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2011年2月13日

《安息日の主》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ 6:1〜11

春のような日が来たり、冬に逆戻りがあったり、白いものが降ってきて積もったり、なかなか忙しいのがこの冬の特徴でしょうか。それでも随分陽射しが強くなりました。日が長くなりました。雪が解けて、そこに綺麗な薄緑が伸びてきました。草の新芽です。しずくが輝いていました。もうすぐ春が来ます。受験生の諸君もきっと待ちわびておられることでしょう。

また仕事を失い、探しておられる方たちを覚えて、働き口が見つかるように祈りましょう。この頃は、一家の中に複数の働き人がいるようになりました。それでも一家の主に仕事口がないと、気詰まりになります。暗くなるものです。半世紀前、小学校高学年の頃、あるいは中学生の頃の記憶にあります。

日本中が、もちろん例外もありますが、多くの者たちが閉塞感にさいなまれています。
世界中が同じような状況にあるのに、自分の国だけが、と考えているのかもしれません。
チュジニア、エジプト、スーダン、独裁者の支配する国々。
中国、北朝鮮、イラン、など長年の独裁者政権、一党独裁の国々。ふと気付いたら、これではいけない。新しい政治の仕組みが作られようとしています。
気を付けなければいけないのは、変化の陰に必ず犠牲者がいることです。

本日の主題は、《安息日の主》となります。
安息日とは、主なる神が、天地創造の働きをなし終えて休まれたことが、基になります。創世記2:2、3「その全ての作業を終わって第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。」そして、出エジプト31:12以下に安息日の規定を記します。
安息日を守り、聖なる日としなさい。「私があなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。」六日の間に仕事をしなさい。「七日目はまったき休みの安息日で、主のために聖である。」これが旧約聖書の安息日。聖別された、礼拝の日です。

キリスト教会にとって、安息日はどのような意味をもっているのでしょうか。
教会は、キリスト・イエスの甦りによって始まりました。
『週の初めの日の朝早く、主は甦られた』と伝えられ、この日を『主の日・主日』として守りました。安息日は土曜日でした。主の日は日曜日です。神礼拝、聖なる日を日曜日に変えました。甦りを記念し続けるためです。
労働を禁じる安息日は、労働からの解放の日でもあります。イスラムでは金曜日です。ユダヤ教では土曜日、キリスト教では日曜日が礼拝の日です。イングランド北部の古い町ダーラムでは、サンデイ・ランチの習慣があります。日本の神道では、六日目毎に休みが来るようになっています。実社会がそれに従っているか否かは別の問題です。

ある安息日、イエスに従う弟子たちが空腹になったため、麦の穂をつまんで食べました。
全ての労働が禁じられた日に、してはならないことをしていると言って、ファリサイ派の人がイエスに訴えました。十戒のうちにある、「安息日規定」(出エジプト20:10)です。
弟子たちの行為に隠れている労働行為について、読んだことがあります。穂を摘むことは収穫、刈り入れである。手でもむことは脱穀、殻をとることはふるいがけ、食べたことは食事の用意をしたことになる。安息日に禁じられている四種の労働です。

 訴えに対してイエスはお答えになります。
ダビデとその一行がしたこと、神殿に入り、祭司以外の者には禁じられている供えのパンを食べ、供の者にも与えた(サム上21:3〜6)。
ユダヤの人々にとってダビデのことは、常識だったに違いありません。偉大な先祖の王です。伝えられるのは、良いこと、立派な言動、不都合な真実には、触れないようにするのが常です。聖所に供えられたパンを、ダビデとその供の者たちが食べたことは、しばしば語られることではありませんでした。
安息日は、あなたがたのために制定されたもの。
あなたがたは安息日のために存在するのではありません。

 ここで思い出すのは、ソクラテスの言葉です。
『我々は、食べる為に生きているのではない、そうではなくて、生きる為に食べるのだ。』
安息日の主役は人の子です。「人の子」という言葉は、主イエスを指す場合もあるし、人間一般を意味することもあります。
「人の子は安息日の主である」

ファリサイの反応は記されていません。
福音書記者ルカは、次の出来事によって、ファリサイの人々の反応を示します。

手の萎えた人を癒やす出来事に続きます。
この部分は、内容的な繋がりがあるために、違う安息日の出来事をつないだものでしょう。
それだけにルカの思いが強く出ている、と言えるでしょう。
安息日の会堂に、右手の萎えた人がいます。思い通りに動けない、処理できないことで、この人は随分つらい思いをしていることでしょう。

律法学者やファリサイの人々がいます。律法学者たちは、イエスを訴えるために、律法解釈が必要になることに備えて、招かれたのでしょう。彼らは、イエスを訴える口実を見つけようとして、会堂に来ています。彼らは礼拝者ではありません。
これは私たちの礼拝にも当てはまることです。主イエス・キリストを拝するために集まるのであって、それ以外の目的を抱いているなら、それは厳しく批判され、退けられるでしょう。
神が喜ばれるいけにえや、断食、礼拝があることが記されています。私たちが捧げる礼拝は、受け入れられているでしょうか。もっともっと謙遜であることが必要です。

人間の非人間化、あるいは道具化、という表現が用いられることがあります。
一人の人が、他の人を自分の欲望を充足させるための道具としてしまうこと。
その典型は、買春であろう。かつては売春と呼んだ。どちらも正確な名称とはいえないようだ。ヨーロッパでは、女性が自ら進んで自身を提供することが認められています。

極端な例はいくつもあります。ロシアの農奴、ヨーロッパ・アメリカ大陸の奴隷制度。
あるいは企業が、その従業員に対して、利益を上げるための道具に過ぎない、と考える傾向が強いことは、しばしば指摘されてきました。
ある病気の方たちは、軍事的な力になり得ない、と考えられ強制隔離・強制収容されました。特効薬が造られ、治る病気なのに、です。
殆んどのことは、人権の問題とされています。はっきり、非人間化の問題と言ったほうが解かりやすいのではないでしょうか。わが国では、エタ・非人という呼び方がありました。
あるいは「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の十日も降ればよい」。三・四日でしょうか。

 律法学者やファリサイの人たちは、自分たちの正当性を主張し、守るために一つの道具を見つけ出しました。一人の男、しかしその片手が萎えている人です。
手の萎えた人の苦しみ、そのために人並みの生活が出来ない、ということには目も向けませんでした。ユダヤの宗教共同体社会では、一人前とされていない、という悲しみには気付きもしないのです。この男の人は、イエスを訴え、殺すための口実を得る道具でしかありませんでした。道具には当然人格はありません。
この男性は、『非人』とされているのです。

 問題が、見えてきます。歴史的に、また現代の問題としての多くの差別は、ここに示された『非人間化・人間の道具化』の問題ではないでしょうか。
このところで、手の萎えた男は、律法学者、ファリサイによって、イエスを訴える口実を得るための道具とされています。彼らは、イエスを会堂に迎え入れました。
手の萎えた男に対して、何をなさるか、固唾を呑んで見詰めます。
 会堂に入られた主イエスは、この男に目をとめます。恐らく、当時の神殿や会堂では、体が不自由な人は、婦人の庭と呼ばれる場所にいたはずです。目に付きにくいところです。
学者やファリサイは、イエスを試みるために定めを破って、一人をイエスの目に付きやすいところまで連れてきたのに違いありません。その故に、イエスは彼らの魂胆を、すぐに、的確に見抜きます。そして手の萎えた人に言われます。「立って、真ん中に出なさい」。

 晒し者にするわけではありません。聖書の世界、またイスラエルの社会では、複数の目撃証人が必要、と考えられています。イエスは、会堂の中の多くの人々を証人にして、特別なことを行ない、その人たちを考えさせようとします。決行の前に言われます。9節
 「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、滅ぼすことか。」

イエスを罠にかけようと狙っていた人たちは、この問いかけの前に沈黙するしかありませんでした。押し黙っています。イエスは彼らを見回します。そしてその人に言います。
「手を伸ばしなさい」。なんて無茶を言うのだろうか、といつも思います。手が萎えている人に向かって、手を伸ばしなさい。非常識極まりない。手を取ってあげるとか、マッサージするとか、何かしたら、と思います。私達のつまらない常識です。
イエスは、敢然として常識破りを行います。言葉による救いです。

 心の中を見透かされ、悪意を見抜かれた人々は怒りに燃えたでしょう。
「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」。イエスを排除しようと相談し始めました。少しも愛をもたず、自分たちの正当性、優越性を主張し、自分を誇るためには、他の人を利用しようとする人々。常識だ、そうしなければやっていけないさ。
私たちも同じような者です。信仰よりも常識を重んじる人間です。そのような私たちの前に主イエスは立っておられます。お前のために、私は十字架へ歩むのだよ、と仰っておられます。常識を破ってキリスト信仰へ進みなさい、と促しておられます。

 ファリサイ人も律法学者も、そして常識人も、イエスの十字架による赦しの福音に与ることが許されています。与るように招かれています。
感謝して、祈りましょう。