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2010年12月19日

《告知》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
イザヤ11:1〜10

  降誕節第4(待降節第一)主日、
  讃美歌21、95,224、交読文43(ルカ伝1章 マリアの歌)
  聖書日課 イザヤ11:1〜10、?コリント1:26〜31、ルカ1:26〜31、詩編89:20〜30、

 寒さが厳しくなりました。九州北部も雪。東シナ海の気象が関係する、と聞いた記憶があります。大陸の寒気が南下してくるのでしょう。真冬を感じます。大陸と朝鮮半島が緊迫しています。一発の銃声が、世界中を戦渦に巻き込んだこともあります。世界の人々は、平和を求めています。軍備は、戦争を引き寄せます。
 例年、年末年始の頃に、厳しい寒気が襲ってきます。冬山で歳を越す計画を建て、遭難する事故が起きています。寒気と暖気が交互に来る時は危険、と感じます。事故がありませんよう願います。
 真冬を感じる中でも、水仙の花芽が膨らんできました。場所によってかなり違います。
何処の水仙が最初に開くでしょうか。平和のかおりを楽しみにしています。

 さて、本日は待降節第四主日です。これまで、私たちの教会ではアドヴェント第四主日に、クリスマス礼拝を守っていました。大方の教会も同じです。それを何の不思議にも感じないでいました。今までなら、本日は、降誕主日礼拝となっていたのです。
古くからキリストの教会は、降誕日、25日を過ぎてからクリスマス礼拝を守ることを常としてきました。日本に伝えられてから、日本の風習との関連で、少々変えたようです。降誕日までにクリスマス礼拝を終えてしまう。そうした流儀に馴れて来た私たちです。
 今年は26日が主日、その日に降誕主日礼拝、クリスマス礼拝を守りましょう、と役員会は考えました。

 本日の聖書は、イザヤ書11:1〜10、交読文36で、おなじみの箇所です。
イザヤ書は全66章。その預言の時期によって三分されます。1章から39章までは、エルサレム近郊に住まう貴族、アモツの子イザヤの預言です。
1:1には、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。」とあります。
そしてユダの王四人の名が記され、その時代が告げられています。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ。紀元8世紀の王たちです。

 イザヤ6:1には、「ウジヤ王が死んだ」ことが語られます。これは紀元前742年のことです。そして733年、アラムとイスラエルの王はユダを侵略し、アハズ王を反アッシリア同盟に加わるよう求めます。アハズ王は、アッシリア王と協約を結びます。これは預言者イザヤが反対してきたことです。
さまざまな経過があり721年、アッシリアは北イスラエルを攻略します。こうして、南王国は、アッシリアと直接、国境を接することになります。

 13章以下には、諸国に対する預言が語られます。小見出しだけ見ましょう。
13章「バビロンの審判」、14:1〜2「イスラエルの回復」、14:3〜23「バビロンの滅亡」
14:24〜27「アッシリアの頚木」、14:28〜32「ペリシテに対する警告」
15:〜16:14「モアブの破滅」、17:1〜11「ダマスコとエフライムの運命」
19:1〜15「エジプトの審判」、19:16〜25「終わりの日の和解」,まだまだ続きます。

 14章初めに短く、イスラエルの回復とあります。それ以外は、周辺諸国に下される災いの預言です。南北両王国に別れていますが間違いなくイスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。既に北イスラエルは、繁栄も空しく、アッシリアによって滅ぼされてしまいました。これは、歴史的には、紀元前733年のシリア・エフライム戦争の結果です。
イザヤは、その生涯に四つの戦争を経験しますが、その最初のものでした。

 100年たって、南ユダ王国も危機的な状況にあります。
 北の大国アッシリアはユダ王国に厳しい要求を突きつけています。南にはもう一つの大国、エジプトが控えています。
 
 この時代、特筆に価することがあります。それはヒゼキヤ王のことです。彼は715年、父アハズの死によって王位を継ぎます。彼を評価して列王下18は語ります。
 「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダの全ての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」
ヒゼキヤは、神殿の修理を行い、祭儀に用いる器を清め、祭司制度を修復しました。聖書は、彼を高く評価します。

 そのヒゼキヤも、預言者に対しては従順ではありません。
 イザヤは、迫り来る脅威に対して、静かにすることを求めます。エジプトの馬を頼りとするな。救いは主なる神から来る(イザヤ31:1〜3)。
 ソロモンの武器倉、ダビデの水路に力を求める王に対し、それらを真に作られた方に目を向けていない、と叱責します(イザヤ22:8〜11)。

 世俗的に有能な人は、その力により頼みます。政治家、企業家、経営者、学者、軍人。
預言者の声に耳を傾けようとはしません。勿論礼拝はしているのでしょう。しかし、その中で御言葉を聞こうとはしないのです。
 ヒゼキヤは有能な王でした。平和を求めます。その求め方は、預言者とは違いました。

 紀元前701年、アッシリアのセナケリブ王は、エルサレム目指して攻め上ってきます。
このとき、ユダの王ヒゼキヤは、主なる神ヤハウェに対する信仰を守り、エルサレムは、奇跡的に救われます。イザヤ36〜38章が語る通りです。
「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。」37:36
ヒゼキヤに関する記事は、列王記下18〜20章にもあります。

 こうしてイザヤの活動は、病気のヒゼキヤ王のもとをイザヤが訪ねて預言する言葉で終わります。39:7「あなたから生れた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」
 これに対するヒゼキヤの答えは、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです。」
息子たちに災いが降りかかるのに、何故「ありがたい」と言うのでしょうか。
ヒゼキヤは、自分の時代、自分の身が安泰であれば良かったのです。
列王下20:19は告げます。「彼は自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた。」

 このように、アモツの子イザヤが預言者として活動した時代は、随分昔のことになります。紀元前740年ごろから700年ごろまでの間、南王国ユダとエルサレム、更に、その周辺諸国に対する神の審判が語られています。この預言はおよそ100年後、南王国ユダがバビロニアに破れ、エルサレムが破壊された時、現実のこととなります。

 このように、歴史の大波に揺れ動かされるユダの状況の中で、イザヤは預言しました。その頂点とも言えるものが、本日の11:1〜10です。絶対的な平和を来たらせる理想の政治を行なう王の到来が預言されます。
 1節、「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」
エッサイはダビデの父。ダビデのような王が期待されるでしょう。後の時代、ギリシャ・ローマの支配を打ち破る指導者がメシア・王として期待されました。イエスの時代、イエスこそその人であろう、と期待されてもいます。彼らは十字架のキリストを信じることは出来ませんでした。
 2〜5節、来るべきメシアの姿です。
 6〜8節、不思議な平和が語られています。肉食獣が草食動物と一緒にいる。草を食らう。
 9〜10節、エッサイの末に生まれた者が、全ての民の旗印となる。神が主なる神として崇められる。
 
 ユダのヒゼキヤ王も預言者イザヤも、共に平和を求めました。
 イザヤは、武器に頼って平和を求めれば、より強大な力を持つ者が考える平和にしかならない、と考え、語ります。それは神の言葉であり、人が聞き従うはずのものです。
 人は、自分の知恵・知識・経験を大事にします。自分自身の価値観の基盤になっているからです。本当は自信を持てないでいるのかな、と感じます。弱い者ほど、自分を守るために居丈高になります。
 他の人の知恵・知識・経験は軽視しがちです。不和の始まりとなります。

 本当にキリストを信じる者として生きようとするのなら、自分の価値観を一旦棄てて、真に仰ぐべきものに眼を注ぎ、その指示に心を向けては如何でしょうか。そこから新しい価値観が生れます。私たちは、世俗の価値観に捉われ、それに固執してはいませんか。
イエスこそわが主である、と言う告白は、この異教社会にあっては、一般的な考え方、習慣などに訣別することを求めます。
 そこからまことの静けさが、永遠の平和が生まれる、とイザヤは告知しています。