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2009年10月11日

《上に立つ人々》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ローマの信徒への手紙13:1〜10

 聖霊降臨節第20(三位一体後第19)主日、神学校日・伝道献身者奨励日
 讃美歌79,234A、304、交読文5(詩90篇)
 聖書日課 詩編52:3〜11、
   申命記4:1〜8、ローマ13:1〜10、マタイ22:15〜22、

 先週は、台風18号上陸のニュースがトップでした。二年ぶりの台風上陸、ということもあったのでしょう。珍しければニュースバリューは高くなります。
私自身は、南をかする程度だろう、と予測しながらも、雨・風の勢いが気になり、何回か起き上がり、外の様子に耳を傾けました。2時ごろには雨も風も静まっていました。3時ごろから風の勢いが強くなりました。やがて雨も降りました。
 かつての伊勢湾台風と同じようなコースを辿ったそうですが、大きな被害にはならず、幸いなことでした。それでも農業関係、水産・漁業には被害があり、亡くなった方もあります。

 海外では、サモア、インドネシア・スマトラ沖、更にソロモン諸島のバヌアツで大きな地震があり、被害が出ています。
天災、自然災害が続きます。しかし本当に天災と言えるのか、疑問です。台風、地震のような現象は、自然の領域に属します。その被害は人災に属する部分がありはしないでしょうか。

 中国・四川省の大地震では、学校の校舎が倒壊し、話題となり、問題となりました。大勢の生徒が下敷きになり、いまだに捜査も進んでいないようです。親たちも誰に訴えれば良いかすら分からず、悲しみを胸に秘め、押し黙っています。共産党幹部や省政府の要人が、校舎建築を食い物にして私腹を肥やした結果だからです。人災です。

 本日の主題は《上に立つ人々》。その意味する所は、一つの民族、国家の政治を担い、国の歩みを指導する人たちのことです。さまざまなレベルの「上」があります。国家だけではなく、企業にも、地域社会にも、スポーツや芸術、教育の世界でもあらゆる世界に「上」があり、そこに立つ人々がいることは、私たちが知るところです。
 本来の《上に立つ人々》は、貴族であり、王を補佐して、国の政治に当たる人々を指します。支配階級、貴族、富裕層ということになるでしょうか。

 ローマ13:1〜2、違う訳も読んでみましょうか。
 「すべての人間は上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。したがって、その権威に逆らう者は、神の定めに反抗することになり、それら反抗する者たちは、自分自身に裁きを招くであろう。」これは岩波版、次は木下訳。
 「どんな人も、権力をもっている支配者らには従いなさい。というのは、どんな権力でも神より出ないものはないからです。現在権力をもつ人は、神からその権力を授けられているのですから。それだから権力に逆らう者は、神の定めた秩序に反抗することになるのです。だから反抗する者には、(神が)その人に刑罰をお与えになるでしょう。」

 権威あるいは権力と訳されている語は、エクスーシア です。
行動する自由ないし権限、を元の意味とします。そこから、権限、権威、権力、権能、権利、自由、支配する力、勢力を指すようになりました。
私たちのことばの世界、日本語、漢語では、だいぶ意味の違う言葉も一緒になっています。
それほど意味に幅があるようだ、とご諒承いただければ宜しいでしょう。

 同じような主張は、他にも見受けられます。
ペトロ?、2:13〜17、これは初代の教皇と目されるペトロの言葉として、重んじられましょう。ここでは、人の立てた制度に従うことが求められ、教えられています。従うことは善であって、それによって愚かなな人の無知な発言を封じることが出来、それは神の御旨である、と記されます。

 テモテ?、2:1〜2もほぼ同じことを勧めます。ただ、私たちが平穏で落ち着いた生活を送るため、と理由付けられています。テトス3:1は説教者への勧めですが、服従を勧めなさい、と書いています。説教の内容に注文をつけたのでしょうか。

 ローマ帝国時代の特徴が良く出ているように感じます。人に服従する以上に、制度・体制そのものに服従することが求められています。ローマ法によって多民族国家が統治され、パックス ロマーナ、ローマの平和を享受した世界を重んじる考え方です。
 何時頃からか知りませんが、「ノブレス オブリージュ、高貴な人の(覚悟する)義務」という言葉が知られています。新しい考えによる訳では、「義務を覚悟する人の高貴さ」とされ、これを支持する人もあります。
 どのような義務があるのでしょうか?
あるいはどのようなことを高貴な者の義務と考えているのでしょうか。

 欧米人の生活、生き方を見るとわかるでしょう。弱い人たちのための配慮が当然のようになされます。例えば、社会奉仕、献金などで、そのための税制なども整っています。
欧米の学校や病院は、多くの人からの小額の献金で維持され、運営されます。一方、その創設時には特定の個人からの多額の献金で創られることが多いようです。そのため、その個人の名前をつけていることが多いのです。スタンフォード大学もそうです。新しい大学では、州政府によって作られたりしますので、ジョージア州立大学となります。
上に立つ者は、下の者たちのことを配慮する義務がある、と考えられたようです。

 もう一つの義務が考えられています。国家、民族、集団の指導者、指揮官の場合、政策や作戦、方向を決定・決断する時、孤独を経験する、と言われます。この孤独も高貴な者の義務 ノブレス オブリージュに属するとされます。麻生前総理の発言の中に、御自分の決断に関しこの言葉があり、少々違和感を覚えました。

 これを書いたパウロは何を考え、何を伝えようとしたのでしょうか。
紀元64年夏、ローマは劫火に包まれました。市民の間からは、皇帝ネロが、ローマの町に火をつけさせ、その燃える様を別荘から詩に詠っている、と噂されます。古の詩人ホメーロスを凌駕する自分の詩人としての力を証明するため、トロイヤの炎上と重ね合わせて歌おうとしたのだ、とまで言われたようです。

 この噂を打ち消すために皇帝は、配下の者を使って、キリスト教徒が火をつけた、と噂させ、信徒を逮捕します。キリスト教徒への迫害が始まりました。帝国全体に及ぶ大規模なものは少なく、地域的、時期的に限定されたものが多かった事は、不幸中の幸いと言えるでしょう。限定されていれば、他の地域へ逃げることも出来ました。静まれば、帰ってくることができた、と聞きます。

 このネロ帝によって処刑されるパウロは、権力、支配者の実態を知らないために見当はずれなことを書いているのでしょうか。それに続く教会は、パウロや使徒たちの言葉を墨守したに過ぎないのでしょうか。そうした一面はあったかもしれません。しかし教会は意識的に、意志的に、決然として支配者による迫害を甘受したようです。少なくとも、見苦しく逃げ隠れすることはしなかったのです。どの様にすれば、主イエス・キリストの栄光を顕すことができるか、と考えました。その結果が、『教会は殉教者の血潮の上に、建てられ、築かれている』という言葉になりました。

 もう少し教会の歴史から学ぶことにしましょう。

 一つは宗教改革者たちのことです。日本では余り知られていませんが、ルター、カルヴァンに先立つ改革者として、サヴォナローラ(1452〜1498)という人がいます。ドミニコ会修道士であり、大変雄弁な説教者として頭角を顕します。メディチ家が支配するフィレンツェで活動し、先鋭的・革命的な説教をします。民衆の大多数に支持されます。メディチ家を追い出し、サヴォナローラが支配する神政政治を布くようになります。彼は決して革命を考えていたわけではないでしょう。民衆は先走って、美術品や書籍を燃やすようなこともしました。サヴォナローラは、ボルジア家の教皇アレサンドロ?世に期待していました。有能で経験に富む教皇だと考えたのです。しかし現実は、ルネサンス教皇の中でも最もそれらしい教皇でした。結局、教会の腐敗の原因は教皇庁にある、と攻撃したため教皇庁より破門され、のち絞首火刑に処せられます。
 サヴォナローラは、反抗、反逆を企てたのではありません。意図に反して流されました。

 ルターの改革については良く知られています。
 1517年、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に95か条の論題を掲出、ローマ教会の免罪符(しょくゆうけん)販売に反対を声明します。
アウグスブルク国会に召喚されたルターは、教皇に対し服従することを求められ、応えます。『ペテロでさえ非難すべきことがあり、パウロから叱責されたではありませんか。ましてその後継者の教皇においておや』と。
 1521年のヴォルムス国会に召喚されたルターは、自説の取り消しを求められ、『聖書と明白な理性によって悟らしめられない限り、自説を撤回することは出来ない』と拒否します。
理性を挙げているのは、啓蒙主義時代の特徴でしょう。その冷静さは大切です。
それでもやはり、基準は聖書です。聖書が正典である、というのは、すべての信仰領域において基準は聖書である、ということです。
ルターも反抗、反逆を意図していたわけではありません。聖書の語るところを主張しているうちに、押し流されて行きます。
 上に立つ者が、神を、聖書をないがしろにする時どうするか、どの様に考えるか、ということが、私たちの問題です。それは、上に立つその人の信仰を問題にすることではありません。そのときの基準は聖書です。本日の聖句は、10節までとなっています。聖書全体は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という一語に要約されます。
隣人を自分のように愛しなさい、これは自分自身に向けられる言葉です。次いで、全世界に向けて語られるものでしょう。他の者を裁く基準にすることは出来ません。
 
 上に立つ者が、隣人を愛さない時、虐げる時、私たちは隣人の傍らに寄り添うことが求められます。そこからルターの改革も始まりました。改革へと進まざるを得なくなりました。その先は、その時に示されるでしょう。義務を果たす「上に立つ人々」のために祈りましょう。見守りましょう。

 基準を聖書に置き、信仰者として愛をもって発言することが出来るのです。