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2002年3月10日

《モーセの祈り》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
申命記3:23〜29

今年は、なんとも不思議な感じの冬を過ごしました。
ニュースなどでは、随分大雪と言う言葉を聞きました。然しその反面、生活の中では余り厳しい寒さを感じませんでした。岩槻教会の牧師館は、古いもので大分、隙間風が入ります。明け方など外と同じような温度になっているものです。寝ていますと隙間風が顔の上をスーツとなぜてゆく。床は冷たく冷え切って、子どもの頃のように足裏を丸めて歩く。毎年何回も経験したものです。今年は夫々一回づつ位でした。毎週木曜日は朝6時には岩槻駅に立っているのですが、いつもは耳を切るような冷たい風が吹きました。出来るだけツバの大きな帽子をかぶるにですが、これも1度位しか感じませんでした。先日富山の牧師先生にお目にかかりました。「雪は如何ですか」。
「もうありません。今年は、降っても2・30センチ。暖かかったですよ」。       
 考えてみるといつものとしは、シベリアからマイナス50度をこえる寒気団が南下しています、ということが伝えられていました。今年は40度ぐらいでした。雪が降ったからと言って必ずしも寒くはないのです。印象だけの事です。これは怖い事です。
メディアが与えようとしている印象と現実とが、全く違っているのです。当たり前なのかも知れません。ニュースヴァリューと言いますが、報道する値打ちがあるもの、値打ちある事を伝える。
よく引き合いに出されるものがあります。
「猫がネズミを取ってもニュースにはならない。ネズミが猫を取れば立派なニュース」
大相撲で言えば、今は昔、大鵬、北の湖、北の富士、それ以前では栃錦、若乃花、と言った横綱は強かったですね。勝って当たり前。負ければニュースになる。
 音楽の演奏家と言うものもそうです。楽譜の通りに演奏できるのは当たり前の事。
その上に自分の解釈、自分の音楽を表現して行く、これが一流の音楽家です。だからこそ、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトやブラームスを演奏したたくさんの録音が残されているのです。ジャズの畑で「ララバイ・オブ・バードランド」、タンゴで「ラ・コンパルサ・デル・クンパルシータ」、ラリー・アドラーのハーモニカをフューチュアーした「ザ・グロリー・オブ・ガーシュイン」、
ある人は言いました。一流の音楽家は作品を自分に引き寄せる、と。


 モーセが深い、堅固な信仰の人であることは、私達がこれまでに良く学んできたところです。主なる神、ヤーウェに対して忠実でした。エジプトで奴隷のように虐げられていたイスラエルの民を導き、エジプトの地から導き出し、神と契約を結び、徴として律法を与えられ、2枚の石の板を戴きました。不平不満を呟くイスラエルの人々、実はその中には異なる民族も混じっていたと言われるのですが、とにもかくにも公称60万の大群衆を40年間指導しました。これだけの人口の食料、飲料水、保持する家畜、羊や牛、ロバ、駱駝、馬、犬これらの飼料。それだけでも大変な事の筈です。
 此処には面白い推測がなされています。かつてモーセは、エジプト王の宮廷で王子として生活していました。幼少の頃から男子は軍事指揮官となる訓練を受けます。恐らく陸戦部隊を率いてこのシナイ半島を渡り歩き、よほど地理に詳しかったのだろうと考えられています。有能な指揮官だったに違いありません。草のあるところ、水のあるところ、軽い徒歩の人間の歩けるところ、重い騎馬兵や戦車には抜けられない道を具に知るようにしていたのだ、と言うのです。今日でもこれらは基本的な兵要地理とされます。ミサイルに覚えさせておく地形となりました。また有事の際に徴用すべき土地を割り出す基になっているはずです。これは矢張り基本的人権の問題に関わってきます。個人が所有し占用しているものを、どのような場合に何処まで制限できるかと言う問題ですから、きちんと議論しなければなりません。小泉総理は、元来非常に保守、右よりの方です。情緒ではなく考え方を聞くべきでしょう。憲法をどのように解釈しているのか と。
   主権在民、基本的人権、戦争放棄。自由と平等の憲法です。
   最低限度の文化的生活の保障

 話は際限なく逸れてしまいますが、元に戻しましょう。
モーセは、荒野を40年間彷徨った後、ようやく、ヨルダン川を渡り約束の地、カナンを望むところまで来ました。其処での祈りが先ほどお読みいただいた個所です。「モーセの願い」と小見出しがつけられています。願いであり祈りです。
願いと言うのは、今現在持っていないのでそれを求めるというものです。満たされていないから与えてくださいと言う事になります。
モーセは、まだ約束の地に入ってはいない。入れるか否か疑わしいところがあるのでお願いする。確実に入れると解かっていたら願いはしないものです。確認するだけです。

 何がモーセを疑わせているのだろうか。
過去を正しく知り、現在を認識している時、次に来る事を正しく推測する事が出来ます。モーセは、水を巡る二回の出来事を経験し、その時にしゅが告げられた事を記憶しています。むしろ自分自身に対する懲罰が取り消されたかどうか知りたいのでしょう。それはマッサの泉(出17:6)とメリバの泉(民20:12)の出来事です。民数記でお読みいただくと良くご理解いただけるでしょう。


モーセの言葉として記される26節の言葉は、この間の正しい事情を告げてはいません。民数記はモーセ自身が、神の言葉を正しく聞かなかった。「岩に命じる」だけでよいのに、マッサの時と同様「その岩を打」ってしまったのです。

 モーセは、これを自分の神に対する責任とは考えず、それをさせた民の責任と感じたようです。一面においてこの考えは当たっています。民がモーセとアロンを強要したのですから。
然し、岩を打てと岩に命じて との違いを聞き損じた責任はあくまでもモーセ自身のものです。そのためにこそモーセは、約束の地に入る事が出来ません。それは、御言葉を聞いて伝える勤めに召され、任ぜられた者の責任なのです。
今日においても、御言葉を聞き、伝える勤めに召されているものが、安易に御言葉を聞いたと言って語る時、同じこと、語る者は御国へ入る事ができない、と言う事が起こります。最近、私自身が失敗をしたので確信しています。

此処ではもうひとつの事が命じられます。それは指導者の交代です。
長い旅路の最後の部分、完成させるのは如何したって私の仕事だ、これが普通の考えです。然し完成を前にして、モーセはヨシュアにその勤めを譲るように命じられたのです。

 これは現代の教会における街道建築の事情に良く顕れます。
建築完成を牧師個人の事業の完成、功績と考える人々の存在。そしてその名を以って教会を呼ぶ、「・・・・・先生の教会、会堂」。
初めと終りでは違う牧師が担当したほうが良いのです。それでなくても、長年一教会に在職すると、どうしても、・・・・・先生の教会になりやすいのですから、変わるべきです。新しい教師にその職を執らせるべきです。
そして古い指導者は、新しい指導者を励ますのが最後の仕事です。

 この事を見事に成し遂げているのはパウロでしょうか。
エフェソの長老達へのミレトにおける別れの場面です。
使徒言行録20:17以下に記されます。
 
モーセの祈りが聞かれないのには、理由がありました。
懲罰であると共に、もっと積極的には、違う仕事、彼でなければ出来ない仕事があったのです。

私は東京の頌栄女子学院の仕事を退職しました。それは他の若い人にこの職を執らせるためです。そして最後の仕事、もう一つの最後の仕事に備える為です。
誰でも最後にする仕事が残されている。それはあなたでなければ出来ない。
あなたが死ぬ事、それによって若い人を励ます事なのです。