集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2006年1月1日

《ロトの運命》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記19:15〜38

元旦、讃美歌54,413,284、交読文17(詩65篇)

 年頭に当たり所感を含めながら、聖書から学びたい。

先ず、説教題について。門の脇の看板を、道を行く人も見て行きます。

その一瞬にマイナスイメージを与えたくない、と考えています。

はてな?と考えさせるか、力を与えるようなもの、そして慰めを感じるものにしたいという思いです。もちろんそのような内容を備えなければなりません。時には、聖書の中から福音的中身を捉えきれないのに、勝手な題を付けたくなることもあるかも知れません。

実は、このところには、良いことはほとんど書かれていない。

「運命」という言葉を教会は用いない、と教えられた方もいらっしゃるでしょう。「摂理」を用いなさい、と。何処がどのように違うのでしょうか。

「運命」Destiny(広辞苑)人間の意志に関わりなく、身の上に巡ってくる吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく。めぐり合わせ。転じて、将来の成り行き。「宿命」は、前世から定まっている運命。「宿命」とほぼ同じ意味とされます。

ベートーヴェンの第5番のシンフォニーは有名です。冒頭の部分は、「運命は斯く扉を叩く」と記されている、と聞いたことがあります。

「摂理」Providence、 創世記22章、イサク奉献の部分が、この言葉のはじめ、起こりとなります。

(広辞苑)すべおさめること。代わって処理すること。キリスト教で、世界のすべてを導く神の計らい。キリスト教事典は詳細に述べています。

二つの言葉は、神学の課題とはされてもそれ以上の意味は余りないように考えます。私たちが、自分のことを考えるとき、すでに決定されていて何も変わる部分はない、とするか、それとも神との関係は自由意志によって変えることが出来るとするのか、が問題です。

イギリスの詩人ブラウニングには、有名な「春の朝」(あした)があります。

上田敏の名訳で有名になりました。『海潮音』に収載。Pippa’ s Song!

   時は春、

   日は朝(あした)、

   朝(あした)は七時、

   片岡に露満ちて、

揚雲雀(あげひばり)名乗りいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、

神、空にしろしめす。

すべて世はこともなし。

この詩は、『ピッパ過ぎ行く』という詩劇の中で、不幸な境遇に置かれている少女ピッパが、歌うものです。この後、ピッパの人生は劇的な変化を遂げることになります。

ヴィクトリア時代風の倫理観(勧善懲悪)が貫かれ、明るいピッパに豊かな報いが与えられます。これは、運命なのでしょうか、摂理なのでしょうか。

 先ほどご紹介したように、日本人にとって「摂理」という語は、使用頻度が低く、「天の配剤」というような意味であり、余り用いられません。むしろ「運命」の方がよく用いられています。更に「宿命」でしょうか。

ロトは、これまでテラとアブラムによって支えられ、守られ、救い出されて来ました。ウルを出発したのは、父親が死んだ後のことです。

小説家なら、父親は、都会にありがちな誤解を元に殺害されてしまった。テラは、そのことで大都会での生活に嫌気がさして旅立つことに決めた、とするかもしれません。

孤児となったロトは、祖父テラの死後は伯父アブラムに守られ、導かれ成長した。豊かになり、自らの望みでソドムとゴモラという豊かな世界を生活の場として選び取りました。北方の5人の王たちの侵攻に際しては、アブラムに救い出されました。ソドムとゴモラの滅亡に際しては、神の恵みにより救われます。滅びの町を後に、逃れることが出来ました。

 この19章では、ソドムの悪徳、非道振りが記されます。その中にあって、ロトが如何に純良であるかが記されます。そうして、ソドムが滅ぼされる理由と、ロトがその中から救い出されるに至る理由も明らかになるのです。

 
そして30節以下は、ツォアルを恐れ、山に移り住んだロト一家のことになります。

ロトの二人の娘は、父親にぶどう酒を飲ませて、父親によって子孫を残そうとします。そしてそれぞれ男子を産みます。姉の子はモアブと名付けられ、後のモアブ人の起源とされます。妹の子はベン・アミ、肉親の子という意味でアンモン人の先祖とされます。

この名前が記されるのは、後のイスラエルにとって不倶戴天の大敵となるモアブ、アンモンという民族の起源を記し、彼らを受け入れられない理由を語ろうとしたものです。

イスラエルは、この二つの民族が血縁的に、歴史的に近いことを認めます。しかし宗教的には、ほとんどタブー(宗教的禁忌)に近いことを告げています。民族差別が、どれ程根深いものか、底知れぬ恐ろしさを感じます。私たちにも同じ問題があります。自己卑下の必要はありませんが、他の民族の優れたところを認め、交わり、学び、親しむことが大切です。


さてこの物語は、当時のディレンマが記されたのでしょうか。

女性は子孫繁栄のためだけに存在する。そのためにはどのようなこともなすことが出来る。

これは男性側から支持される考えであったしょう。

それに対して、やはり近親相姦は禁じられる、とする考えがありました。

この考えが勝利を収めます。

「汝ら静まりて 我の神たるを知れ」。詩篇46

神を知るとは、神だけを神とすること、主とすることです。これまでアブラハム物語で、繰り返し示されたのは、神の約束を信じきれないで、自分の手で、考えで結果を出そうとする問題でした。それは、このようなどうにもならない問題を惹き起こしてしまいます。

ロトが、自分の自由意志を働かせた結果はこのようになりました。自由は大事です。責任も。


当時のイスラエルの人々は結論付けました。神だけを主とすること、近親相姦は禁じられること。子孫が絶えるとしても、なお主に委ねること。

これはある人々には、辛い信仰を求めることになったに違いありません。

時には、神への信頼が揺らぐほどの要求になります。

信じ難い状況の中でこそ、本当の信仰が顕れるのです。

重い病気の中にいると、「溺れる者は藁にも縋る」という気持ちになるようです。この病気から解放されたら伝道に献身します、と一生懸命に祈ります。病気が治ると、全く忘れたかのようになる。人間は悪を行い、はかりごとをする者です。間違えたら悔いれば宜しい。しかし神の聖霊を欺けると考え、言い繕おうとしてはなりません。1年の初めに、この歳への覚悟を定めましょう。自分のために生きたいでしょう。その中にあって少しでも他の人の求めに応え、他の人を喜ばせ、慰めることを考えましょう。祈ります。
欄外

現代に至るまでのオーストラリア倫理の根幹。流刑地であった故に女性人口が著しく少なかった。その均衡を作り出すために、同性愛、中絶などに対して非寛容な倫理となりました。

摂理(キリスト教事典)一般的には、宇宙および歴史を一定の法則あるいは計画に従って支配すると考えられる神的原理のこと。・・・ストア哲学では「宿命」と「摂理」を同義語とした。・・・アウグスティヌスは、悪の起源を人間の自由意志に基づく反逆に求めた。神はそれに対する罰を含めて、正しい摂理をもって世界を支配するとした。この考え方は、神の世界支配に関わる摂理とは別に、個々人が神の永遠の決定において救いと滅びのいずれかに予定されているとする予定説にも道を開いた。

神の摂理というキリスト教の思想も一種の運命で、自由意志との関連は論証困難な問題である。ヘーゲル、ニーチェ、東洋思想。