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2010年3月7日

《受難の予告》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ8:27〜33

  復活前第4、受難節第3主日、讃美歌56,507,322、交読文18(詩67篇)
  聖書日課 イザヤ48:1〜8、?テモテ1:8〜14、マルコ8:27〜33、詩編18:2〜7、

 啓蟄を過ぎると急速に暖かくなります。
啓蟄は、二十四節気の一つで、大地が暖まって、冬の間地中にいた虫が這い出てくる頃。毎年3月6日頃に当たります。
天文学的には、天球上の黄経345度の点を太陽が通過する瞬間。
地熱が上がり、雪も解けて、もはや寒くはならない時期になるのでしょう。

 例年3月15日は、頌栄女子学院の卒業式でした。ある年の卒業式、まだ寒くてコートを着て出かけました。ホテル・オークラでの謝恩会も終わり、友人と新橋まで歩くことにしました。途中からコートを脱ぎました。足元が暖かいのです。地表面の温度が高くなっていたのでしょう。大阪はもっと暖かく感じられます。
 今年は梅の香りをかいでいないことに気付きました。1本南の道路際にあったのを思い出し、行ってみました。残念でした。一つも開いていませんでした。気温が低いと言う事はないはずですが。何処でか忘れましたが、沈丁花の香りが漂っていました。

 庭のラッパスイセンが開き始めました。芝桜も新しいみどりを葺いています。シュン蘭も花芽を大きくしてきました。何処を見てもはる、はる、春です。梅、桜、桃ももうすぐ、人は何歳になっても、春に心ときめくようです。でも、あと何回の春だろう、と思うのは歳の所為でしょうか。
 啓蟄は過ぎましたが、今週はまだ春にならないようです。寒の戻りが予想されています。
暖かさに馴れると、辛いものです。お気を付け下さい。

 さて、本日の主題は《受難の予告》、聖書はフィリポ・カイザリヤでのペトロの告白。
そして本日の聖書は、ペトロが叱責されるところ9:33で終わってしまう。
第1回の『受難予告』は此処までである。次の部分は『真の命の道』を教える。
8:33節まで、となっているのは、何らかの意味があるのだろうか。ペトロの告白なら30節までで良いのではないでしょうか。ご一緒に読む中で、何らかの回答が与えられれば幸いです。

 イエスはベトサイダで、生まれながら、目の不自由な人を癒やします。それからイエスは、弟子たちと共にフィリポ・カイザリヤにやってきます。場所、地名をはっきりとさせているときは、理由がありそうです。
 フィリポ・カイザリヤは、どの辺でしょうか。先ずベトサイダを見ましょう。
お手元の聖書の最後の方に地図がありますのでご覧下さい。新約時代の地図です。
ガリラヤ湖の北岸、ヨルダン川の東にベトサイダがあります。此処から北へ上るとフーレー湖、更に北北東へ18km、ヘルモン山南麓の高台地(標高329m)にこの町はありました。

 ヘロデ大王が紀元前20年に所領とし、パン神の祭壇近くにローマ皇帝の像を安置し、大理石の神殿を建立してアウグストゥス帝に敬意を表した。のちフィリッポス?世は町を拡大し、沿岸の有名なカイザリヤと区別するため、自分の名を加えフィリポ・カイザリヤとします。郊外にヨルダン川の水源の一つとなる泉が湧き出す洞窟があります。

 此処は、パン神の自然力が崇拝され、ローマ皇帝が神として礼拝される場所です。ユダヤの人々にとって忌み嫌わざるを得ない場所に違いありません。そのことを知ってください、と言われているように感じます。主イエスは、それほどに異教的、偶像崇拝的雰囲気にあふれたこの場所に、わざわざやって来られました、何故でしょうか。
ベトサイダからフィリポ・カイザリアまで直線距離で約40kmも。1日掛かりです。

 主イエスは、ユダヤ領土の北端、最も異教的、偶像に満ちたところで、ご自身に対する信仰の告白を受けることとされたのです。確かに他のところでもよかったでしょう。しかし後世の人々のことを考えた時、この地が最もふさわしい所でした。
後世の人間は、異教の神々が告白・賛美されているところへ出かけて行って、キリスト・イエスを讃美・告白することになります。それが求められる宣教です。

 宣教は用意されたところで行われます。それはいつでも、異教の力が強く、偶像が賛美されるところに他なりません。そのところにこそ、教会は建てられ、主イエスはキリストである、と讃美・告白されるのです。

 この所で、神の御子イエスは、ペトロとその仲間に対し、「人々は私をなんと言っているか」と尋ねました。彼らは答えます。人々、ホイ アンスローポイ、人間の複数形です。
この語は、人一般を指し、弱さと不完全さ、そのあらゆる性質をもつ者を意味します。
弟子たちは、その中に自分たちも含まれることに気付きません。いや、気付いていても気付かないことにしていることもあります。とにかく自分たち以外の人々に対する問いかけのようにして答えます。

 主が此処で、弟子以外の多くの人々の声を聞くことを求めた、と考える事は出来ます。
しかしそうであっても、主の言葉自体、弟子たちを含む人々を指していたことには違いはありません。さまざまな討論、質疑の中で、人は自分自身の考え、意見を隠し、他の人の意見を語ろうとする傾向があります。自分では、そのことに対する責任を負いかねる、と感じるためではないでしょうか。私も含めて。
 弟子たちの答えを見ましょう。
 「バプテスマのヨハネだ、あるいはエリヤだ、預言者たちの一人だ、と言っています」。
マルコは6章でヨハネ殺害を書き記しています。そのヨハネが現れた、と。
預言者エリヤは、メシアが到来するに先立って世に現れると、当時の人々に信じられていました。主はそれに満足なさいません。弟子たちは、このような世間様の声を主イエスにお聞かせしました。まるで評論家のように。

 主はもう一度彼らに尋ねます。「あなたたちは私を誰だと言うのか」と。ペトロが代表して答えます。「あなたはメシアです」。
 救い主、キリストです、と答えました。マタイ16は、此処で答えを膨らませています。
マルコは、メシア告白だけを書留ました。それで充分だったのです。

 私にとっては、この所での主イエスの問いかけの言葉が気になります。「あなたたちは」とあります。弟子たちの集団を前にしています。集団としての答えを求めているのでしょうか。敬意を表す複数、という考えもあり得るでしょう。それ以上に、集団であっても個人が前提になる、と考えるほうが良いでしょう。あなたたちの一人ひとりは、ということです。それゆえにペトロは一人で答えます。

弟子たちは、このときから、みんな一緒でありながら、主の前には一人で立つことを学ぶようになります。それは今日にまで続いています。あなたたち、と呼びかけられたときは、神がその被造物に対し、対等な関係、人格の関係を持つ瞬間でした。エデン園で、アダムとエバに、「何処にいるのか」と呼びかけられたように。あなたと私、の関係です。

ペトロは立派な信仰告白をしました。主は、そのことを誰にも言わないように戒められました。メシアの到来について、人々の理解が不十分だからでしょう。不十分な部分を、その後でお教えになります。すなわち受難と復活のメシア・キリスト、ということです。

31節「復活することになっている」、原意は『起き上がらなければならない』です。
「することになっている」「なければならない」は、原語ではデイ、神の計画で不可避的に定まっているという必然性を表します。主は神のことを語っています。
するとペトロは、イエスを傍らに引き寄せ、いさめ始めます。「叱り始めた」と訳した先生もおられます。この時のペトロの感覚はそうしたものだったでしょう。

主は、このペトロを叱責します。弟子たち全てを、と考えるべきです。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。
なんと厳しい言葉でしょうか。思うべきことがあるのに、違うことに心奪われている。
これではいけないのです。私たちは、確かに混沌たる世界を生きています。考えるべきことが多くて、悩ましい、と言います。叱責されます。
何が考えるべき事か、良く見極めなさい。シンプルライフ、ハイソウトは内村の言葉。
この高い思索は、神に関わる思索が意味されているようです。
キエルケゴールは、あれかこれか、と言いました。私たち現代日本人は、あれもこれも、と言います。これが私たちの生活を複雑にし、考えを混乱させています。

 私たちの玉出教会は、伝統的に、一人ひとりが各自の信仰をその口で告白することを大事にしてきました。主イエスも、弟子たちにお尋ねになり、ペトロの答えを引き出しています。「あなたこそ生ける神の子キリストです」
マタイでは、この告白は血肉によるものではない。人間によるものではなく、天の父が表したのだ、とされています。
マルコは、誰にもこのことを話さないように、という戒めで終わります。
これが本来のもので、マタイは、告白が何処から来るものか、説明すべきだ、と考えたのでしょう。これは正しい。信仰の告白が正しく出来たからといって、それを誇るようなことがあってはならないのです。信仰を告白したからすべてが正しく、完全になるような事はない、と私たちは知っています。

 信仰は、それ自体が神の恵と力によって惹き起こされるものです。告白しても、私たち各人は、罪びとであることに何ら変わりはありません。義人になったり、全能になったりするわけではありません。ただ神の側では、憐れみをもって神の子と看做して下さいます。

 福音書記者は、そのことを伝えるべきだと考えたのでしょう。
立派な告白をしたペトロの失敗とイエスの叱責を記しました。

 人間の側の告白、それ自体には確実性も必然性もありません。神が与えたもう福音にこそ必然性があり、確かさがあります。私たちの力不足を嘆くのではなく、神の側の確実さと必然を喜びましょう。

 日本の文化は、海外から渡来した異なる文化、仏教の影響を徹底的に受けました。
代表的な古典文学『平家物語』にそれを見ることが出来ます。
 『平家物語』は、多くの人に読まれ、良く知られています。鎌倉時代のもので、信濃の前司行長が作者である、との説もありますが、分かりません。昔は、琵琶法師によって国中の各地に運ばれ、語られ、多くの人の耳に親しんだものだったようです。娯楽の少ない時代にあって、大衆娯楽の重要な一場面だったことでしょう。全体は、
 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 
  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す
  おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し 
  たけき者もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」
という有名な文章で始まります。これは、まさに鐘の音のように、豊かな余韻となって長く長く、全編にわたってさまざまに響き渡ります。
平安朝の貴族社会から鬼っ子のように生まれ育つ平家と源氏。この武家・侍世界の興亡を描き、諸行無常の仏教精神を語ります。
決して単なる軍記物語ではありません。そうかと言って抹香臭い仏教説話の世界でもありません。貴族社会の没落と源平の興亡を舞台に、人間の喜びと悲しみを強さと弱さ、脆さを壮麗に描きます。優れた文学の世界が広がります。

 人の脆さ、弱さを見るなら、経験するなら、人間の側にはどのような確かさもない、という点では、私たちも「諸行無常」と語ります。
仏教が人間の弱さを語る時、キリスト教は同様に人間の罪を、その裁きを語ります。
諸行無常と諦めが語られるなら、私たちは神の確実さを、その赦しの確かさを告げるでしょう。
そして、神が最高の確実性を私たちに与えてくださっている、この故に私たちは、感謝と讃美の中を歩みます。確実な罪の赦し、そのための十字架の苦難と復活です。

このことだけを心に刻み付けてシンプルに進みましょう。