脳出血、脳梗塞や脳軟化後に残る(後遺症の)麻痺状態のことです。運動機能障害ことに痙性片麻痺や言語機能障害をきたした状態です。
ここに登場する人は、かなり重い症状のようです。随意に動くことが出来ません。
殆んど身体の自由がない状態で、四人の人の担ぐ戸板に載せられて移動しています。
イエスに大きな期待を抱いてやって来ました。

彼について、もう一つ推測することがあります。彼が、愛されている、ということです。
戸板を担ぐ四人の姿、彼らの熱心さ、動きが自主的であること、常識も覆す決定などが見えます。恐らく家族から、家中から愛され、信頼されているのでしょう。
イエスがおられる、と聞いたところに来ました。しかし近寄ることが出来ません。
人間の壁、群衆の壁です。ルカは、しばしばこの壁を描きます。
ルカ18:39『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます・・・」
19:3「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることが出来なかった。・・・」そこでザアカイは、イチジク桑の木に上る。
 壁を越える方法を四人の者は見つけました。常識破りですが、屋根に上り、穴を開け、そこから吊り降ろします。大変なブーイングが起きたことでしょう。
これを見たイエスは、その中に信仰を見て取り、言われます。
「人よ、あなたの罪は赦された」と。

そこには、律法学者たちとファリサイ派の人々がいました。当時の常識ある人たちです。
身体が不自由になっているのは、当人かその家族の誰かが罪を犯したためです、と考えています。
イエスを非難しようと構えている人達は、これを神への侮辱、神を汚すことだ、と受け止めました。彼らは、神のほか誰も罪を赦す権威は持っていない、と信じていました。

それに対する応えは『あなたの罪は赦された』という言葉です。そのことを実証するために、癒やしの奇跡をなされます。これも言葉によるものです。
『私は、あなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』
彼は身の自由を回復させられ、感謝して讃美しながら帰って行きました。

本日の二つの癒やし物語に共通するのは、全人格の回復でした。共同体への復帰、という奇跡です。
今、日本社会では、絆の喪失、孤立化などが問題になっています。社会生活を営むことが出来なくなっている人がいるのです。
ハンセン病は、治らないもの、と考えられていました。治る病気となりました。奇跡です。今や絶滅に向かって動いています。しかし、人権の侵害は固定されています。その救済がもう一つの癒やしの奇跡になります。
ベッドに寝ていても、社会生活は可能です。街中を歩き回っていても、反社会的になることが可能です。主イエスは、そのような者たちに対し、手を差し伸ばし、清くなれ、と言われます。たくさんの奇跡が起こされています。
感謝しましょう、祈りましょう。