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2004年5月30日

《マルタとマリヤ》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書10:38〜42

この説教は、前主日、5月23日玉出教会でなされた説教を基本としています。

有名な物語です。よく知られています。然し、知りたいと思うことは分からないままになっているように感じます。
マルタとマリヤ、そしてその村はどのようなところなのでしょうか。
主イエスとこの姉妹とはどのような関係なのでしょうか。
ルカは関心を示しません。説明責任はないと感じているのでしょう。
こういう時には、聖書の他の箇所を調べます。引照付き聖書は便利です。
同じ名前が、ヨハネ11章に出て来ます。ラザロの甦りの物語です。
マルタはイエスを迎えに出ます。マリヤはラザロの傍らで泣いているのです。

そしてそれに続いて、12:1〜3にも登場します。
「ナルドの香油」として有名な箇所です。ここではマリヤの方が行動的です。
と言っても、マリヤはもっと忙しく働いていると考えられます。

このことから何が分かるのか。
どうやらこの二人は性格的に動と静に分けられるようだ。
あるいは外向的と内向的かもしれない。
マルタ、マリヤの姉妹はイエス様と格別入魂な間柄であること。
ベタニヤ村にも大変親しみを感じられていただろうこと。
村人の多くもイエス様に対しては、特別な畏敬の念を抱いていたであろうと思われる。
旅人をもてなし、新しい知識に耳を傾けるのは当時の美徳、常識。
古代世界全体の慣わし。

マルタの働きは当然のこと、マリヤの行動も客のもてなし方の一つ。
マルタは、マリヤの仕方に不満を持つ。「私だけに働きを押し付けている。不公平だ」。
ここで自分の気持ちをイエス様にぶつける辺りに、この姉妹との交わりが感じられます。
マルタの言葉には、親しい人への甘えを感じます。
主イエスの答えは、どちらかと言えば冷たく感じられます。
多くの人は、マルタの考えは否定され、拒絶されている、と感じるようです。
・ 多くの事を思い煩っている。心を乱している。
・ 必要なことは一つだけだ。
・ マリヤは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。
私には、よく分からないところです。本当にマルタは否定されたのでしょうか。

大学に入って間もなくの頃だったと記憶します。教会へ行き始めて間もない頃でした。
教会は、山手線の池袋で乗り換え、西武池袋線の桜台にありました。沿線には、豊島園、石神井公園、飯能の天覧山、吾野の高麗村、秩父連山などがあり、大勢の人が日曜日には池袋駅から出発しました。大群衆を掻き分けるように乗る人の少ない電車に乗り込んだものでした。その時、ふと感じたことがありました。「教会で牧師が言うように、主日礼拝を守ろうとして大衆とは違う道を進んでいる。その私のために電車を運転してくれる人もいるのだ。その人は礼拝を守ることは出来ない」。

これは、キリスト教信仰も、非信仰者の働きによって支えられているのですよ、という考えの、一つの始まりでした。信仰の立場からは否定されるようなものが、信仰者にとってどうしても必要とされるとしたら、それは否定できるのでしょうか。

もう一つのことがあります。子ども達の間で時々起こることです。一人の子どもを褒めると、褒められなかった子どもが「どうせ僕なんか、私なんか、ダメなんだ」」といって怒り出すのです。いじけるというのでしょうか。不貞腐れるような態度を示します。
マルタが否定されているのだ、という受け取り方には、同じような雰囲気があります。マリヤが信仰的に良い方を選び取ることが出来たのは、マルタの非信仰的なとされるあり方のお陰なのです。日曜日の礼拝が多くの人の働きによって支えられているのと同じです。

こうした事を考え合わせると、主イエスが多くの人の働きを評価しないなどということがあろうとは考えられないのです。

基本的には、人それぞれに務めがあります。それは神から与えられた使命です。どんな仕事も否定されることはなく、拒絶されることはありません。

そこでは、各人が今求められていることは何かを決断し、選択しなければなりません。
マリヤはその点で評価されました。然し、その同じ時にマルタを初め忙しく立ち働く他の人たちが非難されたり、拒絶されたりすることはないのです。イエスとマリヤを支える働きは評価されるでしょう。それはマルタの選択、応答なのです。他の人のことで悩む必要はないのです。大事なことは、この私の、務めに対する決断です。

マルタは、妹が何もしない、と言いますが、そうでしょうか。
この点は考える必要があります。


マルタが考えたことは、私と同じ仕事をしない、と言うことです。
人それぞれすることが違うのです。何もしないように見えるマリヤも仕事をしているのです。それは、イエスの言葉に耳を傾ける、という仕事です。働きです。彼女は、このときに出来る最善の選択をしました。主は、それを守っておやりになります。
こんにち、同じような問題に悩む人が多いようです。
各人が選択したものを主は認め、支えようとしておられます。
沈黙のうちに果たされる仕事もありましょう。大きな成果を周囲に示すような働きもあるでしょう。誰もその成果を見てくれないようなものもあるでしょう。然しその全ては、主イエスによって見られています。


The Little Rose of Shalom 「シャロンの小さなバラ」と題された絵本があります。
もとは英語ですが、日本語訳も出ています。