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2005年11月27日

《神の約束》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記15:1〜21

   待降節第1主日、讃美歌28,96,296、

 先日、クリスマス委員会が開かれている時に、顔を出したら、「良いところに来た、新聞折込用のチラシ原稿を作っています。牧師にはクリスマスまで、五回の説教題と聖句を出して欲しい」、と言われました。そこで、すぐに紙に書いて出しました。その間15分ほどだったでしょうか。委員さんたちはびっくりして、もう作ったのですか、と言うわけです。そうですよ、早いでしょう、とちょっと威張って見せました。これはいたずら心です。お詫びします。そんなに早く五回分の説教題と聖書の箇所を決められるはずがありません。

実は少し前から、創世記をこのまま続けてアドベンと、クリスマスに相応しい説教が出来るだろうか、と検討していたのです。すでに、手帳に書いてありました。確認しながら、ゆっくり書き写し持って行っただけの事です。ほんとうは、あれやこれや考えました。創世記から一時離れてクリスマスらしい箇所にしようか、とも考えました。しかしそのうちに何とか出来るかな、となりました。それがこの説教題となっています。

さて、今朝の箇所は、アブラムに対して臨んだ神の言葉です。これがイスラエルに対する神の古い約束、契約であり、旧約という言葉の始まりの一つです。どのような約束だったのでしょうか。見て行きましょう。

元来アブラムの一族は、半遊牧民族であり、後のベドウィン族のように、時に応じて山賊にもなるような人々であったと考えられています。彼らはしばらくカルディアのウルに滞在していました。父親テラは、その一族を引き連れ、西北にあるハランを目指しました。依然として半遊牧民ですが、甥のロトは死海南岸で繁栄する都市国家ソドムで生活することを選びました。アブラムは、ヘブロンを根拠地としながらも、依然として半遊牧の生活を続けました。もちろん自分の土地は所有していません。どうやら子どももいなかったようです。そのようなアブラムへの神の言葉が、今回の約束です。

1節の言葉は、降誕物語でマリア、エリザベツへの神の顕現の場面などでもおなじみの光景です。恐れるべきことがあるから「恐れるな」と告げられます。何もなければ、恐れるなという必要はないのです。罪ある人間が神を見るなら死ぬであろう、と信じられ、恐れられていた時代の事です。「言葉は実態があります」。言葉が臨む、というのは神ご自身が現れる事です。その上、語られる内容が恐るべきことを含んでいます。その故に「恐れるな」と語られるのです。

続く言葉は、ロトの一家を奪還して帰ったアブラムに対する、賞賛の言葉です。

「あなたの報いは非常に大きいであろう」。これは四人の王に対する勝利だけではなく、ソドムの王に対するアブラムの対応が正しかった、ことも理由でしょう。

「報いは大きい」と聞いたとき、アブラムの頭の中をよぎったのは、それらを受け継ぐものがいないときに何を受けても祝福にはならない、ということでした。神の恵みも、それを継承するものがいて、その恵みを受けて人、ここではアブラムですが、彼を覚えてくれる者がいなければ祝福にはならない、と考えられ、信じられていました。

 アブラムは、更にそのことを神に告げます。「私の跡取りはダマスコのエリエゼルです」。

この人物は、アブラムの家の僕としてダマスコで働いていたようです。代理人として取引に当たっていたのでしょう。アブラムは、養子縁組のようなものを結んでいたと考えられています。アブラムは、もはや子が生まれることはないだろう、と考えていたのです。



 ここから御告げは不思議なことを語り始めますます。恐れるような事です。

養子となったエリエゼルではなく、アブラムの実子が後継者となる、と言うのです。

更に、天の星ほどに多くなる、ということも告げられます。現代日本の私たちは、数少ない空の星しか知りませんので、実感が伴いません。しかし大阪でも、あの戦争で焼け野原になった空に輝いた星を覚えている方は居られるでしょう。大気汚染だけではなく、地上の光のために見えなくなることが多いのだそうです。戦中戦後の夜空は、どの地方も同じように闇黒そのものでした。そこでは、満天の星が降るように輝く、と表現されました。

 宗教改革者として知られるマルティン・ルターは、たくさんのエピソードを残しました。

クリスマスの季節、夜道を家に帰り、子どもたちと一緒にお祝いをしようとしていたときの事です。北ドイツのもみの木々がたくさん生えている間を道は縫ってゆきます。空を仰ぐと満天の星、木々には雪が降り積もっている。その雪に星の光が反射してきらめいている。夢見るような美しさ。家に帰りつくと、子どもたちにその美しさを伝えたくて、クリスマス・トゥリーの飾りを考案した。それが白い雪と金糸、銀糸、星を飾ったものである、と言われます。

 意図せずしてルターは、クリスマス・トゥリーの飾りによって、アブラムに与えられた神の約束を顕すことになりました。玉出教会は、随分前から素敵なトゥリーを飾っておられます。その飾りに、今までとは違う、もう一つの意味を憶えていただきたいものです。



 本来アブラムは、もはや子は生まれない、と考えエリエゼルを養子にしているのですから、ここで神が告げる言葉に対して反抗してもおかしくはないのです。ところが、アブラムは、この言葉を受け入れています。

6節、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。



 更に続きます。「カルデヤのウルから導き出したのは私だ。この土地を与えよう」。

確かに子孫の数が増し加われば彼らが生きるための土地が必要になるでしょう。それを与えると言われれば、喜んで受け入れるしかないかもしれません。それでは余りにもご都合主義になってしまわないでしょうか。信じるとは何でしょうか。

 神がアブラムに与えた約束は、人間的に考えるなら実現不可能なことでした。出来ないことを約束してはいけません、と教えられ、育てられたことを思い出します。不可能な約束など約束ではない。そうです。人間の常識で考えて実現可能なことだけが約束の名に価するのです。

 しかしアブラムは信じました。星のように子孫が増えること、この土地を与えられること、この二つを信じ、受け入れました。その故に彼は義と認められたのです。



ここで考えて見ましょう。

第一、 神とは、私が考え、思い浮かべるようなレベルのものではありません。

立教大学のある教授は、このように書いておられました。「人間が、いると考えるような神は居られません。人間がいないと考えるような神も居られません。ただ人間の考えをはるかに超えた神だけが居られるのです」。

第二に、信じるとは、信じ得ないことだからこそ信じるのです。今ここで見ていることは信じることとは違います。目に見えず、手で触れることが出来ないからこそ信じるのです。自分にとって不都合なことであっても、あらゆる不条理についても、それを受け入れ、すべてのことの第一原因者がいる事を認めるのです。

第三に、義と認められる、とは何でしょうか。

それは信仰という行為ではありません。アブラムが信仰のゆえに、神に対して正しい関係を持つことが出来た、と看做されたことなのです。御子イエスが世に降り、すべての罪人の罪を担ってくださった故に、私たちもアブラムの末とされます。

この後にまだまだ不思議なことが記されますが、今日はここまでにします。16節などは出エジプトの預言である、と考えられています。今朝は、アブラムは信じ得ない約束を信じたこと。クリスマス・トゥリーの星や、夜空の星を仰ぐとき、この神の約束を思い出そう、ということをお伝えしました。祈りましょう。
欄外

ところで何故、アブラハムなのでしょうか。

彼が選ばれ、他の人ではなかったのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、押しかけてきたイスラエルの大衆に、悔い改めを求め、神は石ころからでもアブラハムの末をおこすことが出来る、と告げました。私は考えました。

アブラムのその後の生涯を考えると、良いことばかりではない。厳しく神の御旨に従うことが求められ、試みられる。それに応え、乗り越える力を持っている、と認められたのではないだろうか。確かに彼は特別な人です。そして、私たちは、石ころです。神の憐みによって、罪赦され、義なるものと看做された者なのです。