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2011年2月20日

《教えるキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ 8:4〜15

明るい陽射しになりました。もうすぐ春がやってきます。寒い時を過ごされた方たちも、もう少し気を緩めず、乗り越えていただきたく存知ます。

本日の聖書は、ルカ8:4〜15、『種蒔きの譬』です。譬で話す理由と譬の説明が付いています。マルコ4:1〜9〜12〜20、マタイ13:1〜9〜15〜23、にも同じ譬話があり、良く知られています。大雑把に見ることにしましょう。

マルコは、最初の情景はマタイと同じです。いろいろな譬を話したようです。その中の一つがこの譬です。結実・収穫は30倍、60倍、100倍となります。
譬で話す理由は、「外の人々には、全てが譬で示される。それは、彼らが理解せず、赦されないためである」。譬は、ここにいる者以外に対して、拒絶的に働きます。

マタイは、場所を海辺とします。舟に乗り、座って話される。群衆は岸に立っています。
内容は、多少の違いはありますが、おおよその筋立ては同じです。全体としては、マタイは物語に手を入れ、膨らませている、と感じます。

ルカは、場所も不明です。譬の理由は端的に、彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようになるため、とされます。イザヤ6:9、10の引用です。以下がその全文です。
主は言われた。「行け、この民に言うが良い  
よく聞け、然し理解するな  よく見よ、しかし悟るな、と。 
この民の心をかたくなにし  耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく  その心で理解することなく
悔い改めて癒やされることのないために。」

「聞く耳あるものは聞くべし」、これは預言者イザヤの精神でした。6章は貴族アモツの子イザヤが、預言者への召命を受けた直後の場面です。イスラエルの民にこの言葉を語る時、預言者の心は悲痛な思いに満たされることでしょう。主イエスもこの譬で同じ言葉を語り告げました。愛するイスラエルの民に、彼らの救いのために来られた救い主が、お前たちが救われないために、と言わなければならない。自分の使命を否定するようなことを語らざるを得ない。愛しているのに愛想尽かしを言わなければならない、卑俗かもしれないが、近松の浄瑠璃本を思い起こします。
次に譬の本文と、その意味の説明を調べましょう。
この譬については、面白い注解があります。飯島正久先生です。
「パラブル自体は、このように単純明快なものである。但し、その伝えんとする心は、静かに深く秘められていて、表面にはちらついていない」。
大変学殖の深い先生でいらっしゃいますが、ここではこれ以上のことを書いておられません。語ろうとしません。
『読めば解かるでしょう。解からなければ、あなたは見ても見えず、聞いても理解できない類の人です』、ということでしょうか。

そして、その次、9,10節、譬で話す理由の部分でも、興味深いことを説かれます。
「キリスト教は万人のための福音ではあるが、それは決して民衆の宗教ではない。キリストの福音は神意的にオープンなものであるが、今日の教会は機会あるごとに、それを人為的にオープンなものにして、堕落してしまう」。
 こうした現状、相も変らぬ群衆の実態に対して、キリストがその福音の秘義を守り抜く唯一の手段といえば、譬だけだったのです。譬だけが、福音を群衆の土足から覆い隠し、彼らをふるいにかけて、少数の「聞く耳ある者」に個別的に語りかけることを可能にしたのです。

 これは随分古いものかもしれません。1978年に出版されています。33年前です。
過激派と称された人々が影を潜めた頃合でしょうか。情勢が変ったようですが、教会では、「聖餐を受けたい人には、信仰の有無を問わず、誰にでも与える」という牧師たちが声高に主張しています。これなども、人為的にオープンにしていることでしょう。

 だいぶ本題から逸れました。元に戻りましょう。
さまざまな所に種が落ちる、ということはわが国では、余り考えられません。畑は深く鍬を入れ、畝を立て、種をその上に直播、あるいは苗を造ってから移植する。
中近東、あるいは古代世界では、荒っぽい種蒔きです。人の背や家畜の背に種を入れた袋を乗せます。その隅に穴を開けておき、歩きながら種を落として行くのが種蒔きです。これなら、風に乗って何処へでも飛んで行きます。播き終えると耕しにかかるそうです。

種蒔きの最初、ここでは「道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥に食べられてしまった」とあります。この鳥は、御言葉を奪う悪魔である、と説明されます。背中に羽を背負った怖い顔のサタンを考えるまでもありません。人間から、御言葉を奪う者全てが、悪魔なのです。み言葉よりも、楽しそうな、面白そうな、格好よいさまざまな物、事があります。私たちを良い気持ちにしてくれるたくさんの事や物が待っています。

次は、石地に落ちます。水気がないので、せっかく芽が出てもすぐに枯れてしまいます。
富士の溶岩石は、園芸の世界では良く知られ、利用されてきました。水分を含みやすいためと聞きました。最近は採集禁止になっているでしょう。元々国立公園では禁じられています。この部分は、根がない、ということです。自分自身の問題でしょうか。試練に遭うと身を引いてしまうこと。何事も長続きしない、努力が嫌い、という人もいます。暫くは信じるが、試練に遭うと身を引いてしまう、とあります。私が50年を超えることが出来たのは、時機にかなった助け、支援が与えられたからです。

 三番目は、茨の中に落ちた種です。茨が伸びるのと同じように成長します。やがて、茨や他の木に邪魔されて、成長が止まり、しおれてしまいます。マタイは茨の方が後から急速に成長し、種を窒息させてしまう、と書きます。人生の思い煩いや富や快楽に覆われて、実を結ぶに至らない種です。これは、なかなか怖いものです。自分の信仰は、立派に結実している、と思っていても、その実、中は何もなかったりすることがあります。イエスをどれだけ本気で主としているかということです。マルコには「いろいろな欲」という言葉があります。

 四番目が、良い地に落ちた種です。成長し、結実して、百倍の実を結びます。古代の農業では、驚くべきことです。
わたしの同級生に、信州・篠ノ井で農業をしている牧師がいます。本来は牧師業の傍ら農業、と言うべきでしょうが、かなり本格的です。お米、たまねぎ、蕎麦、そしてそば打ちもやります。米は、昔の人力式脱穀機を農家の倉から借り出して作業。大したものです。
彼の便りの中で、今の農業は、昔の何倍も収穫が増えている、と書いてあったと記憶します。百倍よりも、です。数百倍になるわけです。

イエスは、譬の話し手として第一級です。とても上手です。第一級の教師です。
それでもその譬は、細部の何もかもが意味を持っているわけではありません。
聞き手も、聞いたものを記憶して持ち帰り、詳細に分析して、ようやく理解する、ということでもありません。聞いたその所で、直感的に感じ取るものです。

そこでこの譬も、話しを聞きながら、聞き手が目をあげると、その土地の人が、お百姓さんが、農夫と言うべきなのでしょうか、種蒔きをしている姿が目に入る。
主イエスが、語られた時、各部分に意味がなければ、話すことはなかったでしょう。
細かいことを話せば、聴き手の注意は、そちらに流れ、分散し、集中しなくなります。
結論だけに意味があるなら、前の部分を話す意味がなくなります。
やはり、詳細にわたり、微に入り、細を穿つような譬には、その各部に意味がある、と考えます。否定を重ねることで、最後の肯定部分を際立たせるように構成されています。
良い地に落ちた種は、百倍の実を結ぶ。あの地域、あの時代の粗放農業では、百倍とは驚天動地の収穫です。もしこの結論だけが重要である、と言われるなら、良い地であるか否か、だけが問題となるのでしょう。そして、この結論部は、当然のように、持つ者はますます持つようになり、持っていない者はますます持たないようになる、というもう一つの結論を導き出します。これは、当時の諺が基本になっているようです。

そもそもこの譬は、何を伝えようとしているのでしょう。種は御言葉、種蒔きは伝道・宣教、収穫は信仰・神の支配。全体としては、神の国の譬、と考えられています。
この譬は、初めから良い地があるのではなく、多くの収穫を結ぶものが良い地なのだ、と語るのではないだろうか。結果オーライ、のように聞こえるけれども、実はそうなのです。

譬とは、それによって何かを指し示すものです。ここでは、何が例えられているのでしょうか?それが譬の説明の部分に出てきます。「神の国の奥義」という言葉です。
奥義とは、隠された秘密を意味します。神の国はいかなるものか、これは隠されていて、誰もが知りたがるが、知られてはいない。それを明らかにし、皆が解かるようにしましょう。譬は、一つのことを解かりやすくするもの、と考えられてきました。

しかしイエスは、その秘密は限られた人にしか開示されていない、と言われます。知的にはそうでしょう。信仰的に、存在論的に考えれば、神の主権を確立することが、収穫です。キリストが首座を占める領域を広げることが出来ます。良い地になることが出来ます。
これは信仰の真理です。自分の心のうちを開拓して、良い地に変えて行くことができます。

お百姓さんは、ひと鍬ずつ、自分の畑を広げる、と聞きました。あぜ道でも、隣の畑でも良い、ひと鍬毎に自分の畑に入れて行く、大変貪欲だそうです。キリストの主権を自分のうちで拡張してゆくには、これほどの貪欲さが必要です。不断の努力を要します。
感謝して、祈りましょう。



神の国の譬、神の御支配
私たちの側からは、神の主権、その拡張・拡大となりましょう。