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2006年4月23日

《復活顕現》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書20:19〜31

聖書日課に基づく説教も4回目になります。
一定の評価を出すにはまだ早いと思います。しかしそれなりの効果はあるものと存じます。
皆様からのお励ましもいただいておりますので、予定通り続けてまいりましょう。
教会の暦では復活後第1主日。甦られた主イエスの、その後を読み、考える頃となります。

20:19以下は、週の初めの日、主イエスが葬られた墓に居ないことが判ったその夕刻の出来事です。
弟子たちは、主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れて、家の中に閉じこもっていました。
それはそうです。例え、一時的ではあっても神のように信じていた方が殺されたのです。
失意、落胆、絶望、不安、恐怖、疑惑。今度は誰によって、誰が殺されるのだろうか。
すべての戸口は厳重に閉ざされ、出入りする者もなく、中に人がいることすら知られないようにしていたようです。
 「それなのに」と聖書は書いています。家の中に主が、その姿を現しました。人々は部屋の隅に固まっていたことでしょう。部屋の真ん中に立たれた主が言われます。
「あなた方に平和」。何か特別なことを言われたようですが、そうではありません。
平和がありますように、というイスラエルの「日常の挨拶の言葉」なのです。

?編讃美歌の202番を御覧いただきましょう。
「友よ、また会う日まで」と題されています。
30数年前、イスラエル南部のキブツに2週間滞在しました。キブツ・スデ・ボケール。
エジプトとの国境にある防衛の最前線です。初代の首相ベン・グリオンがここに住みました。その住居が今も記念館として残されています。佐溝敏一さんは先年この地を訪れています。このキブツのプールで、スイスから来たユダヤ人青年から教えられたのが、この歌です。シャローム ハベリム、シャローム ハベリム、シャローム シャローム、
   レヒトラオーツ レヒトラオーツ、シャローム シャローム。
     友よ、また会う日まで、シャローム シャローム、
     めぐみの主守りたもう、シャローム、シャローム。
「平安があなたにあるように」と言う意味です。
朝起きたとき、寝るとき。おはよう、こんにちは、さようなら。
すべての時にこの言葉が行き交うのです。そこが戦場であっても、否むしろ戦場であり、不安に満ちているから、ユダヤの人々はこの挨拶を今日に至るまで、今も守り続けています。これを輪唱すると素敵です。

主イエスはシャローム、と言われました。甦りの主を知り、平和を得るように、ということだったのでしょう。どうやら弟子たちには、それだけでは不十分だったようです。「彼らに両手とわき腹を見せた」とあります。それで初めて弟子たちは、主を見たのです。単に「見た」と考えないほうが良いでしょう。識った、と言うことです。
見てはいるが理解せず、認識からは遠かった、ということです。

 ルカ福音書24:13以下に、エマオ途上の弟子たちに主が現れた、という記事があります。
ここでも二人の人は、イエスと歩いているのに、目の前の人がイエスとはわかりませんでした。主の側からパン裂きをしてくださったとき、クレオパともう一人の弟子はようやくわかりました。人の力によって認識できるのではなく、キリスト・イエスの側から働きかけるとき、初めて理解が進むのです。知って喜ぶことが出来ます。
 同様にヨハネ福音書でも、主イエスの側から示してくださって、弟子たちは主を知ることが出来、それを喜ぶことが出来ます。

 そこから次のことが始まります。先ず、先ほどの挨拶を繰り返します。そして派遣命令が伝えられます。更にイエスは、息を吹きかけ、聖霊を受けよ(創2:7、エゼキ37:9)、と言われ、罪の許しを伝えます。これはマタイ16:16以下で、キリスト告白に続いたものです(鍵の権)。教会が預言者の働きをすること、と理解します。
弟子たちの反応は、何も記されていません。それで十分なのです。主イエスの言葉は、その通りになるのです。弟子たちは、罪の赦しの福音を伝える者とされたのです。
人の反応によらず、神の計画によって決定されることがあります。

 この時一人の弟子がそこに居ませんでした。ディディモと呼ばれるトマスです。 
私たちにとっては、疑り深いトマスとして馴染み深い人物です。
ディディモは「双子」の意味、共観福音書は単にトマスとだけ記します(マタイ10、マルコ3、ルカ6)。
ヨハネ福音書は11:16で、「ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」と記しています。14:5にはトマスの名が、そして21:2はディドモと呼ばれるトマス、と記しています。

使徒言行録では1:13、使徒たちの名前としてトマスが記されます。

トマスは指を差し入れなければ信じない、と言いました。自分の目がみていないもの、出来事、自分の体験、経験しないことは信じられない、と言いました。でもそれは、拒絶である以上に、お目にかかりたい、という必死な願いを秘めているように感じます。
それだからこそ彼は、甦りの主が現れたとき、彼は、その手を触れさせることなく信じました。「私の主、私の神よ」と告白しました。
「手に釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」といったにも拘らず。
美術作品の題材に良く用いられます。中には、イエスの傷跡にトマスがまさに触れようとしているものもあります(グエルチーノ)。
しかし、聖書には、彼が手を差し入れた、触れたとは書かれていません。
主イエスのリアルプレゼンスは、その存在は、圧倒的な力を以って迫ってきます。
トマスは、「私の主、私の神よ」と応える事しか出来ませんでした。

トマスは南インドへ宣教したと伝えられます。
トマス福音書が伝えられているが、後の時代のものと考えられています。

彼の懐疑は特別なものでしょうか?
主イエスの側からの働きかけがあって初めて、弟子たちは、悲しみや恐れ、不安の中から立ち上がり、信じる者となり、宣べ伝えるものとされます。
人間の思考の根源は経験におかれます。
かつて自分自身が経験したことでなければ、承認しない。
存在しない、起こっていない、などと否定につとめる。
しかし、私たちの世界には、理解を超えることがたくさんあります。否定できません。
人間の存在そのものが、そうです、不思議なものです。しかし、「復活顕現」、甦りの主イエスの存在は、そのような私たちの疑いを洗い流す勢いで迫ってきます。この主イエスと出会う時、トマスのようにそのまま受け入れてしまうのです。それを非科学的だと言われても構いません。
疑いや不安の中に沈み、倒れているよりも、闇から光へと移され、立ち上がって生きることのほうがよいのです。嬉しいし、喜ぶことが出来るのです。

私たちは、今は見てはいません。しかし信じることが出来ます。幸いなことです。
見た事は信じるのではありません。認識です。見ていない、触れていない。だから信じることが出来ます。
見ずして信じる者は幸いである、この言葉はまことに真実です。感謝しましょう。