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2005年12月25日

《とりなしをする者》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記18:16〜33

   降誕主日、洗礼式執行、讃美歌96,102,199,112、交読文36、

 アブラハムの生涯の中には有名な出来事がたくさんあります。そして皆様にも、よく知られている、と思います。

今年、クリスマスに与えられた聖書の記事は、ソドムとゴモラというよく知られた悪徳の町のために、アブラハムが非常識なほど執拗にとりなしをする記事です。

一体、そのこととクリスマスの間にどのような関係があるのでしょうか。ご一緒に読みましょう。福音の出来事を聞きましょう。

 ソドムとゴモラ。悪徳の町、滅びに渡された町。「不法がはびこるので、愛が冷える」。

この背景には、昔、「塩の海」、死海の南の低地帯で栄ながら、突如として地殻の変動のため姿を消した町々の存在がある。現在では死海の南の方、縊れた部分が浅くなっている。

この水中には、人工的な建造遺物などが転がっている。さらにこの地域は硫酸性の土壌、塩分の強さが指摘されている。それを利用して肥料工場など、化学薬品の向上が盛んです。

現代では何処の都市が、ソドムとゴモラに相当するのでしょうか。ロンドン、ニューヨーク、ロスアンジェルス、パリ、ローマ、モスクワ、レニングラード、ベルリン、香港、上海、東京、大阪。いずれも大都会、そこには表面の美しさ、繁栄の裏側にとてつもない闇の力が働き、組織犯罪が横行しています。裏の世界、闇の世界が力を持ち、庶民生活を脅かしています。政治・経済さえも裏の力に動かされ、市民生活の中で正義は失われている。恐怖と不法が横溢している。人々を不安に陥れている。これがソドムとゴモラの本質であり、現代の大都市の姿なのです。愛を忘れた世界です。

20節には、二つの町の罪を訴える叫びが聞こえるように記されています。しかし、この町の罪を訴える義人は一人もいなかったのです。罪自体の叫び、と考えるべきでしょう。

 ロトは、アブラハムと別れて住むことになったとき、この町々を選びました。

彼の一族は、カルディアのウルを出発した、と記されていました。何故ウルに滞在していたかは判りません。元来さすらいのイブリと呼ばれる、半遊牧民だった、と考えられています。たぶん遊牧民は、都市生活には馴染みにくいのだ、と考えられています。

ウルという都市における生活を拒絶する形で旅立ったのでしょう。

彼らは砂漠の民であり、その故に唯一神を信じていました。その信仰を貫くには、都市生活は、容認し難いものがあった、と考えます。

 神はこの悪徳の町を滅ぼす決意をしました。アブラハムにはそのことを伝えます。アブラハムはこれらの町の滅びとは関わりのない義人と看做されているのでしょう。アブラハムは、自分のおいであるロトも居ることだから、懸命に擁護しようとします。彼らの代弁者となり、たとえ一人でも正しい人が居ればこれらの町を守る、と言わせてしまいます。

神様と取引をして値切っている、とよく言われます。50人、45人、30人、20人、10人、凄い粘りです。5分の1まで値切ってしまった。ここで止めています。たった一人でも義人がいれば救われることを、義人と悪人が共に滅ぼされることはない、と確かめることが出来たからです。

アブラハムの弁護、執り成しにも拘らず、街が滅び去るのは、義人が一人もいないかったからです。

 そんなことはとっくに判っていることです。「人が心に思うことは、幼いときから皆悪いことばかりである」とすでに言われました(創世記8:21)。

アブラハムは結局、神の意志を確かめただけで、これらの町の人々のためには、何も出来なかった。そこで私たちはソドムとゴモラの人々同様滅び去るだけなのでしょうか。

ヘブル人への手紙は3:1で、このように語ります。

「そこで、天の召しに与っている聖なる兄弟たちよ。あなた方は、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思い見るべきである」。

ヘブル書は誰が書いたものか、諸説があり、分からないと言うのが正直なところです。

この手紙は独自の主張を持っています。とりわけ大切なものが「大祭司キリスト」、という主張です。祭司とは、一体なんでしょうか。神と人の間にあって人の罪を執り成す者を言います。古くは、出エジプトの時、モーセの兄アロンが祭司とされました。また、降誕物語の中にも登場します。マリヤの婚約者であるヨセフの父は、アビヤ組の祭司の一人であった、と記されています。当時のイスラエルには大勢の祭司がいたようです。年に一度、務めが廻ってくる程度だったようです。香をたき、生け贄を捧げることで神の心をなだめる事が出来る、と考えられていました。一般的には、家鳩の雛ひとつがい、子羊などが捧げられました。年に一度、大祭司はイスラエル全体の罪のために、ヤギの頭に手を置き、祈って荒野に放逐したそうです。

このような祭司は、ほかに犠牲の捧げ物を必要とします。そして彼らも必ず死ぬ人間です。即ち、自分の罪のためにも捧げ物をする必要があると言う事です。

それは祭司によるとりなしの働きは、不完全である、ということを示します。

大祭司としてのみ子イエスは、全く違います。ヘブル人の手紙7:27を御覧下さい。「彼は、他の大祭司のように、先ず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、生け贄を捧げる必要はない。なぜなら、自分を捧げて、一度だけ、それをされたからである。」

ベツレヘムの宿屋で、家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた嬰児は、まことの執り成しをするためにお出でになられたお方です。神の救いの意志を明確に示すしるし、愛と恵みを示すしるしです。まったき神の子、まったき人、義しい者が現れ、人々のために救いを、赦しを獲得され、実現されました。現代のソドムとゴモラのために救いが備えられたのです。

 ご自身を生け贄として捧げ、その裂かれた肉と流された血潮によって、永遠の救いを全うされました。そうです、このクリスマスは、わたしたちの罪を神のみ前で執り成してくださった方のお誕生を祝うときなのです。執り成しは成就しました。感謝しましょう。

 欄外  マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」。
中浜萬次郎、土佐の少年漁師として浜を出た。漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられ、東海岸の捕鯨船基地ベッドフォードで教育を受け、一等航海士の資格を取り、帰国の機会を求める。その頃の名はジョン、ジョン・万と呼ばれました。

あるとき友人に誘われてゴールドラッシュのカリフォルニアへ行く。数ヶ月で大金を手にする。すっぱり手を引く。帰国の資金は出来た。母は教えた、「額に汗して稼ぐものだ、あぶく銭を狙ってはいけない」と。忘れなかったのだ。あぶく銭は泡のように消える。

当時のカリフォルニアがどれ程沸き立っていたか、私たちにはわからない。それを見た万次郎が、間もなく手を切るほどのものであった。万次郎は、教会へ行っていた。

恐らくソドムとゴモラのことも知っていただろう。数ヶ月でカリフォルニアを去る。

悪徳の町の代名詞がソドムとゴモラ。どれ程栄えていようとも、退けられる。滅びの町。

ただ一人、神の御子であるキリスト・イエスのみが神との仲保媒介をなし得る。それは清く、穢れを知らず、ご自身を犠牲の子羊として捧げられたから。

長い歴史の中で、神だけが悪しき人々のために行動される。それがクリスマス、救い主の御降誕である。

クリスマスは、この神の御子イエスの降誕の時である。

御子は、アブラハムとは異なる。普通の祭司とも異なる。御子は、ご自身を捧げて生け贄となし、永遠の救いを成し遂げたもうた。

 人口登録、人口調査。これもその時代の権力がその力を世界に向かって示そう、とする不法な行為なのです。旧約には民数記があります。民の数を調べることは、紙の命があるときだけに限られます。数調べは人間が自分の力を誇示する手段と理解されていたのです。

現代は不法がまかり通っている時代です。

古は塩の海、キリニウスはアスファルトの海、多くの時代は死海。水面は地中海の海面より392メートル低い。南をシデムの谷と呼ぶ。陥没したと考えられる。水深はわずか1.8メートル。周囲には塩の柱が見られる。水面には塩の塊が浮かぶ。