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2006年2月12日

《独り子すら惜しまず》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記22:15〜24

讃美歌60,183,502、交読文5(詩19)

 トリノ・オリンピックが始まりました。昨夜、開会式の様子を見ました。オペラの国、何か出るだろうな、と思いながら観ました。ビートルスの「イマジン」があって、平和への思いが示されました。ステージが出来て、幕が開かれるとテナーのパヴァロッティが登場。歌ったのはプッチーニのトウーランドットから「皆寝てはならぬ」。

堂々たるものでした。この期間中、寝るなよ、と言う意味だろうか、と考えながら明日のために速く寝なければと考えました。礼拝のためには、良い準備をしたいものです。

 わたしのお父さん、と題して説教するのは初めてでした。私自身の父の事ではなく、イサクがその父アブラハムへ呼びかけた言葉でした。その中に父なる神への呼びかけを、その響きを感じると申し上げました。

 「独り子すら惜しまず」、ここでは神がアブラハムの信仰を評価した言葉として顕れます。

よくやった、というわけです。アブラハムは、神が求めたもうことについて忠実に答えようとし、愛する独り子を惜しまなかった。神は、それを賞賛しています。12節と16節、二度にわたって記されています。大事な言葉だからこそ繰り返されるのです。

 私は自分の感覚で聖書を読みます。聖書学者の感覚や、注解者の感覚に頼るのではなく、自分自身の生活する者としての感覚を大事にします。もちろんそれが、すべての人と共通するとは考えられません。同じ国の中でも、言葉が違い、産物が違い、食べ物が違い、生活の慣わしが違います。説教は、聖書の説き明かしをするもの、と言われます。それは、説明と言う意味ではありません。それなら、聖書に関する説明、解説書を読めば、もっと良く判ります。『バカの壁』と言う本を書いて有名になった養老たけしという方が居られます。あの本は、養老さんが話したことを書き改めてくれる人がいるのだそうです。最も新しい本は、ご自身が書かれたそうです。これまでのものの中で、一番判りにくいそうです。これは編集者との対談で行っておりますので本当のことでしょう「どうも自分で書いたものは判りにくい。他の人が聞いてそれを書いたほうが判りやすくなる」と言っています。

 説教者には書き改めてくれる人はいませんが、なんと言っても判り易くなければなりません。学者の関心は学問的であること。説教者の関心は、福音が伝わる事です。聴き手に関心を寄せます。聴き手を出来る限り理解し、その心に向かって語る。そこで腑に落ちれば何よりですが、そこまで行かなくても判ったような気持ちになれば上出来かもしれません。私は、自分の力を知っている積りです。大それたことは望みません。神の御力がしてくださることだけです。



 ことによると、大多数の方の考えと異なるかもしれませんが、独り子を惜しまない、ということには、無理があります。私の感覚は、子どもを活かしたい。自分が殺され、地獄へ行くことになるとも、子どもは活かしたい。子どもを殺すように求められたら、そんな神様真っ平ご免だ、と罵って逃げてしまう。この感覚で創世記を読むと、アブラハムは凄いけれど判らない、と言うことになります。同じことなら、神を呪って死になさい、と言ったヨブの妻の方が理解できます。不信仰といわれるでしょうが、私の感覚に近いのです。

「彼の妻は、『何処までも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう』と言ったが、ヨブは答えた。『お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』。」ヨブ記2:9

 自分の正しさを守って辛い思いをするぐらいなら、神を呪って死んだ方がましだろうさ、と啖呵を切っているこの女性。よっぽどわたしたちの本音に近いのではありませんか。

 アブラハムは何も語っていません。妻サラにも何一つ語りません。何故でしょう。最後の瞬間に自分自身を刺してしまう積りだったかも判りません。父親が、我が子をいけにえにすることが出来るとは考えられないのです。信仰がないからでしょうか。

 人間が、我が子を、独り子を犠牲にすることが出来るとは考えません。希望を自分で断つことは出来ません

主イエスは言われました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

ヨハネ福音書3:16。

これは神だけが出来ることなのです。人には出来ないが、神には何でも出来ます。

 わたしたちの心は、神を信じる、と言うときも、自分とその家族の健全な存在を先行させていると思います。存在がなくなったら信仰もなくなってしまうから、と自己保存を第一に考えることが多いのです。これに変化が生じるのは、危機的な状況の時です。

 たとえば、キリシタン迫害の時の「踏み絵」を思い起こします。

大磯に澤田さんのコレクションを基に造られたキリシタン美術館があります。

正式には、澤田美喜記念館です。旧東海道沿いにあります。大磯は宿場町、一昔前の高級な海水浴の場所、避寒地、別荘地でした。三井本家の別荘(現在の大磯公園)もあり、吉田茂氏の大邸宅も有名です。記念館は岩崎本家の別荘地でした。

ここに収蔵されたものの中に、昔、使われた踏み絵があり、心打たれました。壁にかけるように釘穴が開いています。あるいは一枚の紙切れにしか過ぎないものもあります。踏み絵として作られたものではなく、個人や、その集落が礼拝のために用いていたものを持ち出してきて、踏ませたものだそうです。踏み絵用に製造され、使われたものの中には、かなり磨り減っているものもありました。そのために造られたものなら、踏むことが出来る。しかし、自分たちが崇めていたものを踏みなさいと言われた時には踏めなかった、と聞きました。ただ踏むことは出来る。自分が信じていない徴、信仰を捨てたしるしとして踏みなさい、と言われ、聖像を置かれたときには、踏めなかったのです。

私たちは、出来る限り殉教を避けようとします。それで良いのです。のがれようのない立場に追い込まれたとき、初めてどちらかに選択を迫られ、ことによると、踏むが良い、踏むが良い、と言う主イエスの声が聞こえるのかもしれません。

神は、アブラハムに刃を振り下ろすことまでは、要求しませんでした。

その直前で止め、しかもその行為・行動が完了したものと認めました。そして祝福します。12,13,15、17章でしめされた祝福が、ここでも繰り返されます。

「あなたが私の声に聞き従ったからである」と言われますが、実際は、神がそのように認めてくださった、と言う事です。即ち、アブラハムが正しい、義人であると言うよりも、義人と認められた、看做されたと言うのと等しいのです。

 キリストの父なる神は、人間には出来ないことを、出来たこととして認めてくださいました。それが、アブラハムとイサクの物語です。人には出来ないことを神が実現してくださったのが、キリスト・イエスの十字架の出来事でした。

 信仰の父アブラハムにも、良くなし得なかったことを、神はなし終えてくださったのです。旧約の詩人は歌います。

詩篇49:7〜9「まことに人は誰も自分を贖うことは出来ない。その命の価を神に払うことは出来ない。とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにその命を贖うためには、あまりに価高くて、それを満足に払うことが出来ないからである」。

 アブラハムにも出来なかったこと、それを神は憐みを以って完成、成就してくださったのです。ここに福音があります。感謝しましょう。
欄外

1948年、澤田さんは駐留軍との折衝などに奔走し、エリザベス・サンダース・ホームを設立しました。これは、連合軍兵士が進駐してくるに従い、混血の遺棄幼児の数が増大してくることに心痛めた澤田さんが、混血遺児の養育施設として考えたものです。

澤田さんは、三菱で知られる財閥・岩崎本家の岩崎久弥の長女として東京の岩崎邸で育ちます。熱心なクリスチャンとなります。外交官・澤田廉造氏と結婚します。神奈川県大磯の岩崎別荘を分与されていましたが、戦後、財閥解体と駐留軍による接収のため失っていました。戦後の変動の中で、混血児童問題が起きる事を見極めた澤田さんは、行政に先駆けて養育施設を作ることを計画し、旧別荘地の接収解除、払い下げを訴えます。すでに混血児問題を掌握していた駐留軍は、待っていました、とばかりに協力します。アメリカの知人・友人・教会も協力を訴えました。ホームが作られ、子どもたちが成長しました。その後の生活の場として澤田さんは、ブラジルを選び、現地政府の好意ある協力により入植地を造ります。

 ホームはその働きを終え、今はステパナ学園小学校、中学校となって少人数の教育を目指しています。

澤田喜美さんは、世界各地、日本全国を旅して啓蒙活動と協力を求めました。その傍ら、各地に残るキリシタン文化に心奪われ、収蔵するようになりました。澤田さんの死後、散逸を恐れ、美術館を建設しました。現在の建物は免震構造で、現代の箱舟を目指して造られています。900点余の収蔵品、そのうち670点ほどが展示されています。一階が展示室、二階が礼拝堂です。生徒20名ほどと一緒に行きました。休館日でしたが、この日しか取れない、と希望を伝えると館長が出勤して開けてくれました。お珍しいお名前でした。お魚の「鯛」が苗字です。解説もしてくださいました。

中に入って最初に目に付いたのは大きな絵です。クルスの旗と天草四郎を描いたもの。これは素晴らしい、と感じました。それは、日本で最初の洋画家として知られる司馬江漢の作品だそうです。キリシタン魔鏡も実演して下さいました。陽光を反射して十字架を投影する、という不思議なものでした。鏡面にもその裏にも何も見えません。

このイサク奉献の物語は、多くの方が説教しておられます。たいていはアブラハムの信仰の勝利、めでたし。となります。私にはそのように考えられなくて、苦しみました。この信仰が求められるのなら、私たちは不信仰で終わらざるを得ない。どの様に考えたらよいのか。一つの途中経過の説教になりました。お赦しください。

説教は言い訳なしです。