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2009年9月27日

《新しい戒め》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
エフェソ5:1〜5

聖霊降臨節第18(三位一体後第17)主日、
聖書日課 出エジプト20:1〜17、エフェソ5:1〜5、マタイ19:13〜30、詩編119:33〜40、
讃美歌11,246,525、交読文28(詩119篇)

 前主日は、消火器投げ込み事件が起こり、一日中、落ち着かない気持ちで過ごしました。
礼拝堂全体が白い粉末に覆われていました。多分深夜から6時くらいまでに投げ込まれたものでしょう。
 普段から、何事があっても動揺しない様に、落ち着いているように、自分自身を戒めているつもりですが、何の役にも立ちません。いささか動揺しました。礼拝はここでは出来ない。ホールでしよう。警察へ連絡するか、どうする。その場合、現場検証があるだろう。
 礼拝前に終わるだろうか。これは姫松教会と同じ事件だ。他の教会にも被害が及ばないよう、警察に通報しよう。
 日曜の日課で、7時にこの講壇に入っていました。聖餐卓の向こうまで降りてから、転がっている消火器、割れている窓ガラスを確認して牧師室へ引き返し、電話をかけました。7時半まえには、交番の巡査が来て、続いて刑事。消火器から指紋が採れそうだ、と言って、持って帰りました。8時半ぐらいには、おおよそのことが終わりました。
 「主日礼拝は会館ホール、その後何とか掃除をして、記念会は礼拝堂で行いましょう。」これは、役員のかたがたが言ってくださいました。そしてその通りに出来ました。
これが玉出教会信徒の底力、と感じ入りました。本当にお見事です。

 さてこの事件に、私たちは如何に対処すれば良いのでしょうか。どの様に考えるのでしょうか。不快な事件、気味の悪いこと、恐ろしい、放火でなくてよかった、グループだろうか、一人でしょうね、心の病気でしょうか、いろいろなご意見がありました。
 西成警察管内では、最近消火器関連の事件が連続している、とのことです。
玄関先などに撒き散らす、嫌がらせの愉快犯事件、これは反社会的事案と考えましょう。
それとは別に、この一年間に40件超の、教会への同様事件があります。大阪を中心に京都、神戸に広がっています。反キリスト、反教会の事件と言うべきです。
事象・現象は同じでも、その本質は異なります。それぞれ対処の道も異なってきます。

 此処で本日の主題、《新しい戒め》を学びましょう。聖書は、エフェソ5:1〜5です。
エフェソの信徒への手紙は、パウロによって書かれたとされていますが、それを疑う学者もかなりあります。恐らくパウロの名前と権威を借りて、教えを集め、書き送ったものでしょう。そのことは、具体的な時期、場所がないことから推測されます。
パウロの真正の手紙には具体的な問題、時期、場所、人物が伴ないます。
また、他の手紙とは、使われている言葉がかなり違います。
確かにパウロが自分で書いたものではないとしても、そこに書き込まれた教えの内容はパウロのものである、と認められます。疑いはあるけれども尊重される手紙です。

 パウロとエフェソ教会の伝道事情については、使徒言行録19,20章からかなりのことが推測されています。パウロはエフェソの町で、イエス・キリストとその教えについて三年にわたり語ります。手応えのある状況でした。そのためでしょう、エフェソの町の大いなる守護神アルテミスを礼拝する者たちと論争になります。論争は、多くの場合、負けそうになったほうが暴力的手段に訴えようとするものです。ここでも暴動が起こりそうになりました。真理問題のように見えますが、その実、経済問題でもありました。アルテミス神殿の模型を造り販売していた者たち、銀細工人たちは、パウロの「手で造った物など神ではない」と言う主張によって、多くの客が買ってくれなくなることを心配しています。利益を獲ることが出来なくなる、と言っています。
 町の指導者は群集を抑えますが、パウロはエフェソを去ることを選び、聖霊に励まされエルサレムへ行こうとします。その途中ミレトスに長老を呼び寄せ、彼らを励まし、勇気付け、別れを告げます。有名な「ミレトスの別れ」の場面です。

 そしてこの手紙との関係ですが、直接的なものは見受けがたい、というところです。
敢えて見出すとすれば、エフェソの教会の中に不一致がある、ということでしょうか。

エフェソの町で教え、危険をも顧みず大胆に論争したパウロ、彼が去ったのち、彼の教えを守る者と、早くもそれを忘れようとする者に分かれ、争うようになってしまった。悲しいことに、これが教会の現実でした。
 いや、決して悲しいことではありません。伝道者は自分の教えや、自分の人柄がいつまでも記憶されることなど求めません。かえつて自分に関する記憶は忘れられ、ただキリスト・イエスの教えが、救いが、キリストご自身が、いつまでも記憶されることだけを願うものです。

 私たちが悲しいと感じることは、私たちのために命を捨ててくださった主イエスを受け入れない人々がいることです。主イエスから離れ、忘れてしまう人がいることです。
そうならないために、パウロは集会を続けるように、集会から離れないように、と勧めています。ひとりでは信仰を守ることは難しくなるのです。みんなで力を併せる時、共に讃美と祈りを捧げる時、信仰は強められ、深く、強くなります。

 私のもとに『バベットの晩餐会』というヴィデオ・テープがあります。スェーデンの作品かな、と思います。海岸に小さな集落があり、福音派の牧師に指導される敬虔な信仰集団です。牧師の死後、二人の娘が継承して信仰を守ります。当然高齢化して行きます。
ケアーグループのような状態となり、いさかいが絶えないようになります。その中で望みと慰めを与えるのがバベットです。パリの有名なレストランの女性シェフですが、革命を逃れてこの海岸に漂着し、牧師に助けられ、料理人の腕を振るいます。安い費用で美味しい食事を提供することに喜びを感じます。パリへ帰ろうとはしません。

 ある日、彼女が密かに買い続けた宝くじが当たりました。バベットは晩餐会を準備します。ウズラ、海がめなど。そしてブーブ・クリコのシャンパン。最初集団のメンバーはこんなものは食べない、としていますが、恐る恐る口をつけ、顔が緩み、口がほどけます。喧嘩状態だった人たちが優しい言葉を掛ける様になり、表情も柔らかくなります。亡くなった牧師様を思い出し、たがいの状態を思い、恥ずかしくなり、謝り、やがて輪になって、手を繋ぎ賛美するようになります。

 随分昔のものです。忘れました。でも忘れられないこともあります。頌栄女子学院のクラスで一緒に見たときのことです。一人の生徒が、「バベットはイエス様だ」、と言いました。素晴らしい感性です。
 この映画では、バベットは信仰集団の外にいて、働く人のように描かれています。それでいて、最も深くその中にいるのがバベットでした。肉の糧を提供するから、ということもあります。その肉の糧は、最も深い意味で霊の糧になっていたのです。二重、三重の意味で、また形で、外のものが内のものになることが示されていたようです。

 《新しい戒め》は、イスラエルの律法を新しい形にすることではありません。新しい束縛を与えようとするものでもありません。キリスト・イエスの愛の内に入りなさい、という招きなのです。
 私たちは、エフェソ5:1〜5を読んだ時、いろいろのことを感じるでしょう。新しい戒め、と聴いた時、何かを考えるでしょう。きっと3節にも心引かれるに違いありません。「聖なる者にふさわしく」、私も聖なる者なのか?  そんなことはない、と考えるでしょうか。
むしろ、感謝し、励まされて、汚れたことを口にしないようにしよう、と考えるでしょう。
3〜5節にあることは外の形です。これを守ることも難しいのですが、先ずそこへ入って行きます。形だけ守ることは出来ます。心が伴わなくても出来るのです。それらしくなるでしょう。

 2節、「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
これは内側のことです。外の形に対するうちの心です。ここに招かれています。
うちに入ると、自ずから外が整いますよ、と言われているのです。
なぜなら、私のために命を捨ててくださったキリストが居られるのですから、その口からは感謝が溢れるからです。

 私たちは、本来、キリストの愛の外に存在しているはずです。愛の対象外。
背く者、罪人、傲慢な者、自己絶対化を図る者、裁く者、神の座に立つ者。
私たちはキリストの愛の外に立つものです。
その私たちが、愛の内に入るように招かれているのです。

 もう一度、消火器事件を考えましょう。
投げ込んだのは誰か。その動機は何か。そこに至るまでの経過は。生育歴は。
捜査はどうなっているだろうか。同様の事件は続発しているのか。
これらを考えている私たちの動機は何か。愛か欲か、単なる好奇心か?

 反社会的行為に関しては、社会を構成するメンバーには、それぞれ責任があります。
それは各人において果たされるべきです。社会の安全を守るために市民としての義務を果たさねばなりません。警察が市民の安全を守る活動をします。その活動に協力します。

 反キリスト、反キリスト教会の事件であることに関しても責任があります。
どのような経過があったのか、何がそのようなことに走らせたのか。
誤解や未知・錯覚故に反キリストを主張することはあります。
本当の反キリストはなかなかない、と言われます。キリストには反対し難いのです。
 然し、反クリスチャン、反教会は何処にでもある、と聞きます。
それはクリスチャンが、そして教会が、いわゆるクリスチャン、SO CALL CHRISTIAN になって満足しているためです。幼児であっても本物を判別します。知識、経験のある人はそれ以上、と言いたいのですが、それが判断を曇らせることもあるようです。

 この連続している事件は、教会がどの様に活動し、何を目指して存立してきたか、考える機会となります。つらい事ですが、本当に新しい戒めを生きてきたか、自ら調べましょう。

 キリスト者、クリスチャンとは、キリストの者、を意味します。所有されている、所属しているものがクリスチャンです。本当にキリストのものとなり、すっかり所有され、所属しているでしょうか。

キリストの愛の内に招かれ、それに応えて愛の内に入り、愛と感謝に溢れているなら幸いです。 感謝しましょう。