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2006年4月9日

《十字架への道》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書11:1〜11

教会暦では今朝より、四旬節、最後の1週間に入ります。受難週と呼ばれます。
日課に従って、今朝の聖書の箇所をご一緒に読みましょう。
与えられたところは、主イエスが最後にエルサレムに入られる準備段階の出来事です。

ベトファゲとベタニアは地名です。エルサレムの東南にオリブ山があります。そこを越えて更に東へ少し行ったところに、これらの村があります。ベトファゲは山の上、下ったところにベタニアとも言われています。エルサレムの人々にとっては郊外地。エルサレムは緑も少ないので、この緑豊かな村は、いわば別荘地のような役割も果たしたようです。夜ともなれば、ここに帰って行くところだったようです。

誰も乗ったことのないロバの子、これにどのような意味があるのでしょうか。
神様のご用に当たることが出来るのは、未だどのような仕事にも就いたことのない人だけに許されること、と聞いたことがあります。
それは、読みすぎです。主はそのようなことを語っていないし、福音書記者もそのようなことを書くはずがありません。何故なら主イエスは、大工を仕事としておられました。弟子たちもそれぞれ、定職を持っていました。ガリラヤ湖の漁夫、徴税人などは良く知られています。経験豊かな職業人が、主の証し人として用いられているのです。
誰も乗ったことのない子ロバは、物や人を背に乗せることを嫌がります。
福音書記者は、そのようなものを指示なさったことに驚きを感じたことでしょう。一体どうなることやら、と感じてもおかしくはありません。
ところが、主はその子ロバを難なく乗りこなしてしまうのです。
記者は、そのことに驚きを感じ、主はこのように不思議な力を持っておられる、と伝えたかったのです。

十字架が待っていることをご承知の上で、歩みを進めている主イエス。それは敗残者のものではなく、依然として力に満ちておられ、豊かなものである、と告げられるのです。

主がお入り用なのです。古くは、主の用なり、と訳されました。そして、何の値打ちもない子ロバのようなものが主のご用に用いられるのです、と説教されました。更に、ろばのように愚鈍・頑固なものでも用いられます、と言われました。励まされて、ご用に立つことを決断した者も随分の数になるでしょう。私などもこの言葉がなければ、確かに劣等感にさいなまれて、脱落していたことでしょう。確かに励まされる言葉です。
しかし、今考えてみると、ロバはそんなに値打ちのないものでしょうか。
ロバは丈夫です。頑健で、乗用に、運搬用に用いられました。大変有用な動物です。
うし、うま、らくだ、と並ぶ大事な値打ちある家畜です。想像以上に賢さも持っています。
とすると、どうなるのでしょうか。このところで、主の用なり、とはどのような意味を持つのでしょうか。

主が、その持ち主とあらかじめ約束しておかれたのだろう、と考えるのが、第一です。主は様々な事柄を、注意深く準備しておられることを知るべきです。教会のことは主が計画し実行されるから、私たちは、何ら準備しなくて良い、と考えてはなりません。この世のことは、十分できるだけの準備をするように求められているのです。

次に、未だその能力や資質も十分に分かっていない者を、主は用いられた、ことに注意しましょう。誰も乗せたことがない子ロバです。これから誰を乗せるかも知れません。何をするようになるかも知れません。長い生涯、その初めに主によって用いられたものは幸せです。用いられると言うことは認められることであり、その中には愛があります。感じられます。誰でも、生涯の初めに愛を感じるならば、その生涯を誤ることは少ないのです。

用いられた子ロバ、という物語は、価値のない無用なものが用いられたことを告げようとするのではありません。誰であっても、神が能力を与え、用いようとされています、と告げるのです。私たちには望みが与えられるのです。愛が与えられるのです。

5節では、子ロバの持ち主たちと弟子たちの話し合いが記されます。このあたり、主が事前に話をつけていた徴の様に読むことが出来ます。「その子ロバをほどいてどうするのか」。
恐らく、盗もうとしている、という疑いをこめた激しいもので始まったことでしょう。
更に、事情が分かってからは、訓練も出来ていないものを連れて行けるのか、という心配もあったでしょう。もっとも、上に乗らなければおとなしく曳かれて行ったでしょう。

二人が戻ってくると、彼らはロバの背に自分の上着を掛けて、イエスはその上にお乗りになった、と記されます。そして、多くの人たちが自分の服を道に敷きあるいは、野原から葉の付いた枝を切り取って来て道に敷いた。そして歓呼した。ホサナ、ホサナ。
これは、元来ヘブライ語の「ホーシーアー・ンナー」、アラム語の「ホーシャー・ナー」。
「ああ、救いたまえ」を意味する。元来祈願の表現だが、やがて典礼的歓呼の声ともなった。

大の大人が子ロバの背に乗って道を進み、人々が争って上着を、枝を道に敷いている光景は、ある種滑稽でありながら、反面それだからこそ、悲壮感すら与えられるものです。
主は三度、自らの受難を予告されました。この道行きの先に待っているものをよく知っておられます。その苛酷さを知っておられるのです。それでも民衆の歓呼を受けられます。本来、王を迎える時になされることです。
やがて、後の日に、歓呼の意味が民衆にも判るようになるからでしょう。知らずに歓呼したが、それには深い意味があったのだ、と理解するようになるのです。

民衆は、自分たちの生活を良くしてくれる助け手しか期待していません。
そのような助け手は、立派な軍馬に乗って、音楽と共に、花を振りまき、威風堂々と行進するでしょう。しかし主イエスがなさった準備は、子ロバを用いる、と言うものでした。
そこに主イエスの主張があります。私は、世の人々が期待する世直し様ではありません。
私はすべての人の主でありながら、すべての人に仕える僕としてきました。この命を与える神の愛の表れなのです。

十字架への道、それは一週間の事ではありません。降誕から始まる主イエスの生涯全体が、十字架への道です。これは失敗や、挫折の道ではありません。神の計画に従う道でした。この最後の道筋でも、不思議な神の子の力は輝いています。不思議な愛の力を発揮しておられます。その力が、子ロバをも従わせたのです。
ヨハネ福音書は、13:1でこのように記します。「イエスは世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。量的、質的、時間的な極限まで愛し抜かれたことが語られています。それが、この上なく、と訳された言葉の意味です。これこそ十字架の道の指し示すものです。
 
欄外

ゼカリヤ9:9参照
列王記上9:13参照
ハレル詩篇(詩篇113〜118)
ヨハネ3:1、「この上なく」ギリシャ語で「エイス テロス」
 テロスは、終わり、最後、極限などの意味を持つ語。

ローマ教会、プロテスタント教会双方から高く評価されている神学者の一人に、アウグスティヌスという人があります。5世紀、カルタゴのヒッポで司教の時、南下してきた蛮族ヴァンダール族に包囲され、そのさなかに『神の国』を書き上げて亡くなります。彼がクリスチャンになる以前は当時流行のミトラ教にかぶれていました。また放蕩三昧の日々を送っていました。それを嘆いたのが母モニカでした。日夜、息子がキリストを信じる者になるよう祈った、と伝えられています。その甲斐あって回心し、司教にまでなります。後の世の人は、「かかる祈りの子は決して滅びない」、と語り継いできました。