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2009年7月5日

《主にある共同体》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ6:22〜34

聖霊降臨節第六(三位一体後第5)主日、
讃美歌85,240,285、交読文42(マタイ伝6章)
聖書日課 イザヤ49:14〜21、使徒4:32〜37、マタイ6:22〜34、詩編133:1〜3、

沖縄の梅雨は明けました。同時に本土の梅雨はこれから本番、後半の大雨が待っていると聞きました。必要な雨です。しとしとと降る雨には風情があります。それでも毎年のような被害だけは願い下げにしたいものです。
先週の水曜日は7月1日でした。この日、今年初めて、セミのさなぎを見つけました。
ようやく地中から地表面に出てきたのでしょう。残念なことに条件が合わなかった様で、適当な所に取り付くことも出来ず、固い形のまま、死んでいました。いよいよ夏本番も近い、と感じます。

 暑い夏は、空調完備の病院の中に生活していても、大きく影響するようです。多くの教会員が、現在も入院中です。特に覚えて祈りたいものです。

 さて本日の聖書ですが、マタイ福音書6:22〜34を先ほどお読みいただきました。
山上の教えの一部、中でも最後の部分は、多くの人が愛誦します。
「明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む」
この言葉は、どれ程多くの人を苦悩から解放してくれたことでしょうか。幸いに満ちた言葉です。然し中には、思い悩むべきことを放棄する言い訳に使い、他の人に苦悩を押し付けてしまうこともあったようです。

 ここにはもう一つ問題があります。何故思い悩むな、と言われているのか、ということです。25節が答えています。
「空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
さらに30節に同じことが語られます。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」

 そうなのです。思い悩むのは信仰がないから、薄いからです、という部分を都合よく見ない、忘れてしまう。まことの神への信仰があるなら、神が養ってくださることを信じ、信頼し、悩みから解放されなさい、と言っておられます。
まことの神への信仰がないなら、悩むのが当然ですよ。神が装ってくださることが解らないのですから。信仰の有無が前提になっています。

 ところが現代の人間は、大変なご都合主義者です。神は死んだと叫びながら、すなわち神への信仰を放棄しながら、悩むべきことも同時に放棄しようとしています。
イエスを主と仰ぐ教会は、信仰によって多くの悩みから解放されることを知らせます。
同時に、信仰ゆえの悩みが生まれることも告げ知らせなければなりません。信仰によって、自分自身と他の多くの人たちの痛みを強く感じるようになります。悩むでしょう。そのときこそ、神が導き、養い、装ってくださることを思い出し、平安を得ることが出来ます。

このような私たちが、一つの信仰に立って礼拝する時、そこには《主にある共同体》が実現しています。

『共同体』、この言葉は何時頃から用いられるようになったものでしょうか。
20年ほど前のことです。教会で、年配の方から質問されました。
「この頃、共同体という言葉が使われますが、どのような意味でしょうか」
意外な感じを受けました。神学校の頃から使っていたものですから、すでに教会では用いられ、理解されている、と考えていました。それまで何処の教会でも質問されなかった、ということもあります。少々慌てさせられました。丁寧に説明し、お分かりいただいた、と思っています。
以来、この言葉だけではなく、新しそうな言葉、聖書や教会の専門用語に属する言葉に、気を付けるようにしています。勿論、神学生の頃から、そうした言葉は出来るだけ使わない、使うときは説明を加える、と教えられてきました。この頃、少し手抜きしているかな、と感じることがあります。玉出教会の方たちは、良く勉強され、鍛えられていらっしゃるから大丈夫だろう、と思うためです。それでも気をつけます。

 手元にある二つの辞書、辞典に当たってみました。

先ず1963年、教文館発行の『キリスト教大事典』、これは大変大きなものですが、「共同体」の項目はありません。当時はこの言葉はあまり用いられていなかったのでしょう。

 良く出来た辞典です。思い出があります。私が神学校に入った年ですが、牧師になったら買う事は出来ない。買うなら余裕のある今しかない、と考えて大枚を投じました。その後『聖書大辞典』『聖書語句大辞典』も同じように購入しました。初任給一万円の時代に、各6500円以上ずつ、随分思い切ったことをしたと思います。でも役立ちました。

 比較すると新しい2003年発行の岩波版『キリスト教辞典』、7500円、これは大して大きくはありませんが、一ページ二段組みの一段を用いて解説しています。この間40年、新しい言葉が使用されるようになるものです。
 こうした例を挙げると、ジェネレーションギャップ、世代間格差ということが良く分かってきます。世代によって言葉が違う、同じ言葉を使ってもその意味が違う、ということなのです。

 岩波版による定義をお取次ぎしましょう。
共同体、ギリシャ語のコイノーニア、英語でコミュニティ。
旧約聖書ではヤハウェとの契約に基づく共同体が根本。同胞、兄弟、隣人が互換概念。
新約聖書ではキリストの神の国的共同体が中心。差別なき(エフェソ4:1〜6、ガラテヤ3:28)、一つのキリストの身体(?コリント12:12以下)を構成する共同体。
エウカリスティア(聖餐の交流、?コリント10:17)や原始共産制が実現される(使徒2、4:30以下)。これは、アガペー(異邦人や敵への愛)によって普遍的共同体に分枝する。
伝統的で硬直した修道会組織に代わって、テゼーやラルシュ(箱舟)などエキュメニカルな小共同体は、国家や民族の壁も越える共同体を目指し、注目される。

 これで、どのような共同体があるかは分かります。それでは共同体そのものは何か?
「喜びの共同体」、「復活の共同体」、「苦難の共同体」と言うような用い方がされました。
そこから考えると、何事であれ、一つの物、事、人、記憶、目的、思想、などを共有すること。そこから生じる集団を言うのではないでしょうか。共有する集団。
《主にある共同体》は、主イエスを告白する所に成立します。ですから「礼拝共同体」でもあります。『教会は礼拝によってたちもし、倒れもする』と言われるとおりです。そして同じように、『礼拝は説教によってたちもし、倒れもする』と言われます。主にある共同体は、主の御ことばの説教を分かち合い、共有する所に成立します。

 この共同体の意味をもう少し違う角度から見ることにしましょう。使徒言行録4:32〜37です。220ページ。本日の聖書日課のひとつです。小見出しは、「持ち物を共有する」とあります。読んでみましょう。
 32節には、信仰をひとつにしたものの群れは、「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだというものはなく、全てを共有していた」とあります。
この状況は、原始共産制と呼ばれています。その背景には、『主は近い』という信仰がありました。やがて、人々が考えたほどには近くないことが理解され、再び私有制に還ります。その一方で、ある人々は共有制の集団を作りました。『祈りと労働』の修道院の形です。

 ここでは、消費財の共有だけではなく、土地・建物を修道院が所有する生産財の共有に近い形がとられました。そこから消費財も生産され、共有されました。文字通り「全てを共有し」ました。ここに記されることは、言行録2:44の繰り返しです。
「信者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」
ペンテコステの直後、教会誕生直後は、このような状況だったのです。

ここから二つのことだけ確認しましょう。
第一、『全てを共有した』という時、それは物資だけではありません。目に見えるものを共有しただけではなく、文字通り、全てだったと理解します。生活を共にしました。そこからは、生活の中で生じるあらゆる悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びも共有されました。
私たち、現代の人間は、プライバシーを大事にします。確かに他人の生活の中に、土足で踏み込むようなことをしてはなりません。然し、愛することは、他の兄弟姉妹に対し関心を持ち、心配することです。関心を失うようでは、愛の存在が疑われます。《主にある共同体》である教会は、本質的に愛の共同体です。アガペーの共同体です。

 第二、金持ちの青年は、永遠の生命を得る道を求めてイエスのもとに来ましたが、主イエスの言葉にたじろぎ、すべてを捨てることは出来ない、と考え、去って行きました(マタイ19:16以下)。自分のために蓄えられたものを他の者たちに与えてしまうことに不安を覚えたのでしょう。他の者たちと共有することが出来ませんでした。現代の私たちも、ほぼ同じ状況です。自分のものを確保したい、という願いです。

 然し、今や世界は全てを共有することを求めています。それは本来の、創造の秩序を回復することの求めです。宇宙船地球号は、生命共同体です。全てのものが共有される世界こそ本来のものです。『主イエスに結ばれて』、これが『主にあって』の新しい訳です。主に結ばれている者たちは、大胆に共有する世界を求めます。

 私たちは、この言葉の前で、たじろいではいないでしょうか。
愛の共同体、全てを分かち合う者たちの群れ、と言われて、誰もが自分たちの現実とは違う、と感じ、たじろぎます。キリスト教を信じる者は、たいていすこぶる良心的です。嘘を言えないのです。正直者です。そのために、普通の人が悩まないことを悩んでいます。

信仰ゆえの悩みですから、悩みましょう。愛ゆえの悩みですから、苦しみましょう。そして祈りましょう。そして神にお委ねしましょう。

 その時、神は、養い、装ってくださいます。大胆にお委ねすることが許され、求められています。感謝しましょう。