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2010年10月17日

《天国に市民権をもつ者》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
黙示録7:2〜4,9〜12

  聖霊降臨節第22(三位一体後第21)主日、信徒伝道週間、教育週間、
  讃美歌23,527、229、交読文39(イザヤ書53章)
  聖書日課 イザヤ25:1〜9、黙示録7:2〜4、9〜12、マタイ5:1〜12、
        詩編146:1〜10、

 秋の日はつるべ落とし、本当に日が短くなりました。
同時に、日差しが大変弱くなり、斜めの角度で差し込むようになってきました。

先週は、ノーベル平和賞の余波が続いていました。国会の論戦もありましたが、全部をかき消す勢いで、チリの33人救出が報じられました。700メートルの地底で70日間,良く頑張ったものです。世界中が、これを喜び、賞賛しました。マスメディアも救出に向けて、良い報道姿勢だった、と感じます。原因論、責任論は脇において、救出の経過、状況を伝えました。これから何が報道されるでしょうか。どのような論議が起こるのでしょうか。災害時のメディアのあり方、被害者とその家族のプライバシーの問題もあります。

 落盤事故が起こりやすい地帯である、と報じられました。事故があり、一旦閉鎖された鉱山が、金属価格の高騰に伴い再開された所だったようです。それならなおのこと、充分な安全対策が講じられるべきです。行政も指導すべきです。企業、行政、労働組合、それぞれに責任を問われるでしょう。救出に要した経費の負担についても論じられるでしょう。
そして、今回の事故より更に恐ろしい暗黒の状況に、常に置かれている、多くの市民、難民のことが覚えられ、論じられ、行動されることが望まれます。

 最後に救出された人、リーダーは、大統領に対しこう言いました。
「もう二度とこのようなことが起こらない様にしていただきたい」。
私たちは、あのような、また現代の暗闇の中に一人でも閉じ込めるようなことがあってはならない、と考え、思うべきでしょう。

 本日の説教題は《天国に市民権を持つ者》、聖書は黙示録7:2〜4,9〜12です。
 「天国」と聞くと、仏教国日本で生きてきた身としては、蓮の花咲く極楽を思い起こすのではないでしょうか。この天国は、日本人にとっては、この世の事、物ではありません。
人が死んだ後の世界、死後、彼岸の世界のことです。とすれば《天国に市民権をもつ者》とは、彼岸の世界へ入る通行権、あるいはフリーライセンス、免許証を取得した者でしょうか?御朱印船というものもありました。
私たちにとって天国は、仏教の極楽とは違います。天国は神のバシレイア、神の主権が実現するところです。

 ここまで考えてきて、一つのことを思い出しました。それは中世ヨーロッパで行なわれた免罪符のことです。贖宥券とも呼ばれ、十字軍の時代に始まります。
もともとは、十字軍に従軍できない人たちのために、同じような功徳「罪の赦し」を与えるものだったようです。献金によって、罪の赦しを獲得する、赦しを与える。この頃の献金は、十字軍の戦費となったことでしょう。
 その背景には、『聖徒たちの余分な功徳』という思想がありました。立派な聖人たちは、自分の救いに必要なもの以上の功徳を積んでいる。それを分けてくださることが出来る、というものです。キリストの福音とは少しも関係のない、こうした考えが罷り通る、というのは不思議なことです。

 やがて、この考えを拡大解釈して利用するようになります。
「シモニズム」という言葉があります。使徒8:9〜24、魔術師シモンに基づきます。普通『聖職位売買』と訳されるようです。文字通り、教会の高位聖職の椅子を金銭で売り買いすることです。僧職ではない、世俗の貴族や商人が、栄誉と金銭欲から司教、大司教の地位を買いました。司教になると、支払った投下資本以上のものを、「免罪符を売る権利」を売ることで獲得しました。非常にうまみのある商取引だったようです。

 この時代の流れを確認してみましょう。
第1回十字軍1096−99、第2回十字軍1147年、クレルヴォーのベルナルドゥス、
第7、8回十字軍1214−26〜70フランスの聖王ルイ9世、
   7回、ルイ王捕虜となる、8回ルイ王客死、
アシシのフランシス1181−1226、
サヴォナローラ1452−98、メディチ家のフィレンツェに神政政治を敷く。
コロンブス1492年、新大陸へ、大航海時代の幕開け
教皇ユリウス?世は、バシリカ式の旧大聖堂を取り壊し、世界最大のサン・ピエトロ大聖堂の建築を始める
  (建築家ブラマンテ・集中形式、1503年:ミケランジェロ1546年以降改変)。
   建築費のため贖宥券販売。教会は販売権を商人や貴族に売り、更に、歩合を要求。
ルターは、1517年、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に95か条の論題を公示。

   こうして宗教改革が始まりました。

 この時代の教会は、キリスト、教会、教皇(聖職)を同一に置き、同じ権威をもつものと認めることを要求したのではないでしょうか。 
 この時代の教会、教会の権威の下、天国の市民権を金銭で売り買いできるものと、考えていたようです。そして世俗は、それを承認、受け入れたように見えますが、一枚上手でした。それを利用して、自分たちの利益を上げていたのです。
神の名を利用して人間が自分の欲望を満たしたのがこの時代です。

 この時代の教会は、権威と権力を併せ持つ絶対的な権勢を誇りました。その反動として、権威と権力を棄て、祈りと労働を旨とし、全てを捨てて、仕える修道院活動が盛んになります。地上の市民権ではなく、天国に市民権を確保しようとしたのでしょう。

 ヨハネの黙示録、95〜96年ごろ執筆された、と考えられている。
ドミティアヌス帝(81〜96年)時代の迫害、皇帝礼拝の強要。エーゲ海のパトモス島に流刑、幽閉された小アジア巡回の預言者が執筆しました。彼は小アジアに住み着いたパレスティナ・ユダヤ人でした。

 ドミティアヌスは、皇帝ヴェシパニアヌス(69〜79)の次男。兄ティトゥス(79〜81)は帝位を継ぎ、慈悲深い皇帝として賞賛されますが、病気のため急逝しました。
「迫り来る艱難辛苦は一時的なもの、神の最終的な審判と至福は信仰者の側にあることを確言し、これを試練として信仰を持ちこたえるよう励ます」。これが黙示録です。

 黙示録には、全編にわたってローマの非倫理的、不道徳な放縦の生活に対する批判がみなぎっている。富と権勢の確保のような人間的栄耀栄華に幻惑され、権力に媚び、力を讃美することが当たり前でした。黙示録は、その姿を幻のうちに映し出して、それを拒否して、世界の過去、現在、未来に生きて働く、神の真実と正義を信頼して生活するように語り掛けます。

 今朝の主題が、《天国の市民権をもつ者》ではなく、《天国に市民権をもつ者》とされたのには、何らかの意味があるはずです。考えすぎかもしれません。それでも気になります。
「天国の・・・は」どちらかと言えばすでに天国市民となっている、というごく普通の形を考えます。誰が、市民権をもっているでしょう。市民権をもっているのは誰でしょう。
それに対して、「天国に・・・」は、これから市民権を持つようになるのは誰か、と言うように聞こえます。この地上における市民権よりも、天国に市民権を持つことを喜ぶ者は誰でしょうか、と問われています。

 7章は、六つの封印と一つの封印を開く光景を中断する形で、挿入されています。
そこで岩波版は、これを「幕間劇―信徒の保護」と名付けました。それは、四人の天使に続いて現れる五人目の天子が、大声で叫んだことによります。3節「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」。
四人の天使は、大地の四方から吹く風をしっかりと抑えていました。彼らがそれを止めると、大風が吹き付け、海も木も損なわれます。

 「額に刻印」を押すのは、その印章の主の所有物となることです。
牧場の家畜、牛や馬には烙印が押されます。所有主のしるしを付けることで、誰のものか、分かることになっています。額に押される刻印は、当然、神の印章です。

 創世記4:15は、弟のアベルを殺したカインの姿です。13節以下をご覧下さい。追放されようとするカインが、主に語りかけています。
「私の罪は重過ぎて負いきれません。・・・私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう。」
殺人者となったカインは、他の人間もまた、殺すことが可能である、と知りました。
そこで主なる神は、カインに徴を付けられた。どのような徴であるのか、分かりません。分からなくてよろしいのです。
「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに徴を付けられた」。
殺人者カインにも神の恵みは与えられました。つけられた徴は、恵のしるしでした。

 恵の徴である、ということは、それが審きの徴であることを否定したり、排除したりするものではありません。殺人者であることを告知し続けてもいるのです。赦すから有罪を宣告する。罪人であることを告知し、同時に赦しを実現するのが十字架です。
審きと赦しが同時に起こるところに福音の消息があります。

 黙示録の徴も、イスラエルの無数の民に押されました。14万4千人は、「十二」の二乗を千倍した数で、「無数」を意味します。限定された数、とする主張もありますが、9節以下では、無数の、数知れぬほどの群衆とありますので,無視しましょう。
限定したいのは、自分は刻印されたので、他のものには不要である、と考える人でしょう。自己中心・自己絶対化は、福音とは全く異質なものです。

 多くの苦難を通ってきた者たち、その衣を子羊の血で洗って白くした者たち、彼らこそ神の国の民です。彼らが、主なる神をわが主とお呼びしても、主は喜ばれるでしょう。
私たちも天国の市民とされます。それは多くの市民と共になり、神の御名を讃美するためです。私たちの市民権は整備され、用意されています。私たちが、招かれる時は、天国の市民とされる時です。そして、天国に市民権をもつ者として、今を生きましょう。

 感謝して、讃美を捧げましょう。