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2009年12月24日

《平和の願い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
イザヤ9:1〜6 (イヴ礼拝説教)

  讃美歌96、100,106,114,98,112,109、
  聖書 ルカ福音書2:1〜20、

 降誕前夜の礼拝、について説明する必要を感じます。
 つい最近の電話で、教会はクリスマス当日に何もしていないのはおかしい、と伺いました。 同時に、何の根拠もない12月25日はおかしい、とも言われました。
御子の降誕は12月25日です。これは、見た人の記録があるわけではありません。
後の教会が、その内的必然に基づいて、決定したことです。
人は誰でも誕生日があり、その誕生が、喜ばれ祝われています。然し、御子イエスの誕生は、教会のすべての人に喜ばれ、祝われて当然なのに、誕生日がない。それは困る。
それで12月25日になりました。当時、ローマの人たちは、農業の神を祀る「サトゥルヌスの祭り」を祝っていました。
それに、12月25日と考えていた「冬至の祭り」を合わせて、クリスマスとしました。

 ところで主イエスの国では、一日の始まりを何処からと考えていたか、お分かりでしょうか。この教会では、この事を何回もお話してきました。ご存知の方も多くなりました。
恐らく現代の諸国では、私たちと同様、真夜中の12時、午前零時から新しい一日が始まることになるのでしょう。昼の12時は正午です。一日は24時間、全世界が同じ時間を辿って行きます。コンピューターを使うこの全世界は、グローバル化の時代です。

 聖書の国、イスラエルでは、今でも一日は日没から日没まで、としています。

 40年近く昔、あの国を訪ねたときの経験があります。
金曜日の夕刻、食事のため、その集落の人たちが食堂に集まりました。旅行者なども一緒です。頭に丸い小さな帽子を載せた人たちもいます。あれは神学生だよ、と誰かが話しています。彼らとその仲間の人達は、チラッチラッと西の窓を見ていました。大きな窓の向こうに、キブツを守るように低い山が北から南へ連なります。その稜線に沿って太い導水管が走っています。遠くガリラヤ湖から水をもたらすものです。まさに命の水です。
西の山に夕日が落ちよう、隠れようとしています。どうやら、この夕日が落ちるさまを見ているようです。私たちも静まり、夕日に見入りました。「ああ、落ちる」。落ちる瞬間、キラッと、宝石のように輝きました。それは美しい様でした。そして同じ瞬間、何処からか歌声が響き始め、ホール全体に広がりました。多分神学生が最初歌い始めたのでしょう。

金曜日の夕刻、それは土曜日、すなわち安息日の始まりです。
ユダヤ教徒にとって「聖なる日」が始まるのです。
神学生は、その瞬間を見極めていたのです。荘厳な一瞬でした。

 これでお分かりいただけるでしょうか。クリスマスの25日は、24日の夕刻、日没と同時に始まります。教会は、降誕前夜の礼拝と言慣わしていますが、実は降誕日のことです。
降誕日、25日に何もしていないのはおかしい、と仰るほうが少し理解が足りない。
勿論宗教的な風習ですが、国自体が宗教によって規定されています。そして例外的に、国際的なかかわりある事は、その慣わしに従うようにしています。

 私たちの一日の数え方からすれば、24日は降誕前夜です。現地では25日がすでに始まっています。私たちは25日に何もしていないのではありません。少し早めに25日を守っているのです。

 喜ばしいクリスマスに、その日時を巡り、守り方を巡って、とげとげしい争いをする事は、誰にとっても喜ばしくないことです。
クリスマスになると、信者もそうでない人も心楽しく、優しく、豊かな気持ちになります。
親切にしたいような気持ちになります。希望があるからでしょう。

 人は誰でも、希望のない人生はを生きることは出来ません。平和が希望を生みます。
ベツレヘムでお生まれになった嬰児は、多くの人に希望を与えるものとなります。
その事は、誕生に関する預言の中に見ることが出来ます。
平和の君と唱えられる。平和へと導く。平和をもたらす。

 祭司ザカリヤの預言をお読みします。お聞き下さい。ルカ福音書1:78,79、
 「これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、高い所からあけぼのの光がわれらを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

 この預言は、バプテスマのヨハネに関わるものです。「ヨハネは、来るべき救いの主の道を備える者になる、と語り伝えられます。それは、高い所から訪れる光であって、私たちの歩みを平和の道に導くものです」と預言しました。

 しかしその御生涯を見ると、決して平穏無事、平和なものではありません。
むしろそれとは、反対のものであったように感じられます。
その始まりは、美しい、平和なものでした。守られていました。エジプト下り、このときはベツレヘムの虐殺を逃れています。やがてナザレへ帰って来ます。穏やかな日々が続いたように感じられます。その間に、父ヨセフは死にます。家族の生活の責任は、青年イエスの肩にかかってきました。

 ユダヤ人として、安息日毎にシナゴーグへ通い、礼拝を捧げ、律法を学び、食物規定を守る生活をしてきました。本来、律法を守れば、平和、平安な生活が保障されました。
然し祭司や律法学者たちが、街道や町の門に立って、繰り返し語り教えても、それを一所懸命守っても、現実はそのような平和にはなりませんでした。

 ローマの兵隊が、駐屯し、わがもの顔をして、特別な権力を振るいます。ヘロデ王の兵隊が、神殿警護を務めとする兵隊が、武力を持っている故に権力を振るっています。
律法を守ろうとしても、守りきれない弱さがあります。自分を正当化する傲慢があります。
 税金は二重・三重に徴収されます。真面目に掟を守り、正直に生きて行こうとしても、少しも喜びや希望は生まれません。心は不安と疑いで一杯になります。
自分の正しさを主張するために、他の多くの人々を踏み台にし、それに気付きもしませんでした。
心の中は、いつも罪の意識との葛藤に苦しみ、平穏、平和とはかけ離れた様子でした。 

 これが当時の人々の状況、そして今の私たちの状況です。成長されたイエスは、このような人々の様子を御覧になり、御自分のことのように悲しまれました。

 こうした生活は、成長するイエスだけのことではありません。イエスの時代、その周囲で普通に起こっていたことです。イエスはそれを見ながら育ちました。成長して、新しい、それまでとは全く違う教え、別種の権威ある教えを語りました。人々を教え、導き、慰めと希望を与えました。

 そしてすべての人々に平和を与えるために、ご自身を犠牲としてお捧げになりました。
罪を知らず、全く正しい神の御子イエスが、自分だけは正しいと主張する人々の罪を担い、十字架の上で罪人として死なれました。
この犠牲の死を見、その甦りに触れた者は、自分の罪を知りました。その赦しを信じました。信じた者たちにとって、イエスの誕生は大きな喜びとなりました。

 平和は、私たちの心の中から始まります。自己中心な思い、傲慢で、他の人の痛みを理解しようとしない心、これらは対立と争いを生み出し、不和を生じます。
み子イエスの自己を棄てた犠牲の死の前で、赦しの愛を知り、できるだけ、すべての人と平和に暮らしましょう(ローマ12:18)。

     感謝と讃美を捧げましょう。祈ります。



 メリー クリスマス アンド ア ハッピイ ニュウイヤー



 クリスマスの音楽は随分昔から歌われてきました。馴染み深いものがたくさんあります。
それだけか、と思っていたら、このクリスマスにたくさんの新しい歌があることを知りました。ビートルズのジョン・レノンとオノ・ヨーコは『ハッピークリスマス』を書き、歌っています。素敵な歌です。永く残り、古典になるでしょう。
古くなるのではありません。常に新しいものになるのです。

べリー べリー メリー クリスマス アンド ア ハッピー ニューイヤー

 このクリスマスは、たくさんのクリスマス音楽を聞きました。コンピューターの操作で、さまざまな国のラヂオ放送を聴くことができたからです。ゴットラヂオという局は、一日中クリスマスでした。他の季節はどうするのか、興味があります。他の時にも、聴いてみましょう。

 この夏は少々からだに痛みがありました。ご心配をおかけしました。
でも薬の効果で、今は元気です。それでも、健康に対する自信はなくなりました。
出来ることなら、もっとゆっくり歩もうと考えています。
もっと厳しい痛み、苦しみと戦っておられる方々のことを、少しは理解するようになれたなら、これも良い経験と言えるでしょう。

   新しい一年が、皆様とご一家にとって充実した良い年となりますよう、

     神の守りと導きを祈ります。   

         2009年12月24日   もちだゆきひと