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2010年11月28日

《あなたの王が来る》

説教者:
牧師 中谷哲造
聖書:
マタイによる福音書21章1〜9節

主題聖句 
  見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。(21:5節)

 本日は待降節第1主日にあたって日々の聖句ローズンゲンから今朝の聖句を引用させていただきました。マタイ21章1から9節であります。とりわけゼカリヤ9:9からの引用句であるマタイ21章4節と5節を本日のメッセージの中心におくことに致します。

 「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる」とシオンの娘に告げよとあります。
「シオンの娘に告げよ」ソロモン王がエルサレムの北方の高い丘に神殿を建てて以来、この神殿の丘がシオンの山と呼ばれるようになりました。詩編の中にシオンのうるわしさを称えている箇所が幾つかあります。シオンは神が基いを置かれたところ(イザヤ14:32)であり、聖なる山(詩2:6)であり、主の住まい(詩9:11)であると言われております。そのシオンから主はご自身を現し(アモス1:2)、そこから救いを送り(詩14:7、53:6)、そこから祝福される(詩128:5、134:3)神はシオンを選び(詩78:68)、愛したもう(詩87:2)とあります。そしてシオンはついに全エルサレム、その全住民を現す名称となりました。これを詩的表現でシオンの娘と呼んだのであります。母としての都市エルサレム、娘としての住民を指したのであります。新約聖書では、シオンは神の天の住まいを指すようになり、神の小羊が共に立つ新天新地をシオンと呼ぶのであります。
 このようなシオンの娘に対する呼びかけを神の小羊イエス・キリストの血で罪の贖いを受けた者、その愛と憐れみのもとに立つキリスト者への呼びかけと受けとめることには些かも違和感はありません。こうしてシオンの娘なるキリスト者に告げられた言葉は見よ、お前の王がお前のところにおいでになると言うのであります。
 すなわち、クリスマスにおいて私たちがお迎えするお方は私たちの王と称するイエスさまです。

 しかしマタイ福音書21章で言うところの王のエルサレム入城の姿は普通予想されるものとは、まるで違っている小さく惨めなものでした。たくましい軍馬ではなく、みすぼらしい子ろばに乗る王でした。付き従う者たちは勇ましい軍隊ではなく、旅に疲れ果てた12人の弟子たちでした。ただ、この王を迎えた群衆だけは王を迎える礼をわきまえて、歓迎しました。このように迎えられているイエスさまは王の身分であることを示していながら、なぜ、あえて貧弱な姿をおとりになったかと言えば、主イエスが「柔和な王」であられたからであるということを強調しているのでした。
 イエスさまは、自らを指して「わたしは柔和で心のへりくだった者」(11:29)と仰ったことを思い起こします。柔和という漢字を辞書で調べますと、「性質や態度がやさしくおとなしい」と書かれていますが、柔和のもとの語はへブル語のアナウという語を柔和と訳したそうです。実はこのアナウという語は、痛めつけられる、したがって、みじめであるということを意味するそうです。であれば、低いとか、敬虔なという意味があるのでしょうが、むしろ、仇をする者に傷つけられることがその中心的な意味であると言われています。そうしますとイザヤ書53章4, 5節の苦難の僕と題される記事があてはまるのです。
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ。しかし彼はわれわれの不義のために砕かれたのだあるいは同じ53章10節にしかも彼を砕くことは主の御旨であり、主は彼を悩まされたとあります。これらの記事はまさに柔和という言葉を適切にあらわしていることになります。

 イエス・キリストは誰が何と言おうと私たちにとっては王でありつつも柔和な王となられたのです。私たちの不義のために砕かれ、悩みを負われた王であるとマタイは告げているのです。子ロバに乗ってエルサレムに入城された貧弱な姿のイエスさまに向かって、ダビデの子にホサナと叫びつつ、歓迎した群衆は「柔和な王」を迎えていると理解できていたでしょうか。おそらくは政治的な権力を意味する王としてしか王という地位を理解しなかったでしょう。「柔和な王」など群衆は必要としなかったと言えるのです。
 群衆は、イエスさまを自分たちが期待する王でないことを知ったときに態度を一転して十字架へと追いやることになりました。
 柔和である王としてのイエスさまをお迎えするとき、わたしは変えられるということを理解したいのです。過日、考えさせられる出来事を知りました。
それは、パキスタンでの出来事であります。ある人がコップ一杯の水を必要としたのですが、それを得られずに困っていたときに、一人の女性が水をさしだして、与えたのです。親切なその行為をしたのはクリスチャンの女性でした。すると水を求めていた人がクリスチャンからは水をもらいたくないとコップを投げ捨てました。彼はムスリムであったのです。その心ない行為にそのクリスチャン女性はカッとなり、教祖ムハンマド(マホメット)を非難したのでした。そのことを訴えられて、裁判となり死刑の宣告を受けたというのです。イスラムの世界では、教祖ムハンマドを貶す者は死刑に相当するというのです。考えさせられる出来事でした。

 イエスさまの救いに与った者が「柔和な王」となり切ったイエスさまの柔和の意味を理解するならば、人の心を傷つけるようなことをする者の行為に対しても、柔和な王への服従を示す機会を得たと知るべきでした。洗礼を受けた、いずれかの教会の教会員となっている、忠実に礼拝を守っている、誰が見ても誠実なクリスチャンである、それだけで本当にいいのでしょうか。あの水一杯を与えたクリスチャン女性が自分の親切を無にされたときにカッとなってムハンマドを罵ったように、クリスチャンと雖も、ここぞというところで間違いをしてしまう可能性があると言わねばなりません。
 「十字架を負うて我に従え」という王なるイエスさまを仰ぐのは、その時ではなかったのか、と言うことです。人の不義と罪を悔い改めに至らせる救いは、十字架を負われたイエスにおいて「柔和なる王」を悟ることに始まります。
 われわれが、迎えるこの柔和の王のお心を正しく捕らえるための平素の御言葉瞑想と服従への道を求めることが隣人にキリストを指し示し、自分も救いに導かれる道であることを弁えたいものです。