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2010年7月11日

《神からの真理》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?テモテ3:14〜16

  聖霊降臨節第8(三位一体後第7)
  讃美歌66,349,517、交読文31(詩130篇)
  聖書日課 列王上10:1〜13、?テモテ3:14〜16、マルコ8:22〜26、
       詩編119:129〜136、

 毎年の事ですが、梅雨の後半に大雨が降り、土砂災害が起こってきました。そうしたニュースが入ると間もなく梅雨が終わり、夏本番の暑さがやってきます。今年もその時期になったようです。このところ台風発生のニュースを聞いていないようですが、どうしたことでしょうか。
南の洋上の海水温が高くなり、水蒸気が発生するとそこから台風に成長する、と聞きました。
海水温が低いのでしょうか。
 九州の土石流はかなり酷いようです。同時に心配なのは、口蹄疫で殺処分になり、地下に埋められた家畜がどうなっているのか、ということです。
 教会の庭では、アジサイも終わり、木々の色が濃くなりました。もう夏です。とはいえ、木々のおかげで、かなり暑さが緩和されるようです。大切にしたい木々です。その木も、カラスの遊び場では困ります。他の小鳥は怖がってこなくなります。東京では、カラスがスズメを殺す場面を生徒達と一緒に見てしまいました。夏前でした。窓を開けたままで授業をしていたら、カラスが騒いでいました。驚きました。スズメを攻撃しているのです。
 テレビでは、チンパンジーが他の種類のサルを殺して食べる光景を見せていました。これなども同じです。現在なされていることだ、ということは分かります。それでは何時から始まったのか、古代からであれば、その頃はもっと大量にあったのだろうか。次第に少なくなってきたのだろうか。それともかつてなかったことが最近始まったのだろうか。
 人間世界を含めて生き物が凶暴化しているのか、それとも偶々起きたことなのか。
研究者にもう少し詳しい報告を願いたく感じています。

 さて本日は、テモテへの第一の手紙3:14〜16です。
二つのテモテ宛の手紙とテトスへの手紙。この三つを牧会書簡と呼びならわしています。
そこで、本日は最初にこの「牧会」について考えて見ましょう。
 玉出教会には牧会部があり、活動していますので、誰もがよく承知していらっしゃる、と考えます。それでもご一緒に考えることは必要です。どのようなことでも考えが一つしかなくて、みんなが同じ考え、ということは中々ありません。同じ言葉を用いても、違うことを指している、ということすらあります。
 「牧会」教会を牧する、の意味でしょう。私の神学生時代は、牧会学をアカデミックにする時期でした。ドイツに留学して帰ってきた先生が、説教学と共に担当されました。そして言われたのが、「牧会とは魂への配慮である」ということでした。分厚い翻訳書をテキストにして学ばされました。お値段も高く神学生にはつらいものでした。
魂への配慮、Seelsorge、ドイツ語です。魂には限定がありません。だれの魂?
 ドイツには「十分の一税」があります。これは、教会税であり、教会に代わって国家が税金を徴収して、国家公務員になっている牧師に給与を支払い、さらに教会の運営経費を支払うという制度、システムだそうです。恐らくそうした教会になるためには厳しい審査と監督があるでしょう。ローマ教会、正教会、新教会諸派はどの様にみられるのでしょうか。

 ドイツでは1928年ごろから税務署を通じて教会に教会税を納税する制度が始まりました。
ドイツでは、住民登録する時に、宗教を書き込む欄があります。キリスト教と書くと、どの教派であろうと関係なしに、その時から所得の8〜9%の教会税を徴収されることになります。それを免れるためには他宗教名を書き込みます。イスラム、神道、仏教で良いのですが、無宗教はいけない、とされています。欧米では、無宗教は、神を否定し、拒絶する者たちで、どんな悪行も恐れることのない恐ろしい奴ら、と見られます。

 教会税は、他の州税と共に州に納めます。州はそれを教会に分配します。その教会とは
Evangelische Kirche(ドイツ福音主義教会、EKD、ルター派)とカソリック教会であり、その他の小さな教会には、教会税は分配されません。たいへんな不公平です。
10%近い教会税は、普段教会へ行かない人たちには、重過ぎると感じられます。そのため、女子プロテニスのチャンピオン、シュテフィ・グラフが教会を離脱したことはよく知られています。
その手続きは省略します。

 あるドイツ人女性のドイツの教会事情に関する講演の一部をご紹介します。
 ≪ひとりの女性の例を知っておりますが、この女性は教会を脱退したあとで自分に何か欠けているということに気がついたそうです。みんなと一緒にいるところがない、瞑想したり、しゃべったり、考えたりすることが出来る場所が自分 には今はもうないということに気がついて、もう一度教会に入り直したいと思ったのです。若い人も、学生もそうですし、どんな年齢層の人にも同じような問題があります。
 このように再び教会に戻って来た人たちに配慮が必要ですが、 たとえば最初の礼拝に入ってきたときに心からの挨拶をする、これこれの人が もう一度、私たちの教会に属することになりましたということをみんなで喜ぶことが必要です。ただ、聖餐式の問題に関しては、参加を強いないように考えています。その人が自分で判断してあずかるのはいいが、ごり押しはしないと いうことで対処しています。ベルリン・ブランデンブルクでは、1000人の 人がもう一度教会に入り直す、あるいは新たに教会に加入するということを私たちは知っております。このことは非常に嬉しいことです。とても大切なことは、このような人たちと牧会的な配慮で対話を継続することです。ほったらかしにしないということです。≫
 この講演では、最後に「牧会的配慮」という言葉が用いられ、その意味は「ほったらかしにしない」ことである、とされていました。
これは、日本の教会でも良く考えられている意味ではないでしょうか。新しく来た人たち、久し振りの人々、大胆に、勇気を奮っておいでになった人をほったらかしにしない。
これは大事なことです。
然し何のために大事にするのでしょうか。折角来た人に寂しさを感じさせない、これは人間的、情緒的な感じ方です。だからと言ってそれを排除する必要はありません。それぞれ、自分の居場所を求めて教会の門を叩きます。まだまだ探さねばなりません。

 消火器投げ込み犯が、逮捕されました。彼も居場所を求め、見つけたと思ったけれど、見失ってしまった人です。このような人を出さないようにすることも、教会の牧会の働きです。

 「牧会」には、信徒の信仰生活全般にわたり指導する意味があります。
信仰生活には、誘惑がつきものです。それによく対抗し、信仰の破船に陥らないように指導します。誘惑に勝利を収め、神を讃美できるように導きます。
その目的は何か、という問いもあるでしょう。
神との対話である讃美と祈りに打ち込めるようにする。これが答えです。
更に言えば、様々な理由によって妨げられることなく、みんなが一緒に神を礼拝が出来るように配慮することでしょう。

 これらのことを、この手紙の筆者は、15節で語ります。
「行くのが遅れる場合、神の家でどの様に生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」
昔は、この手紙は大伝道者パウロが、愛する弟子テモテを教えるために書いたものです、と教えられました。今は、間違いなく、パウロ以降の教会の教師によるもの、と考えられています。
そうなると実際にテモテに宛てられたものか否かも分からなくなります。
それでもよろしいのです。パウロと愛弟子テモテとの間で交わされた指導文書のようなものとして学ぶことが出来ます。14節も、その想定の下、テモテの許を尋ね、直接指導したい、という希望を語ります。これも立派な牧会です。テモテを牧会し、牧会を教える手紙です。二重に牧会なのです。

 さて次に「神の家」について考えましょう。原語では、オイコスが用いられます。確かに家屋、家族の意味です。もっと大きな意味もあります。派生語でオイクメネーとなると、世界、人間が居住する世界、すなわちローマ世界、などを意味します。
ここでは、教会・エクレーシアを指して言われています。
エクレーシアは、召し出だされた者の群れを指す語ですから、居住する建造物ではありません。もっと広く、創られたこの世界全体を指している、と考えます。
その中でどの様に生きるか、それを指導するのが牧会です。
また教会は、この世界の真理、土台である、と断言します。「真理とは何か」、とピラトと同じ質問をしては時間の無駄でしょう。

 ヨハネ福音書14:6を読みましょう。
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない」。
 キリスト・イエスご自身が、真理そのものです。父なる神の御言葉全体が、真理です(詩編119:160)。したがって、ロゴス(ことば)である御子イエスは真理となります。
この真理は、世の哲学者たちが論議するような真理ではありません。
そのうちに力があり、多くの人を神の命に与らせるものです。

 16節は、当時の教会の、キリスト讃歌のひとつであろう、と言われます。
フィリピ2:6〜11にも有名な讃歌があります。比較するとテモテ書の讃歌の特徴が分かります。短いこと、宣教中心であること、の二点です。
   「キリストは・・・異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げら    れた。」
   「真理は自ずから知られることを欲す。」と言われます。
この時代、すでに、神からの真理であるキリスト・イエスを信じることは、讃美することでした。そして讃美の声は、世界中に響き渡り、伝えられて行きました。 今私たちも声高らかに、イエスこそ救い主・キリストである、と告白し、宣べ伝える使命を果たしましょう。
そのために献身する人を生み出し、支えましょう。

 ここに代々の教会の使命があります。